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儚き花、風に溶けて……

 あの夜――。

 私の首を絞める千草ちゃんを前に、露草さんは震え上がったらしい。

 どうしてこんなことを? と混乱し、しばらく頭が真っ白になっていたそうだ。


 けれど、途中で我に返り、必死に訴えかけてくれた。

 『やめて千草!』『お願い、その手を離して!』と――。


 その声が届いたのか、彼女の手の力がわずかにゆるんだ。

 その隙に床へ逃れ、私は命を取り留めることができた。


 露草さんはそのことを深く詫び、涙をはらはらと流しながら、私に訴えた。


(まことに申し訳ございませんでした……! わたくしのせいで、リア様を危険にさらしてしまうなんて……。ですがどうか、千草をお責めにならないでください。悪いのはわたくしなのです。まだ幼いあの子に、わたくしの醜い感情を覚らせてしまった――それがすべての原因なのです……。あの子はただ、わたくしの力になりたいと、懸命だっただけ……。その強い想いが、わたくしの暗い感情に呑み込まれ、混ざり合い……己を見失ってしまっただけなのです!……罪深きは、わたくし……わたくしのみ……)


 ただひたすらに、露草さんは自分だけを責め続ける。

 何度も何度も、千草ちゃんを許してあげてくださいと……悪いのは全て自分なのだと繰り返しながら。



 ――私は、元から千草ちゃんを責めるつもりなんてなかったけど。

 だからといって、露草さんが全て悪いとも思えなくて……。



 どう声をかけていいのかわからず、私は黙って彼女を見守ることしかできなかった。


 露草さんは、思念を送ることにも疲れたのか、紫黒帝の腕の中でそっと目を閉じる。

 藤華さんはその傍らで、静かに彼女の顔を見つめ、まつ毛を伏せていた。



 場に、長い沈黙が落ちる。



 ……だけど私は、露草さんの思念を、まだはっきりと感じ取っていた。

 彼女は目を閉じたまま、私にだけ語り掛けてくる。


(リア様……)


 私はそっと、彼女の顔を見つめた。

 まぶたがわずかにぴくりと動く。私の中に、直接言葉が響いてきた。


(今一度……お願いいたします。……どうか……どうか……)


 その先を言いよどむように、少しの沈黙。

 そして、目尻からひとすじ、涙がこぼれた。


(……どうか、リア様。先ほども申し上げました通り……あの子――千草は、わたくしに操られていただけ――そういうことに、していただけないでしょうか? リア様を襲ったのは、わたくしの意思だったと……帝と藤華様には、そう伝えていただきたいのです)


 改めて願われても、私はまだ答えを出せずにいた。

 だから、沈黙するほかなかった。

 そんな私の迷いを感じ取ってか、露草さんは、ほんの少し笑みを浮かべる。


(わたくしは、横たわっていることしかできない、親不孝な役立たずでした……。だからこそ、誰にも嫌われないよう、憎まれないよう……そして、誰も嫌わぬよう、憎まぬよう――生きてきたつもりでした)


(……つもり、でした?)


(はい。ですが――帝をお慕いしてしまってから、その誓いに、ほころびが生じてしまったのです。……帝に一途に想われる藤華様が……羨ましくて……妬ましくて、たまらなかった)


(……露草さん……)


(この醜い感情を、必死に抑えてきたつもりでした……。けれど、ほころびから、漏れ出してしまっていたのです。千草は、それに気づいてしまった。ですから……)


 ――露草さんの告白に、胸が痛んだ。



 生まれたときから寝床で過ごし、思い通りに体を動かすことも、長くは声を出すこともできない日々。


 ……どれほど辛かっただろう。

 どれほど、情けなく思っただろう。



 そんな彼女に、私が言えることなんて――何もない。

 胸がキュウゥっと締めつけられて、息苦しかった。



(あの子は、純粋すぎたのです。わたくしの哀しみに手を伸ばそうとして……そのまま、呑み込まれてしまった)


 再びぽつりぽつりと、露草さんは語り出す。


(けれど、それもすべて、わたくしのせい。わたくしが弱かったから……負の感情に囚われそうになったとき、無意識のうちに、あの子に助けを求めてしまったから……。まだ幼いあの子に――辛い、重荷を背負わせてしまった……)


 こらえきれず、私の目からも涙が溢れた。

 一度溢れ出すと、もう止められなかった。私は唇を噛みしめながら、彼女の声を聞いていた。


(……だからこそ。せめて最後くらい……あの子には、何も背負わせたくないのです。どうか、リア様。わたくしに――あの子を守らせてくださいませ)


 その想いは、とても静かで。

 ……けれど、揺るがない決意に満ちていた。


 まるで、自らの終わりを受け入れた人のように――。



 それでもまだ、私は返事ができなかった。

 否定も肯定も、できなかった。


 この優しい女性を、たった一人――悪者にする選択が、どうしてもできなかった。



 そんな私を、露草さんは、きっと許してくれたのだろう。

 困ったように微笑むと、今度はかすかな声で、紫黒帝に向かって語り掛ける。


「帝……。愚かなわたくしを……お許しくださいます……か……?」


 紫黒帝は言葉を返さず、そっと腕に力を込めて、彼女を抱き寄せた。

 その温もりに触れ、露草さんは、ふわりと幸せそうに微笑む。


「……藤華……様……。帝を……どうか……お幸せに……して……さしあげて……ください、ませ……」


 震える声で告げられた瞬間、藤華さんの瞳からも涙がこぼれ落ちた。いくすじもの涙が、頬をつたう。


 ――その時。

 紫黒帝が、喉の奥から絞り出すように叫んだ。


「露草……ッ! 露草、すまぬ、すまぬ……! 愚かであるのはそちではない、朕なのだ……! 朕が愚かであったばかりに、そちに辛い思いをさせてしまった!……すまぬ! すまぬ、露草……ッ!」


 震える声が、静けさの中に響いた。

 紫黒帝の涙が、露草さんの頬にぽとぽとと落ちる。


「……ああ……どうか……そのようなお顔を……なさらないで……。わたくしは……あなた様に……救っていただいたのです、から……。お会いできて……ほんの少しでも……お側にいられて……幸せ……でし……た……」


 そう言って、露草さんの体から、徐々に力が抜けていった。


 誰も、声を発さなかった。

 風ひとつ吹かない空間に、静けさだけが満ちていた。


 私は胸の奥を締めつけられる思いで、彼女を見つめていた。



 ――私だけが知っている、彼女の想い。

 露草さんが、自らの命を懸けて願った、〝たったひとつの嘘〟。


 私はきっと、忘れないだろう。

 彼女の優しさも、最後の微笑みも。


 そして、この静けさの中に溶けた、真実の重さも……。

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