正室の訴え
カイルが戻ってくるのを待ちながら、私達は露草さんを見守ることしかできなかった。
紫黒帝の腕の中で、苦しそうに眉根を寄せる彼女を――ただひたすら、見守っていることしか。
この時、きっとそれぞれが、己の無力さを痛感していたはずだ。
この優しい人を救うすべを、見つけることすらできない無力さを……。
「――っ!」
ふいに、露草さんがうっすらとまぶたを開いた。
私達は息をのみ、彼女そっと窺う。
露草さんは、ぼんやりとした様子で天井を見上げていた。
「露草! 朕がわかるか!? 露草、露草っ!」
紫黒帝は右腕で露草さんの体を支えながら、左手で彼女の手をギュッと握りしめる。
紫黒帝が呼び掛けたとたん、露草さんのまぶたがかすかに震えた。
「…………みか、ど――……」
たっぷりと間を置いてから。
露草さんは、たった今存在に気付いたかのように、紫黒帝をじっと見つめる。
「しっかりせよ、露草! 朕はここにおる! ずっとそちの傍におるぞ!」
紫黒帝の目に、うっすらと涙が浮かぶ。
露草さんはまぶたを数回瞬かせると、
「帝……お願いが……ございます。どうか……どうか千草を……あの子を、許してやって……ください……ませ……」
何よりも〝今一番伝えたいのはそれだ〟と言わんばかりの必死さで訴える。
紫黒帝に言いたいことなんて、山ほどあるだろうに。
こんな状況下においても、真っ先に千草ちゃんのことをお願いする露草さんに、胸が熱くなった。
こういうところが、露草さんの露草さんたるゆえんなんだろう。
……でも、その優しさが。
なんだか無性に切なくて……胸がズキズキと痛んだ。
紫黒帝も藤華さんも、きっと私と同じ気持ちだったんだろう。辛そうにまつ毛を伏せ、唇を固く引き結んでいる。
「お願い……いたし、ます……。どうか……どうか……!」
誰も何も言わないことに不安を抱いたのか、露草さんは重ねて訴える。
紫黒帝は露草さんの手を強く握りながら、何度も大きくうなずいた。
「わかっておる。心配せずともよい。――千草はまだ幼い。誰よりも慕っているそちのため、何かしたいと思い詰めるあまり、全ての制御が利かぬようになってしまったのであろう。それに……それほどまでに千草を追い詰めてしまった原因は、全て朕にある。朕がそちを幸せにしてやることができなかったから――」
「いいえッ!! わたくしは幸せにございました――っ!」
病弱な人とは思えないほどの大声に、私達は驚いて目を見張った。
――でも、今の主張が彼女の精一杯だったのか、すぐにまた、荒い呼吸になって目をつむる。
しばらくして、再び重いまぶたを開けた露草さんは、
「申し訳……ございま、せん……。少し……リア様と……心で、お話……させてくだ……さい」
息も絶え絶えになりながらも、どうにかそれだけを伝える。
「えっ!?……私と?」
「『心で』……?」
意味が通じなかったらしく、紫黒帝は説明を求めるように私に視線を向けた。
私は慌てて、『実は私達、心で――声にしなくてもお話できるんです』と答える。
紫黒帝は『声にしない……』とつぶやいた後、何かに思い至ったかのようにハッと息をのんだ。
「そうであった! 姉上――! 姉上にもそのような力があったと、先の帝――紫紺帝も申されていた。……そうか。やはりリナリアは、姉上と同じ力の持ち主なのだな」
紫黒帝はそれで納得したのか、感心したようにうなずいている。
「へっ?……あ、いえっ。これは私の力じゃなく、露草さんのお力で――」
慌てて訂正しようとしたけど、今はそんなことしてる場合じゃないと思い直し、
「え~っと……とにかく。しばらくの間、声に出さないまま露草さんとお話させていただきます。その間、帝と藤華さんには何も聞こえないわけですから、お辛いでしょうけど……。そこは耐えていただくしかありませんので、どうか、黙って見守ってていてください。……よろしいですか?」
恐る恐る訊ねると、紫黒帝は無言のまま深くうなずいた。
続いて視線を藤華さんの方に向ける。彼女も右へならえするようにうなずいてくれた。
私は二人にうなずき返してから、露草さんに視線を移す。
(それでは、お話しましょうか)
言葉にしないまま、露草さんに念を送った。
彼女はかすかに顔を動かし、私と視線を合わせる。
(まことに身勝手なお願いで、申し訳ございません。口にするより、この方が幾分か楽ですの……)
(大丈夫、気にしないでください! 露草さんの想いやお言葉は、後でしっかりとお二人にお伝えさせていただきます。ですから、どうか安心してください。落ち着いて、ゆっくりお話しましょう)
(……はい。お心遣い感謝いたします、リア様)
露草さんは儚げに微笑む。
それからそっと目を閉じて、昨日、途中まで話してくれたこと――千草ちゃんとのことを、改めて語り始めた。
……でも。
この時の私は、予想すらしていなかった。
……ううん、正確に言えば違う。
予想と言うより、予感はあった。
あったけど……認めたくなかったんだ。
この語りの先に、ひとつの悲しい別れが待っていることを――。