船旅二十日目-ウサギは食料か否か?
「イサーク、まだかなぁ……」
ベッドに腰掛け、膝の上のウサギをゆっくりと撫でながら。
私はイサークが戻るのを、ひたすら待ち続けていた。
厨房から逃げ出したウサギじゃないって、確認出来たらいいんだけど。
もし、ホントに逃げ出したウサギだったら……って考えると、気が気じゃなかったし、ずっとソワソワしっ放しで……。
ウサギの方は、さっきから膝の上で丸まって、大人しくしていた。
――でも、やっぱり不安なのかな。微かに震えている。
何度も何度も、ウサギの背を撫でながら、私は静かに語り掛けた。
「大丈夫だよ。あなたを、食材になんてさせないからね。もし、ホントに食材倉庫から逃げて来た子だったとしても、厨房の人達にお願いして、引き取らせてもらうし。だから……ね、心配しないで?」
ウサギは僅かに顔を上げ、長い耳と鼻をヒクヒクさせ、うなずくような仕草をしてみせる。
ふふっ。
ホントに可愛いなぁ。
こうやって体丸くしてると、雪ウサギみたい。
真っ白な毛色に、真っ赤な目が、見惚れちゃうくらい綺麗。
……って、ん――?
真っ白な毛色に……真っ赤な……目?
瞬間。
何かが頭の隅に引っ掛かって、私の思考は停止した。
『何か』って何だろう?
考えようとしたところで、ドアをノックする音が響いて。
「姫さん、俺だ。イサークだ」
「イサーク!――いいよ、入って!」
戸惑うことなくドアを開けると、イサークはズカズカと入って来て、私の前で仁王立ちした。
「そのウサギ、倉庫から逃げ出したってワケじゃねえみてえだな。誰も、ウサギなんざ知らねえってよ。食材のリストに、ウサギは入ってねえって話だった」
「ホント!? じゃあ、このウサギさん、私が預かっててもいいんだよね?」
「まあ、いいんじゃねえか? どっから来たんだか知んねえが、ウサギを飼う奴がいるなんざ、考えらんねえし。まあ……きっと、停泊中にどっかから紛れ込んだんだろ。そいつも、船ん中あてもなく動き回るのは、疲れるだろうしな。姫さんのとこにいられんなら、それが一番じゃねえの?」
「だよね!?……あ~、よかったぁ。ウサギさん、もう大丈夫だよ。飼い主さんがいるんだとしたら、見つかるまで私がお世話するし。いないんだとしても、あなたを見捨てたりしないからね?」
「って……あんた、マジで飼うつもりなのか? その食いもんを?」
呆れたようなイサークの言葉に、ムッとなってにらみ付ける。
「イサークの国では食料だったのかも知れないけど、私の国では、一般的に食べたりなんかしなかったもん! ほとんどの子は、飼われてるだけだったんだから!」
「はあ? そーなのか? ザックスでは、ウサギは食いもんじゃねえなんて話、聞いたこともなかったけどな」
う――っ。
……ま、まあ、国って言っても、今の国のことじゃないけど。
元いた世界――日本でのことだけど。
心でつぶやきつつ、私はイサークを見上げ、あたふたと話を締めに掛かった。
「とっ、とにかくそーゆーことだからっ。ありがと、イサーク。私、湯浴みしてから、今日はもう眠るつもりだから――」
「ああ、わかった。じゃあな、姫さん」
「うん。ホントにありがとう。体壊さないように気を付けてね」
『そんなヤワじゃねえよ』――ボソッとつぶやくと、イサークは部屋から出て行った。
「さて。さっさと湯浴み済ませて来ようっと。ウサギさん、ちょっと待っててね」
膝からベッドにウサギを移し、着替えを持って浴室へ向かう。
浴室って言っても、シャワーだけしか付いていないから、シャワー室と言った方がいいだろうか?
でも、ザックスでは『シャワー』って言葉は通じなかったし。
ちゃんとお湯に浸かろうが、シャワーだけだろうが、体を洗って清潔にすることを、全部ひっくるめて『湯浴み』って呼んでるみたいだから……まあ、浴室で問題ないかな。
それに、お湯に浸かるって習慣は、この国の一般の人達には、浸透していないみたいだし。
今のところ、貴族や王族だけの習慣――ってことになっているんだって。
……と言うのも。
ザックスは日本みたいに、森林や山の面積が多いんだそうで(確か、国の七割くらいを占めているとか)、水は豊富っぽいんだけど。
それでもまだ、ザッパザッパと贅沢に水(と言っても、水道水のこと)を使えるのは、身分が高い人達に限られているらしいんだ。
貴族だけ特別――って考えると、申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまうけど……。
……ハァ。
ダメだなぁ、気分が沈む。
こういう差別のことも、これからはいろいろ、考えて行かなきゃいけないんだよね。
何をどうしたらいいかなんて、まだまださっぱりわからないのに……。
ホント、姫になんて生まれて来るもんじゃないや。
お父様とお母様には悪いけど、何もかもが重過ぎる……。
カイルとのことだって、私が姫でさえなかったら、そこまで深刻に……は……。
「カイル……」
つむったまぶたの裏に、カイルの笑顔が鮮明に浮かぶ。
別れ際の切ない眼差しも。甘く響く澄んだ声も。初めての長いキスも。
……覚えてる。忘れたりなんかしない。
あなたとのことは、全部。
全部全部、苦しいくらい覚えてるのに――。
「カイル……どこにいるの? どうして帰って来てくれないの?」
つぶやいたら、涙がこぼれそうになった。
私は慌てて上を向き、シャワーを顔いっぱいに浴びてごまかした。
泣かない。
カイルに会えるまで泣かないって、自分で決めたんだから。
……なのに。
今日は雪緋さんの前で、ちょこっと泣いちゃったりして……。
でっ、でも、あれは仕方ないよ!
不可抗力っ……とは、言えないかも知れない、けど……。
じ、事故。そう、事故だったんだから!
誰だって、他人の過去が唐突に見えちゃうなんて、思いもしないじゃない?
――だから、あれは別!
別物なんだから、カウントしなくていいの!
私は泣いてない!
泣いてなんかいないんだから!!
必死に自分に言い聞かせて。
私は手早くシャワーを済ませ、脱衣所(ってほど広くはないけど、カーテンで仕切られたスペース)へ出た。