別れの朝‐雪緋‐
「それでは、リナリア姫様。私はそろそろ戻らねばなりませんので、これにて失礼いたします」
船に乗り込もうとしたところで、雪緋さんに後方から声をかけられた。
私は慌てて振り返り、彼の手を両手で握り締めた。
「雪緋さん、いろいろありがとう! お母様のことたくさん教えてくれて、嬉しかった。ザックスは遠いから、簡単に来ることはできないだろうけど……。でも、きっとまた会えるよね?」
「……はい。再びお会いすることが叶いましたら、どんなに幸せなことでしょう」
「会えるよ! ううん、会おうよ! 絶対また会えるって言ってよ!」
「……姫様……」
雪緋さんは微かに口元をほころばせると、こぼれ落ちそうになっていた私の涙を、指先でそっとぬぐった。
「私などのために、泣いてくださるのですね……。誠に畏れ多いことです」
「だって――っ!」
とうとう堪らなくなって、私は雪緋さんに正面から抱きついた。
「……だって、雪緋さん……。雪緋さんは……っ」
雪緋さんは、結婚できないんでしょう?
この先、もし好きな人ができたとしても……結婚しちゃいけない、子供を持っちゃいけないって、大昔に決められちゃったんでしょ?
孤高の王とかいう、神の恩恵を受けし者の――この国では獣人と呼ばれてる人たちの先祖が、勝手に人間と約束しちゃったんでしょ?
雪緋さんは人と獣人の子――〝禁忌の子〟だから、きっと同じように――。
喉元まで出かかっていた言葉を、私は必死に抑え込んだ。
近くにはマティアスさんもいる。
いくら良い人そうだからって、彼に雪緋さんの秘密を聞かれるわけにはいかなかった。
「……姫様。ご心配には及びません。藤華様も優しくしてくださいますし、帝も――」
「嘘っ! 藤華さんは優しいに決まってるけど、帝にはいっつもヤキモチ焼かれて大変だって聞いたよ!? 特に、月禊の翌日は毎回、ネチネチネチネチ詰められてるんでしょ? みんな聞いたもの!」
「詰められるなどと……。帝は藤華様を、心より大切に想っていらっしゃるのですから。お役目とは申しましても、他の者が藤華様のお側に一晩いるとあっては、お心が乱れてしまわれるのも当然です。私は少しも気にしておりません」
「でもそれはっ、雪緋さんが優しいから――!……だから、耐えられるってだけでしょ?」
「いいえ、そのようなことはございません。……姫様もご存知のはずです。帝が、とても思いやりに溢れたお方であるということを」
「――っ!……それは……そう、だけど……」
私や藤華さんには、すごく優しくても……。
雪緋さんには、ホントのところどんな風に接してるのかわからないし……。
「あっ、そうだ! 巫女姫が藤華さんから次の人になったら、どうするの? これからもずっとずーーーっと、雪緋さんがお役目を任せてもらえるのっ?」
顔を上げて訊ねると、彼は前髪を片手でかき上げ、困ったように微笑んだ。
……あ。綺麗な紅い瞳。
久しぶりに見られた……。
思わず、うっとりと見惚れてしまったけど。
この綺麗な瞳とも当分お別れなんだと思ったら、また悲しくなった。
「藤華様の次の巫女姫……。それはまだ、私からは何とも申せません。……ですが、お役目がどうなろうと問題ございません。私に任せていただけなくなりましたら、その時は……私が御所を去ればよいだけです」
「えッ!?……御所を去る?」
「はい。御所を出て、どこか別の場所へ参ります。私一人でしたら、何をしてでも生きていけるでしょう」
淡々と語る彼に、私は大きな不安を抱いた。
まるで、以前から決めていたかのように、スラスラと答える彼に。
「ダメ! そんなのダメッ!! 御所を出るなんて……一人で生きてくなんて、そんな――っ」
「いい加減にしたまえ! いつまでそうして駄々をこねているつもりだ!?」
いきなり大声で叱り付けられ、私はビクッとなって身を縮めた。
恐る恐る声のした方向へ目をやると、案の定、そこには先生がいて、冷たい目で私をにらみ据えていた。
「一国の姫ともあろう者が、大勢の者たちの前で男に抱きつき、涙まで見せるとは何事かと、端から呆れてはいたが……。今生の別れになるかもしれん、大目に見てやらねば――と黙っていてやったら、どうだ? 泣くわ喚くわ、他人の決めたことに口を出すわと、みっともないことこの上なしではないか。陛下より君の教育係を一任されている身としては、これ以上、黙って見過ごすわけにはいかないのだよ」
「で、でも先生! 先生は雪緋さんが心配じゃないんですかっ?」
先生だって、『禁忌の子が実在したとは』って、喜んでたじゃない!
貴重な研究対象だって、知的好奇心くすぐられまくっちゃってたでしょっ?
問うようにじっと見つめると、先生は指先で眼鏡をくいっと上げてから、ゆっくりと腕を組んだ。
「心配? 何を心配することがある? 彼は君のような未熟者とは違う。立派な成人男性だ。その彼が、充分に考慮した上で決めたことなのだろう? 心配する必要がどこにある?」
「そ――っ、……それ、は……」
「君は彼が信じられないというのかね? それとも、君と同じく彼が半人前だとでも思っているのか? 自分のように頼りない者が決めたことなど、信用に値しないとでも?」
「そんなっ! そんなこと一言も言ってません!」
「……であれば、彼の思うようにさせてあげるべきではないのか? 成熟した大人である彼が、熟慮を重ねた上で決定したことなのだから」
「それは……っ。……でも……」
私だって、彼の生き方をとやかく言うつもりなんてなかった。
なかったけど……心配なんだもの。
この世界は、私が元いた世界と違って、通信手段が発達してない。
鳥さんに手紙を運んでもらうくらいしか、離れた相手のことを知る手段がないし。
電話もスマホもインターネットも、ホントに何もないから!
御所を出てしまったら、雪緋さんには、もう二度と会えないような気がして……。
一人でどっかに行っちゃって、そのままになっちゃうみたいで。
怖いの……。
怖いんだもの――!
考えたら、また涙がポロポロこぼれてきて、止められなかった。
雪緋さんは片手で私の頬に触れ、またそっと、親指で涙をぬぐう。
「ありがとうございます、リナリア姫様……。あなた様のその尊い涙だけで、私は充分です。身に過ぎたる幸福です。あなた様にお会いできたことこそが、私の生涯の誉れなのです」
「雪緋……さん……」
「どうか、ご心配なさらないでください。私は問題ございません。頑丈な肉体と、打たれ強い心があります。この二つさえあれば、どこででも生きていけます。ですから――私のことなどより、ご自身のことのみをお考えください。あなた様はあなた様のまま、どこまでもお優しく、お美しく、そしてお強く……生きていらしてください。私はどこにおりましても、あなた様がいつもお幸せで、ご健勝であらせられるように祈っております」
「――っ、……雪緋さんっ!」
私はもう一度彼に抱きつき、声を上げて泣いた。
先生に叱られても、呆れられても構わない。そんな気持ちで――出航の予定時刻を過ぎても、顔がヒリヒリするまで泣き続けた。