慟哭
「嘘でしょ、また火!?」
月花殿が全焼したのは、まだ昨日のことなのに!
今日はここ!? 流麗殿まで燃えちゃうの!?
目の前に迫ってくる炎を前に、私は焦って周囲を見回した。
「藤華、こちらへ! 朕の側を離れるでないぞ!」
紫黒帝は藤華さんへと手を伸ばし、藤華さんもためらうことなくその手を取った。
二人はひしと抱き合って、私達を円形に取り囲んでいる炎を、為すすべなく見つめている。
……どうしよう。
紫黒帝と藤華さんはもちろんだけど。
裏で控えてくれてる女官さん達や、表で待機してくれてるカイルにも、早く逃げるよう伝えなきゃ! 燃え広がってからじゃ遅いもの!
でも……今人を呼んだら、千草ちゃんの力のことがバレちゃう。
千草ちゃんがこんなことしたって知ったら、萌黄ちゃんは悲しむだろうし……。
あ! そっか。
効くかどうかわからないけど、一応試してみよう!
「千草ちゃん、もうこんなことやめて!? 昨日も今日も、火事の原因が千草ちゃんだって知ったら、萌黄ちゃんが悲しむよ!?――お姉さんなんでしょ!? 妹に辛い思いをさせるなんてダメだよ! お願いだから、この火を消して! 千草ちゃんならできるんだよね!?」
火をつける力があるなら、消す力だってそなわってるはず。
単純に、そう思ってたんだけど……。
「萌黄なんて知らない!! 火の消し方だって知らない!! 知らない!! 知らないッ!! もうどうだっていい!! わたしには露草様だけ!! 露草様がいらっしゃればそれでいいのッ!!」
千草ちゃんの叫びに呼応するように、炎が激しく揺らめく。
次の瞬間、空気がビリビリと震えた。大気がゆがみ、何か異質な力が周囲を支配する。
――風、だ。
炎とは別の、鋭い力の奔流。
突如、千草ちゃんの前に、目に見えるほどの密度を持った〝風のかたまり〟が現れた。
ぐにゃりと視界がゆがむ。
押し寄せる圧と、うなりを上げる音。――それはもう、ただの風ではなかった。
風そのものが怒っている。悲しんでいる。
千草ちゃんの心に呼応しているかのように風がうず巻き、空間を大きく震わせている。
「千草ちゃん、ダメッ!」
私が叫ぶより早く、その風は爆発的な力で紫黒帝と藤華さんめがけて放たれた。
間に合わない――!
絶望が場を覆い尽くし掛けた、その時。
パン! と乾いた破裂音が響く。
視界の端に一閃、白く光る〝何か〟が映った。
その〝何か〟は私たちの目の前に、ありえない形で現れる。
「……露草さん……!?」
思わず声が漏れた。
そこには、病に伏しているはずの露草さんの姿があった。ふわりと舞い降りたように、地に足をつけて立っている。
けれどその姿は、どこか夢のように淡く、はかなげだった。
露草さんは苦しげな表情をしていたけど、ふと視線をさまよわせた。
そしてそこに、千草ちゃんの姿を見つけると、聖母のように微笑む。
両手を広げるようにして、紫黒帝と藤華さんの前に立ちはだかった露草さんは、長年の病で弱りきった全身に、風のかたまりの全てを受け止めたのだ。
「――露草ッ!!」
紫黒帝が鋭く叫んだ。
素早く駆け寄り、崩れ落ちた露草さんの体を両腕に抱き留める。
「露草、露草っ! 何ゆえ、そちが……っ!?」
悲痛に問い掛ける紫黒帝と、彼の腕の中で横たわる露草さんに、私も慌てて駆け寄った。
露草さんの髪が乱れ、服が一部が風圧で引き裂かれている。――それほど強い力だったんだろう。
それでも露草さんは、穏やかに微笑んでいた。
弱々しく片手を伸ばし、紫黒帝の頬をそっとなでる。
瞳から、涙がこぼれ落ちた。
「ご無事……です、わね……。よかっ……た……」
かすれた声。震える吐息に、私達は息をのむ。
重苦しい空気が漂い、そして――。
「や……」
ぽつりと、背後から声が聞こえた。
「や……だ……。露、草……様……」
千草ちゃんだった。
炎の向こう側で呆然と立ち尽くしていた彼女が、一歩、また一歩と後ずさる。
「……いや……。……いや、いや! いやいやいやいやいやいやぁああああああーーーーーッ!!」
叫びながら、千草ちゃんの瞳が見開かれる。
「いや……ちがう……。そんな、つもりじゃ……。わたし、ただ……ただ、露草様が……幸せになれたらって……。それだけ、だったのに……っ!」
こらえきれなくなったのか、千草ちゃんが両手で頭を抱え込んだ。
「なのに、わたしが……。わたしの……せいで……」
膝から崩れ落ちるようにして倒れ込み、罪の意識と後悔でぐちゃぐちゃになった顔からは、涙があふれ続けている。
「露草様……。露草様だけが、わたしに優しくしてくれたのに……。露草様だけが、私の全てなのに……ッ!!」
悔しさと、悲しみと、どうしようもない自己嫌悪に引き裂かれた叫びが、燃え上がる炎に吸い込まれて行く。
「わたしなんて……。わたし、なんて……最初からいなければよかったんだ……ッ!!」
心に突き刺さるような叫び声を上げた後。
千草ちゃんは意識を手放し、力なくその場にくずおれた。