やりきれない心
カイルに衝撃の事実を打ち明けられた日から、その翌日まで。
どうやって過ごしていたのか、実はよく覚えていない。
約一日分の記憶があやふやになってしまうほど、ショックだったんだと思う。カイルが記憶を失くしているってことが。
最初は、冗談かと思った。
だって、短い間のことだったけど、私のことを『姫様』って呼んでたし。
……でもあれは、彼が言っていた通り、雪緋さんに釣られただけだったんだ。
釣られた、なんて。
以前の呼び方で呼んでしまったことをごまかすために、とっさについた嘘なんじゃないかって、実は疑ってたりしたんだけど……全然違った。
覚えてないんだ、私のこと。
知らないフリしてるとか、意地悪してるとかじゃなくて。
本当に、これっぽっちも覚えてないんだ。
私に告白してくれたことも。
抱き締めてくれたことも。
旅立ちの前日の、あのキスのことだって……。
全部全部、忘れてしまったんだ。
何ひとつ覚えていないんだ。
彼にとって今の私は……ただの〝異国から来た姫〟でしかない。
「そんなの……。そんなのないよ……」
涙がにじみそうになりながら、思わずつぶやくと、
「はい? 今、何かおっしゃいましたか?」
萌黄ちゃんの声がして、私はようやく我に返った。
目の前には、あさげの支度がされている。
私は左手にお椀、右手にお箸を持ったまま、つらつらと考え事をしていたらしい。
「もう! 何をボーッとしてらっしゃるんです? しっかりしてくださらないと困りますよ、リナリア姫殿下? あさげがお済みになりましたら、神結儀のお支度に入っていただかなければならないんですからね? まさかとは思いますが……すっかりお忘れになっていらっしゃるんですか?」
疑いの視線を向けられ、私は慌てて首を横に振った。
「まっ、まさか! 忘れるわけないじゃない! だって私は、神結儀に出席するために、この国に来たんだよ?」
「……では、お早くお召し上がりくださいませんか? 片付けられませんので」
「あっ。……う、うん。ごめんなさい」
私は素直に謝ると、ご飯やおかずを義務的に口に放り込んだ。
あさげを終えると、萌黄ちゃんは膳を両手でヒョイと持ち上げ、足早にくりやへ片付けに行った。
彼女が戻って来たら、神結儀に出席するための礼服(私の場合は、紫黒帝から贈られた和洋折衷っぽい服)に、着替えさせてもらわなければならない。
べつに一人でも着られるんだけど、萌黄ちゃんにそう言ったら、
「貴族であらせられる姫殿下が、お一人でお着替えをなさるなんて!」
って、思いっきり驚かれちゃったんだ。
……まあ、本来はそうなんだろうけど。
着替えさせてもらうとかは、どうしても慣れることがなくて。
自分の国でもアンナさんとエレンさんに半泣きで訴えて、どうにかこうにか着替えだけは、一人でさせてもらえるようになったんだよね。
ハァ。……まったく。
姫って職業も、これでなかなかメンドクサイのよ。
次に生まれ変われるとしたら。
私は絶対絶対、姫にだけはなりたくない!
……なーんて。
今の言葉、もしも先生に聞かれてたら、大目玉食らっちゃうところだろうな。
でも……どんなに先生に軽蔑されようとも、私の気持ちは変わらないけど。
姫なんて立場、窮屈なだけだもの。
私はもっと自由に生きたいの!
そうすることが出来れば。
恋の相手も結婚相手も、自分の意思で決められる。
身分の差なんて、もう気にしなくたっていい。
……そう。
身分の差なんて……。
「ハハっ。……でももう、関係ないか。カイルは私を好きになってくれたこと、覚えてないんだもんね……。身分差の恋なんて、私達の間には……もう、存在しないんだもの」
想いを声に出したら、無性に泣きたくなってしまった。
……困る。
だって今泣いたら、神結儀に腫れぼったい目で出席しなきゃいけなくなっちゃう。
我慢しなきゃ。
もっと別の……楽しいことでも考えて、涙なんて引っ込めなきゃ。
……ほら。
楽しいこと楽しいこと。
早く考えなきゃ。
でなきゃ……。
でなきゃ私……私、もう……。
「なんで? なんで忘れちゃったの、カイル……?」
ポロリと涙がこぼれ落ちる。
我慢しなきゃ、我慢しなきゃと思うほど。
カイルとの思い出が後から後から浮かんで来ては、ぐるぐると心の内を駆け巡って、私に『泣け』『泣いてしまえ』と迫って来る。
「ヤダ。忘れちゃヤダぁ。……嫌だよぉ、カイルぅ……」
子供みたいに駄々をこねて。
恥ずかしい、情けないと思う余裕すらなかった。
ポロポロポロポロ。
涙があふれてはこぼれて、頬を幾筋もつたって行く。
「カイルのバカ。忘れちゃうなんてひどい。ひどいよ。……私は、全部覚えてるのに。忘れられるわけ、ないのに……。でも……もうダメなの? あなたのこと……忘れなきゃいけないの……?」
――記憶を失ってしまったのは、カイルのせいじゃない。
彼は少しも悪くない。
ただの悲しい事故なんだから。
……それはわかってる。
わかってるのに――。
私はグチャグチャな気持ちのまま、しばらくの間膝を抱えて泣き続けた。