呼び方の変化について
自分の主張が正しいことを証明するため、止める暇もなく、萌黄ちゃんは部屋を飛び出して行ってしまった。
一人残された私は、どうしていいのかもわからず、しばらくボーッとしてしまっていたんだけど。
さっきまでの会話をカイルに聞かれてしまっていたかもしれないと、急に心配になり、慌てて庭の方を振り返った。
カイルは相変わらず、こちらに背を向けて庭先に立っている。
微動だにしない背中にホッとしながらも。
念のため、本当に聞かれていなかったかどうか探りを入れておこうと、そっと彼に近付いた。
「ねえ、カイ――」
翡翠ではなくカイルと呼び掛けそうになり、焦った瞬間。
「うわあぁッ!?」
当の本人が、こちらがのけぞってしまいそうなほどの勢いで驚き、周囲に響き渡るほどの大声を上げた。
「え……っ? あ。ごっ、ごめんなさい! そんなに驚くとは思わなくてっ」
慌てて謝ると、彼はこちらに背を向けたまま、
「い、いえ……。私こそ、失礼いたしました。お声掛けいただいたに過ぎませんのに、異様に驚いてしまい……。まったく、修行が足りませんね。お恥ずかしい限りです」
肩を落としてうつむき、小さな声で詫びてきた。
「う、ううんっ? 急に声を掛けたりしたら、誰だって驚くと思うし! お仕事中に余計なことした、こっちの方が悪かったんだもん。カイ――っ、ひ、翡翠さんが謝ることないよ!」
「いいえ。この程度のことで取り乱すのは、私が未熟者だからです。護衛たるもの、いかなる時も平常心を保ち、冷静に、的確に対処できるようにならなければいけないのです」
「……翡翠さん……」
相変わらず真面目だなぁ。
――なんて思いながら、彼の背を見つめる。
頑なにこちらを見ようとしないのが不思議だったし、寂しく思えたけど。
これもきっと、彼なりの護衛としてのケジメ? か何かなのかなと、ムリヤリ自分を納得させた。
「え、と……。あのね、翡翠さん? お仕事中に悪いんだけど、ちょっと質問してもいい?」
「は? あ……はい。構いません」
「そっか。ありがとう。それじゃあ、訊かせてもらうけど……。さっき、萌黄ちゃんと私が話してた内容って、聞こえてたり……した?」
どうか聞こえていませんようにと、ハラハラしながら訊ねると。
少しの間を置き、
「いいえ? ここまでは、姫様達のお声は聞こえておりませんでした」
――という答えが返ってきた。
「そっか。聞こえてなかったんだ?……うん。それならいいの。変なこと訊いちゃってごめんね?」
今度こそ心からホッとして。
部屋の中に戻ろうと、私はくるりと方向転換した。
だけど、ちょっと前から気になっていたことが、どうしても訊きたくなり、
「……ねえ、翡翠……さん?」
声を落とし、もう一度呼び掛ける。
「は、はい。いかがなさいましたか?」
「……うん。あのね? えっと……」
……どうしよう?
本当に、訊いちゃっていいことなのかな?
……わからない。
わからないけど――っ。
「『リナリア姫殿下』から『姫様』……って、呼び方が変わったのは、どうして……?」
内心ドキドキしながら、思い切って訊ねてみた。
「………………はい?」
長い沈黙の後、彼は暗い声で返事をした。
想像していた反応と違い、私は焦って、
「あのっ、えっと! 最初はリナリア姫殿下って呼んでくれてたけど、途中から姫様って呼び始めたでしょう? ど、どうしてなのかなって思って、それで――っ」
気が付くと、自分でも驚くくらいの早口になっていた。
再びの沈黙の後。
彼はヒヤッとするくらいの低い声で答えた。
「申し訳ございません。雪緋がそう呼んでおりましたもので、私も釣られてしまったようです。お嫌なのでしたら、元のようにリナリア姫殿下とお呼びいたしますが――」
「あ、ううんっ! 嫌なわけじゃないの! むしろ嬉しかったから……っ」
……なんだ。
雪緋さんに釣られただけだったんだ?
私はてっきり……ザックスにいた頃みたいに呼びたくなったから、とか……そういう理由かと思って……。
期待していた答えと違っていたことに、私は少なからずショックを受けていた。
だけど彼は、追い打ちを掛けるように、
「やはり、『姫様』では馴れ馴れしすぎますね。雪緋は、あなた様のお母君であらせられます紅華様の従者であったようですから、ついつい親しみを込めた呼び方になってしまうのでしょうが……。私はただの護衛――しかも、数日間の護衛に過ぎないのですから、『リナリア姫殿下』とお呼びするのが、護衛としての正しい選択に思えます。今この時から、『リナリア姫殿下』に戻させていただいた方がよろしいですね」
紙に書いてあることをただ読み上げるような、感情のこもっていない声色で。
〝呼び方を元に戻す宣言〟をした。
思い切り突き放された感じがして、傷付いた私は。
『いいの! 姫様って、前みたいに呼んでっ?』と、言ってしまいそうになったけど。
「ただいま戻りました……」
ギョッとするほど青い顔をした萌黄ちゃんが、いつの間にか横に立っていたことに気付き。
私は思わず、『うわあっ!?』と大声を上げてしまった。