別れの朝‐白藤‐
帰国当日。
ちょっぴり早起きした私は、白藤にお別れを言いにきていた。
初めて白藤を見かけた場所――藤の咲き誇る庭園に。
「よかった、まだ眠ってなかったんだね。お別れしないうちに眠りに就かれちゃったら、どうしようかと思ったよ」
藤の大木の前でたたずんでいた白藤に、後ろから近付いて声をかける。
彼はゆっくりと振り向いて、私と目が合うと柔らかく微笑んだ。
「国に帰るそうじゃな?……そちがいなくなると寂しくなるのう」
「――えっ!?」
あまりにもストレートな物言いにビックリして、思わず声を上げてしまった。
しかも、いつもみたいなテレパシーじゃない。直接口から出た言葉だった。
「なんじゃ? そこまで驚くようなことは、申しておらんはずじゃが?」
「言ったよ! 『そちがいなくなると寂しくなる』……って!」
私は顔を熱くしながら、胸の前で両こぶしを握り締めた。
そんな私とは対照的に、
「寂しいから寂しいと申したまでのことじゃろう。何を驚くことがあるのじゃ?」
白藤は涼しい顔つきで、さらにこんなことを言ってのけた。
「う……うぅ……っ」
……ヤバい。
顔どころか、体中熱くなってきた。
聞き慣れないセリフを聞くと、異様に照れくさくなっちゃうんだよね。
いつもみたいに、からかい口調で言ったんならまだともかく。
真顔で――しかも、本当に寂しそうな口調で言われると、調子狂っちゃうじゃない……。
「ど、どうしたのよ白藤? 今日はやけに素直じゃない。最後だから、特別サービス……ってこと?」
「フムン? とくべつさあびす……とは、どういう意味じゃ? そちの国の言葉かのう?」
「えっ?……あ、いや……どうだろ? 私の国っていうか、元いた国の方……なのかな?」
「……元?」
不思議そうに、白藤が首をかしげる。
私は片手で口を覆い、慌てて首を横に振った。
「う、うううんっ! 何でもない、なんでもないっ! こっちの話だから気にしないでっ?」
「……フムン? 面妖な姫じゃのう」
白藤は、まだ何か訊きたそうな顔をしていたけど、ふいに視線を上に向けて。
「まあよい。そちとこうしておられるのも、あと僅かじゃ。つまらぬことに気を留めている暇などないのう。――ほれ。藤の盛りの時期もそろそろ終いじゃ。よーくその目に焼き付けておくのじゃな」
「……うん」
彼に言われた通り、しみじみと藤を眺める。
この国に着いた時と少しも変わらず咲き誇っている藤に、ふと疑問が浮かんだ。
「私がこの国に着いてから、十日以上は過ぎてると思うけど……藤って、そんなに長い間咲き続けられるものなの?」
「……さて、どうじゃったかのう? 我の知る限りでは、特に珍しいことではないが……。そちの国では、すぐに散ってしまうということかのう?」
「あ……ううん。うちの国で藤は見たことないって先生が言ってたから、藤自体がないんじゃないかな?」
「ほう? 藤はないのじゃな。それはつまらぬのう。このように美しい花が見られぬとは……」
そう言って、白藤は愛おしむように藤を眺める。
その横顔を見つめていたら、
「――っ!」
一瞬、すごく綺麗な女の人――藤華さんによく似た人が、白藤と重なって見えた気がして……。
白昼夢だったんだろうかと、私は自分の両目を指でこすった。
それからまた、白藤をじっと見つめる。
(……特に何も見えない、か……。やっぱり白昼夢? それとも、ただの見間違いとか……気のせいだったのかな?)
イマイチ納得がいかなくて、私は未練がましく白藤を見続けていた。
すると、視線に気付いた彼が、私をまっすぐ見返して訊ねる。
「いかがしたのじゃ? 我の顔に何かついておるのか?」
「う、ううん。ついてるわけじゃないけど。……一瞬、女の人の顔が……」
「『女の人の顔』?」
「うん。藤華さんにすっごく似てる女の人がね、白藤の顔に重なって見えたの。でも、藤華さんに似てはいるけど、藤華さんじゃないみたいだった。着ているものが違ったし……。あれ、何だったんだろ? 気のせいとか見間違いにしては、妙にハッキリ見えたんだよね。真っ白な服着て、頭には草かんむり? みたいなもの被ってて……」
う~ん……。ホントに何だったんだろう?
藤華さんにやたら似てたのも気になるし……。
しばらく考え込んでいたら、
「……やはり、紅華の娘じゃのう。そちにも見えてしもうたか……斎姫が」
白藤が、しみじみとした口調でつぶやいた。
「え?……いつき……さん? それって誰? もしかして……」
白藤が、昔好きだった人……だったり?
「斎姫は初代の巫女姫じゃ。紅華と並ぶほどに……いや、紅華以上に力の強い巫女姫じゃったかもしれんのう」
「えッ、初代の巫女姫!? 初代の巫女姫って、あんなに藤華さんに似てたの!?」
「まあ、姿形が似ているのはたまたまじゃろうが……。確かに、よく似ておったのう。中身はそれほど似ではおらぬが」
「……そっか。だから白藤、藤華さんのためにあんなことまで――……」
やっぱり白藤は、その斎姫さんって人のことが好きだったんじゃない?
藤華さんにやたら親身に見えたのは、彼女が斎姫さんによく似てたから……なんでしょ?
訊いてみようと口を開きかけて……やめておいた。
白藤の斎姫さんに対する想いは、数分で話し終えられるような簡単なものじゃない。
――何故か、そんな気がしたから。
「フムン?……『あんなことまで』?」
「ううん、何でもない。それより……藤が綺麗だね。すごく綺麗で……夢みたいに綺麗で……。私、今日のこと……白藤と並んで見た、この藤の景色……一生、忘れない気がする」
言いながら、私はいつの間にか涙を流していた。
どうして涙なんて……と思ったけど、ごまかす気にもなれなくて。
私は涙を溢れさせたまま、藤の花に見入っていた。
「……フフ。何じゃ、いきなり? やはり面妖な姫じゃのう……リナリアは」
包み込むように優しく、穏やかな声で――白藤が、初めてまともに私の名を呼んだ。