過去、そして叫び
千草ちゃんの部屋に着くと、すでに何人かの女官さんたちが、困惑した表情で千草ちゃんを遠巻きに見ていた。
中からは、涙声で何かを叫ぶ声が聞こえてくる。
女官さんたちに、『ここは任せて』と伝えるつもりで目配せし、軽くうなずいてみせた。
すぐに察してくれたようで、彼女たちは深々と一礼してから、自分達の持ち場へと戻っていった。
カイルと萌黄ちゃんに、ここで待っていてほしいとお願いして、中に入る。
千草ちゃんは寝床の上で膝を抱え、顔を埋めて震えていた。
私が名を呼ぶと、彼女はビクッと肩を揺らした後、ゆっくりと顔を上げた。
今まで泣いていたとすぐにわかる、真っ赤な目をしている。
「リナリア……姫、殿下……。露草様は……露草様は、どちらに……いらっしゃるのですか?……お会いになれないほど……ご病気が、重くなって……しまわれたの……ですか?……私が……私が、役に立てなかったから……」
途切れ途切れに告げられた言葉も、おびえたように震えていた。
やはり彼女は、自分のせいで露草さんが無理をして……という風に思って、自分を責め続けているんだろう。
「千草ちゃん、それは違うよ。露草さんは、あなたにどうこうしてほしいなんて、少しも思ってなかった。むしろ……自分が弱いせいで、あなたにたくさん重荷を背負わせてしまったって、すごく気になさって……。あなたに、これ以上重荷は背負わせたくないって……っ、おっしゃっ――」
いきなり涙が込み上げてきて、言葉に詰まる。
……どうすればいいか、わからない。
どう伝えればいいんだろう? 露草さんはもういない、ってことを……。
どう言えば、なるべく彼女を傷付けずに済む?
答えを見つけられないまま、私は千草ちゃんの傍まで歩いて行き、膝をついた。
彼女の手をそっと持ち上げ、両手で強く握る。
――瞬間。
くらり、と目が回るような感覚がした。
地面は揺れていない。
でも、私の中で何かがひっくり返るような――そんな不思議な感覚が、全身を包み込んだ。
視界がゆがむ。
爆ぜる火の粉が、雪のように静かに舞って見える。
……あ、これ。
これに近い感覚、前にもあった。
これは、あの時と同じ……。
突然、雪緋さんの過去が私の脳内に浮かんできた、あの時と――。
「――っ!」
気付いた時には、景色が変わっていた。
ぼんやりと霞んだ霧の中に、小さな背中が見える。
その後ろ姿を見た瞬間、千草ちゃんだとわかった。
声を掛けようとしたけど、何故か言葉が出てこない。
ここは……たぶん、彼女の心の中。
過去の記憶か、それとも……心の奥の、感情のうねりの中?
千草ちゃんは何も言わず、じっと立っていた。
周囲から聞こえてくるのは、妹――萌黄ちゃんを褒めたてる言葉ばかり。
「萌黄はさすがね」
「本当に。明るいし、テキパキと仕事もこなすし」
「少しなまいきなところもあるけど、まっすぐで良い子よね」
「――え、千草?……うぅ~ん……あの子は影が薄いからねぇ。悪い子じゃないんだけど……」
……誰も千草ちゃんを見ていない。
千草ちゃんは、離れたところでぽつんと立ち尽くして……。
胸が痛い。
彼女の孤独が、ひしひしと伝わってくる。
思わず自分の体を抱きしめたとたん、場面が切り替わった。
薄暗い部屋の中。
優しい香の香りが、かすかに漂っている。
その静かな空間の奥に……露草さんがいた。
やせ細った片手が、掛け布から覗いている。
まぶたは閉じられていたけれど、唇がかすかに動いた。
「……泣いて……いる、のね……。千草……」
隣にいた千草ちゃんの体が、ビクリと揺れる。
……周囲には誰もいない。
露草さんと千草ちゃんの二人だけ。
(あなたの心の声が、わたくしの中に流れ込んできたのです。……ごめんなさいね、時折……このようなことがあるの)
掛布の中から、細い腕が伸ばされた。
その動きは驚くほどゆっくりで……でも、確かに千草ちゃんに向かっていた。
(寂しかったのね。たった一人で、辛かったのね……。ごめんなさい。ずっと気付いていたのに、この力を知られるのが怖くて……)
「……露草、様……?」
千草ちゃんが、震える声で名を呼んだ。
ゆっくりと近付き、露草さんの手に小さな手を重ねる。
露草さんの手は、ひんやりとしていた。
でも、温かかった。
冷たいはずなのに、胸の奥がじんわりと溶けていくような温もりを――側にいるだけのはずの私も、何故か感じられた。
(あなたのこと、ずっと見ていたわ。あなたのひたむきさも、必死に隠していた涙も。……あなたは、役立たずなどではないわ。役立たずなのはわたくしの方。あなたは、賢くて優しい子。己を恥じる必要などないの)
その言葉を聞いた瞬間――千草ちゃんの目から、ポロポロと涙がこぼれた。
あふれては頬をつたい、膝の上にポトポトと落ちて行く。
声にならない嗚咽が、胸の奥から溢れ出てくる。
露草さんは何も言わず、ただふうわりと微笑んだ。
(……ありがとう、千草。いつも側にいてくれて。あなたがいてくれるだけで、わたくしは幸せなの)
脳内で響く露草さんの一言一言が、千草ちゃんの心に染み入り、満たして行く。
優しい声。やわらかな微笑み――。
千草ちゃんの心が、少しずつ溶けて行くのがわかった。
……そうか。
千草ちゃんは、ずっと求めていたんだ。誰かに認めてもらえることを。
口下手でうまく言えないから、伝えられないから……誰かに気付いてほしかったんだ。
役立たずなんかじゃないよ、ここにいていいんだよって……誰かに言ってほしかったんだ。
「露草様だけが、わたしを見つけてくださった。受け入れてくださった……!」
今度は、千草ちゃん自身の声が、霧の中に響いた。
……たぶん、心の叫びなんだろう。
言葉じゃなく、思いそのものが流れ込んでくるような感覚だった。
「なのに……なのに、どうして……っ! 帝は……藤華様のことばかり……。露草……様……。あのお方に……幸せになっていただきたい……だけ、なのに……」
視界が赤く染まった。
……これは、千草ちゃんの怒りや哀しみ。
どうにもならない感情のうねり……。
「わたしが、もっとお役に立ててたら……」
「露草様のために何もできないなら、こんな力なんていらないのに……!」
「……でも、止められない。どうしていいかわからない……!」
「もうイヤ!……わたし……わたしなんて……っ!」
絞り出すように声を発した後。
千草ちゃんが、ぽつりとつぶやいた。
「わたしなんて……消えてしまえばいいのに……」
瞬間。
私の目の端から、涙がひと粒こぼれ落ちた。