緊急事態発生
「いけない! そろそろ出発しなきゃ、武術大会に間に合わなくなっちゃう!」
紫黒帝と藤華さんの第一子誕生と、雪緋さんの問題解決にホッとして、みんなでニコニコしてる場合じゃなかった。
私は慌てて、紫黒帝からの手紙を胸元の内側のポケットにしまい込んだ。
ちなみにこのポケットには、ギルのお母様の形見の指輪が入っている。
失くさないためと、彼に会うことがあったらいつでも返せるようにするため、いつもここに入れてあるんだ。
でも……このことはカイルには内緒。
また誤解されちゃったら困るし、やっぱり、彼以外からの贈り物を肌身離さず持ってるなんて、ちょこっとだけ後ろめたいしね。
「ギルのお母様のためにも、早く返してあげたいけど……。次に会えるのはいつなんだろう?」
ギルのお母様のお国では、この指輪は〝持ち主を災いから守る〟と言われているらしい。
だったら、彼自身が持っててあげなきゃ意味がない。ギルのお母様が守りたいのは私じゃなく、ギルなんだから。
でも……あんな別れ方をした後だもの。彼は当分、私には会いたくないだろうな……。
瞬間、婚約解消を伝えた日――彼と別れた日のことが脳裏をよぎり、私の胸はズキリと痛んだ。
考え直してくれないかと、私に懇願してきたギル。
あんなに辛そうな彼を見たのは初めてだったから――今でも、時々思い出してしまう。
「姫様? どうしてそんな、悲しそうなお顔をなさってるんですか……?」
声がしたとたん、ハッとして顔を横に向ける。
そこにはいつの間にかシリルがいて、私を心配そうに見上げていた。
「あ……。う、ううん。何でもないの。ちょっとね、昔のことを思い出しちゃっただけ。でも、もう過ぎたことだから大丈夫。心配しないでね、シリル」
慌てて笑みを浮かべ、シリルの頭にそっと手を置く。
彼はまだ心配そうな顔をしていたけど、『ホントに大丈夫だから』と頭を数回なでると、口元だけで笑って見せた後、小さくうなずいた。
「さて! 用事も済んだことだし、さっさと出発しようか!――セバスチャン、馬車は城門の前?」
くるりと振り向いてセバスチャンに訊ねる。
彼はコクリとうなずいて、
「は……はい。そのように……手配しております……が……」
何故かフラフラした足取りで、私の側へと寄ってくる。
「セバスチャン?……どうしたの? なんだか、千鳥足になってるけど……」
訊きながら、『あ。〝千鳥足〟なんて言っても通じないか』と思い至り、私はペロリと舌を出した。
「い……いえ……。何ゆえか……わかりません、が……。か……体が……頭が……回っ――」
バタン!!
突然、大きな音を立ててセバスチャンがうつぶせに倒れ込んだ。
思わず短い悲鳴を上げ、私はセバスチャンの傍らにしゃがみ込み、大きく肩を揺さぶった。
「セバスチャン!?……ねえっ、どうしたのセバスチャンっ!?」
何度肩を揺らしても、大きな声で呼びかけても、彼は返事をしてくれなかった。
どうやら、完全に気を失ってしまったらしい。
「ヤダ、どうして……? ねえっ、ホントにどうしちゃったのセバスチャン!? ねえっ、セバスチャンってばぁッ!!」
「姫さん、落ち着け! んなことしてたってどーにもなんねーだろ! 今は医者を呼ぶのが先だ!」
「その通りだ。君は少し離れていたまえ。どのような状態かわからぬうちに、あまり体を揺らしてはいけない」
すっかり気が動転してしまった私は、ひたすらセバスチャンの体を揺すっていたんだけど。
イサークに羽交い締めされ、強引に彼から引き離された。
「ヤダッ、離してよイサーク! セバスチャンがっ! セバスチャンが死んじゃうぅッ!!」
「死なねーよッ、勝手に殺すな! まだ何にもわかってねーんだから、医者が来るまでじっとしてろっ!!」
「でも――っ! でもセバスチャンっ、セバスチャンがっ! 今まで倒れるなんて一度もなかったのにッ!……どーしよう? セバスチャンにもしものことがあったら……もしものことがあったら、私――っ」
……どうしよう?
ホントにどうしよう……!?
今までずっと、私の側にいてくれたセバスチャンが……。
いつも私を和ませてくれて、支えてくれて……たまにモフモフさせてくれたセバスチャンが……!
このまま私を置いて、どこかにいっちゃったらどうしよう!? どうすればいいの……っ!?
それに、考えてみたら……セバスチャンってもう、百歳は超えてるんだよね?
神の恩恵を受けし者になるための条件は、百歳まで生きることだって言われてるらしいし……。
じゃあ、今……最低でも、二百歳以上にはなってる……ってこと?
……二百……。
二百年も生きてるなんて……。
だったら、寿命が近付いてたとしてもおかしくないんじゃないの……?
ああ……わからない。
神の……神の恩恵を受けし者の平均寿命って、いったいいくつくらいなの?
先生がセバスチャンの容態を確認し、シリルがお医者さんを呼びに走り、イサークが後ろから支えてくれている間も。
私はただただ呆然とし、魂が抜けたかのように突っ立っていることしかできなかった。