満開の藤の下にて
案内人さんが連れて行ってくれた庭園には、言われたとおり、見事に藤の花が咲き誇っていた。
房の長さが1メートル以上ある、数え切れないほどの藤の花が、見上げる位置で、柔らかな風に揺れている。
「わぁ……! すごい! こんなにたくさんの藤、一度に見るのは初めて!……ハァ。テレビで観るのとは全然違うなぁ。やっぱり、生の迫力には敵わないよねぇ……」
うっとりと見惚れながらつぶやくと、
「あぁ? どこで見るのとは、全然違うって?」
イサークが怪訝顔で訊いてきて、私はハッと我に返った。
ヤバ……っ!
うっかり〝テレビ〟とかって言っちゃった!
ザックス王国には――ってゆーか、この世界には、まだテレビみたいな電気機器は存在してないんだよね?
うぅ……。
マズいマズいっ。
なんかテキトーにごまかさなきゃ!
「え……っと、あのぅ……。と、遠くから見るのとは、やっぱ違うなーって思って!……うん、そう! 藤の花って、すっごーーーく遠くからしか見たことなかったから! こんな間近で見ると圧巻だよねー。アハハハっ。アハっ」
頭をかきつつ、わざとらしく笑っちゃったりなんかして。
……やっぱり、こんなんじゃごまかせないかな?
突っ込んだ質問されたらどうしよう?
冷や汗タラタラの私の予想に反し、イサークはすぐさまうなずいてくれて、感心したようにこちらを見返した。
「へーえ。こんな花、俺は初めて見るけどな。やっぱ姫さんともなると、珍しー花もたくさん知ってんだな」
「えっ、珍しい? イサーク、見るの初めてな――っ、……の……?」
瞬間。
鋭い視線を感じ、私はゴクリとツバを飲み込んだ後、恐る恐る顔を横に向けた。
――案の定。
先生が厳しい顔つきで、ジーッと私を見つめている。
……あれ?
もしかして藤って……ザックス王国にはない花だったり、する?
遠くからでも〝見たことある〟ってこと自体、おかしいことだったのか……な?
とたんに心配になってきて、今度は案内人さんに目を向ける。
彼は不思議そうに首を傾け、私と目が合うと、明らかに愛想笑いだとわかる笑みを浮かべた。
「藤は、我が国にしかない花だと思うておりましたが……。さすがは大国、ザックス王国の姫君であらせられますな。この花も、とうにご覧になっていらっしゃいましたか」
案内人さんから発せられたセリフに、私は完全に真っ白になってしまった。
……マズい。
マズいマズい!
これはマズい!
完全にマズいってば!
あぁ……。
単純なイサークの方は、どうにかごまかせそうだったのに。
案内人さんの『我が国にしかない花』って言葉で、全部台無しになっちゃった!
あ……いや……。
案内人さんは、ひとつも悪くないんだけどっ。
最初にうっかり〝テレビ〟なんて口走っちゃった、私がぜーんぶ悪いんだけどっ。
でもでもっ。
なんとかしなきゃ!
ここをどうにか切り抜けなきゃ、絶対、先生が何か言ってくるに違いな――
「ほう? 君は、この花を見たことがあると言うのだな? ザックス王国で、この花を確かに見たと?」
う――っ。
ほーら、やっぱり!
やっぱり言ってきたよこの人ぉーーーーーっ!
「見たとするなら、それはどこでだね? いつ、どこで、君はこの花を見たというんだ?……恥ずかしながら、私はこの花の存在すら、今ここで目にするまで、まったく知らなかったのだが? この私が見聞きしたことすらない花を、君はとっくに知っていたと?」
うぅ……う……。
「さあ、早く教えてくれたまえ。君は我が国のどこで、この花を見たと言うんだね? 教えてくれたら帰国次第、調査に出掛けることにしよう。そして、君が我が国で見たと主張するこの花を、もし見つけることができたなら……我が国の植物図鑑に、新たな一種を加えることができるはずだ。……フム。大変喜ばしい。――さあさあ。我が国の植物学の発展のためだ。勿体ぶらずに教えてくれたまえ」
う……。
うぅ……うぅぅぅ~……っ。
「え……っと……。も……もしかしたら、私が見たと思い込んでるだけ……で、実際は、見てないのかも……しれないなー、なーんて……。アハ……アハハ……」
「なに? 実際は見ていない?」
「え……ええ……。あっ。それとも、夢の中で見たのかなっ?……あ、そうそう! 夢です、夢! きっと夢!」
「……夢……」
「そーです、夢……っ」
その刹那。
藤の花を左右に大きく分かつほどの、一陣の風が吹いた。
さながら〝モーゼの十戒〟の、ワンシーンのように。
海が割れる、あの有名なシーンのように。
藤の花が、両手で暖簾の真ん中を持ち上げたかのように、クッキリと分かれ。
私と、ちょうど藤の大木の中心となるところまでを繋ぐ、まっすぐな風の道を作った。
藤の大木の下には、息をのむほどに美しい男性が、妖しく微笑してたたずんでいて――。
彼と目が合ったと感じた瞬間。
演劇の幕が下りるかのように、藤の花の暖簾が閉じた。
「…………え?」
ほんの一瞬、違う世界に引き込まれた。
そう錯覚してしまうほど、幻想的な白昼夢。
……ううん。
でも、夢じゃない。
本当に一瞬だったけど、確かに見たんだもの。
例えるなら、藤の精。
妖艶な藤の精。
そう称したくなるほど、美しい男性が……。
「おい。どーかしたのか? 急に黙り込んじまって」
イサークの言葉で、現実に引き戻された。
私は興奮して、
「ね、ねえねえっ、今の見た!? すっ――ごくキレイな男の人が、藤の木の下にいたの! 強い風が吹いた時、ほんの一瞬だったけどチラッと見えて! ねえねえっ、みんなも見たでしょ!? あれって、あれっていったい誰っ!?」
思わずイサークの服の袖をつかみ、何度か強く引っ張った。
イサークも案内人さんも、そして先生も、眉間にシワを寄せて私を見返す。
「はあ? キレイな男ぉ?……んなん、見てねーけど」
「はい。私も見ておりません」
「右に同じく、だ。――どこにいたと言うんだ、その男は?」
「だから! 藤の花の中心ですよ! この藤の花の大本! 藤の木の下!」
強い風が吹いたのは一瞬だったから、今は藤の花しか見えないけど。
この藤の花の中心点――大木の下に、確かにいたんだってば男の人が! めちゃくちゃキレイな人が!
たった今垣間見た、夢のような光景を。
私は何度も説明してみせたけど、結局、誰も信じてくれなかった。
実際に、藤の木の下まで歩いて行って、確認もしてみたけど。
そこには、もう誰もいなかった。
「おっかしいなぁ? 絶対見たんだけどなぁ……」
庭園を後にしながら、首をひねりながらつぶやいて。
室内へと戻る途中も、未練がましく何度も何度も振り向いて、私は〝藤の精〟を探していた。