私のコンプレックスが好きだなんて、信じられるわけがない
※この作品は、『共通恋愛プロット企画』参加作品です。
※相内 充希さまの異世界恋愛プロットを使用しています。
「マチルダ隊長! 陛下がお呼びです。至急謁見の間にお越しください」
「父上が?」
従騎士に呼び止められ、私は口元をひきつらせた。
なんだろう。心当たりが多すぎる。
先日酒に酔った勢いで、侍女にセクハラした伯爵の馬鹿息子を殴ってしまったことだろうか。それとも、練習用の木剣を今月は三本も折ってしまったことか。
父様から受けるであろう小言を予想しながら、謁見の間に馳せ参じたけれど。今回は違った。
謁見の間には父様を始め、他国に嫁いで国内にいない姉たちを除けば、家族全員がずらりと揃っていた。これは単なる小言ではないと身構えたのだが。
「は? 私がリュズギャル国にですか?」
私の低音の「は?」に、父様と兄様たちが顔色を青くしてたじろいだ。
失礼な。そんなに怯えなくてもいいだろう。
驚いたからいつもより低い声が出ただけじゃないか。
「そうだ」
「リュズギャル国にはアマンダ姉様が嫁ぐ予定だったではないですか」
南の同盟国リュズギャルとの同盟強化のための婚姻は、第三王女のアマンダ姉様にと、他ならぬ父様が決めていたのだ。
「それが、アマンダは龍神に選ばれたのだ」
デニズ国は海に囲まれた小さな島国である。島の南の海は比較的穏やかだが、北の海は荒い。故にデニズ国は古くから北の海に住む龍神を崇めている。
「は? 龍神? 確かにわが国は龍神信仰ではありますが。信仰は信仰。現実との区別もつかなくなりましたか? ぼけるにはいささか早いのではないでしょうか」
「ぼけ……!」
ぐふっとダメージを受けた父様は無視だ。
その昔、龍神は荒れ狂う海に祈りを捧げ続けた乙女と恋に落ち、デニズ国に海の平穏と豊漁を約束したのだという。乙女は龍神との間に子をもうけ、現在の王家の始祖となった。
ということになっている。なってはいるが、どうせ神話など大げさに伝わっているもの。誰も本当のことだとは思っていない。
「ごめんね、マチルダ」
アマンダ姉様が、美しい顔に申し訳なさそうな表情を浮かべた。その隣がまばゆく輝いたかと思うと、一人の男性が立っていた。海よりも青い髪と瞳。爬虫類のような縦長の瞳孔を持った金色の瞳。鱗に覆われた肌。神々しいまでの美貌。まさか。
「私、この人と恋に落ちてしまったの」
人外の隣に立って、ぽっと顔を赤らめるアマンダ姉様はいつも以上に綺麗だった。恥ずかしそうに両手を頬に当て、もじもじと体をくねらせると。腕に挟まれて、さらに強調された両胸がぽよぼよと弾む。
揺れる国宝級のおっぱいをガン見する龍神を見て、私は思った。
王家の男どもが巨乳好きの原因はお前か龍神。
****
というわけで、我が国の『海の平穏と豊漁は龍神の加護によるもの』というのは、単なるおとぎ話ではなかったことが判明した。
小さな島国が海の平穏と豊漁をなくせば死活問題である。
龍神の機嫌を損ねないためにも、何よりもアマンダ姉様の幸せのためにも、二人の結婚はリュズギャル国の王子との結婚よりも優先されることになった。
しかし、同盟強化のための婚姻をなかったことにするのも、政治的に困る。
アマンダ姉様以外の姉様二人はすでに嫁いでいるし、まだ八歳の妹を嫁がせるのは忍びない。
そこで、私に白羽の矢が立ったというわけだ。
王女として嫁ぐことになったからには、騎士の恰好で行くわけにはいかない。
私は久しぶりにドレスに身を包み、リュズギャル国行きの船の前に立った。
「おお、馬子にも衣裳だな! マチル……ダァッ!」
「とっても可愛らしいですわ。ね、あなた」
私のドレス姿に褒め言葉じゃない褒めをした大兄様の足を、思い切り踏んづけた義姉さまが、目元を潤ませて微笑んだ。『ね、あなた』のところで小首を傾げると、メロンも真っ青な胸がたゆんと揺れた。
「ああ、うん。マチルダはほら。ちょっと背が高いのと目つきが悪いのと女らしい体つきじゃないけど、容姿は悪くな……っ!」
「知ってまして? マチルダのブロマイドは大人気なのですよ。美しい義妹を持って鼻が高いですわ」
ほほほ、と上品に笑いながら、義姉様がピンヒールを大兄様の足にぐりぐりとねじ込む。
ちなみに大兄様の奥さんだけでなく、中兄様、小兄様の奥さんも大層立派なお胸をお持ちだ。
ブロマイド。ブロマイドね。
私は義姉様のフォローに遠い目をした。
確かに私のブロマイドは人気だ。美しいと評判らしい。ただし、騎士服の私のブロマイドが、女性の間でだ。
ドレス姿のブロマイドも販売されているが、そちらはあまり売れていない。
「お姉様、ドレスも似合っています! 綺麗です!」
「ありがとう」
すでに胸のふくらみを見せ始めた八歳の妹が、元気よく褒めてくれたけれど。
「はああ」
女としての魅力がないのは、兄様たちに言われなくても分かっている。
母様や義姉様、妹が褒めてくれるのは身内のひいき目から。私は可愛い、綺麗などとは程遠い。女性らしい丸みもおしとやかさもない。巷では王女ではなく王子と呼ばれている。
そもそも私は女らしいことが苦手で、幼い頃から姉様たちより兄様たちに混じって剣術を習うのが好きだった。声も低く目つきも悪い。窮屈で動きにくいドレスも嫌いだ。
年頃になればそれらしくなるだろうと周囲も私も思っていたが、変わらなかった。胸は申し訳程度のふくらみしか育たず、代わりに背丈は兄様たちとも引けを取らないほどになった。
同世代の男の子は皆私を怖がり、女の子からはアイドル扱い。こうなると恋をするのも面倒臭い。
幸いうちは兄弟姉妹が多い。政治的な駒は足りていた。
私は早々に騎士団に所属。隊長までのぼりつめた。結婚する気などさらさらなく、アマンダ姉様の護衛騎士としてついていく予定だったのだ。
「よいかマチルダ。勘違いしているが、お前は可愛い。女の魅力は胸だけではないぞ。むしろ私が心配しているのはだな……」
「ありがとうございます、父様。可愛い発言は親ばかだとして、母様を選んだ方の言う事は違いますね。説得力があります」
「……そういうところだからな!」
温度を下げて返答すると、父様が胃を押さえた。つい父親に塩対応してしまうのは娘の性。親の欲目とはいえ可愛いと言ってもらえて本当は嬉しい。
「元気でね、マチルダ」
「はい、母さ……むぎゅぅ」
母様に抱きしめられると、大きな二つのマシュマロが私の顔をむにゅっと包んだ。
ふわふわなのにすごい重量感だ。
「閨で投げ飛ばすなよ」
「締め技も禁止な」
「関節外しもだめだからな」
船上の人となった私に、兄様たちの注意が飛ぶ。
どうせ形だけの結婚だ。
父様や兄様が心配しているようなことにはならない。
元からアマンダ姉様の護衛騎士として来るつもりだったため、リュズギャル国については一通り勉強していたが。かの国には王が管理する女たちの園、後宮がある。
きっと綺麗どころがわんさかといるに違いない。寵姫候補や、既にお手付きの美女もいるのかも。
私の入る余地などない。
安心させるように笑って手を振ると、船が出立した。
****
相手方とのあいさつは簡単に済んだ。
肝心の第一王子イルハンとは、お互いに「初めまして」の挨拶のみ。褐色の肌ときりりとした眉、彫りの深い顔立ちをしていて、イケメンだった。
なんだろう。この国独特のあの神秘的な瞳。
五割増しで恰好よく見えるのだが、反則じゃないだろうか。
「まあそれも関係ない」
なにせ形だけの結婚だ。夫となる人が恰好良かろうがどうでもいい。
「デニズ国とは何から何まで違いますね」
祖国からついてきてくれた侍女たちが、珍しそうにあたりを見渡した。
国王と王妃には、自由に過ごすようにと取り計らってもらったため、婚礼の準備や勉強の時間以外は城内を散策しているのだ。
リュズギャル国の宮殿は主要建物の天井が丸い。見上げると天井や壁に円形に美しい紋様が並んでいて、自分を中心にした万華鏡の中にいるようだ。
旅行気分で、散歩をしているだけで楽しい。
「私はこの国の衣装が気に入ったな」
くるりとその場で体を回してみせると、薄い布がひらりと広がった。
ドレスと違い、コルセットがない。重ね着も少ない。針で固定しないから、ちくちくもしない。布そのものも薄くてさらさらと軽かった。
何よりも美しい模様の入った、ゆったりとしたガウンのような上着の下は、ズボンなのだ。
「これなら馬にでも乗れそうだ」
「姫様!」
「ふふ。冗談ですわ。心配しなくても一応は王女です。猫をかぶるくらい造作もなくてよ」
早々に騎士団に入ったとはいえ、腐っても王女だ。淑女教育も受けている。
口元に手を当ててにっこりと微笑むと、侍女が嘆息した。
「姫様がどういう方かはよく知っておりますとも」
だから不安なのだと言わんばかりの侍女の注意を逸らそうと、私は向こうを指さした。
「おや、向こうの建物は雰囲気が違うな。あれが後宮か」
「そのようですね」
他の建物は外側に柱と屋根だけの回廊が設けられているのだが、向こうの建物は全て壁で覆われている。
「王が管理する女の園ですから、男性が忍び込めないようになっているのでしょうけれど、なんだか物々しいですね」
「行ってみよう」
「え? ひ、姫様!」
少し腰を引いている侍女を置いて、後宮に近づくと入り口の衛兵に声をかけた。
「こんにちは」
「ご挨拶頂き恐縮です。王妃殿下」
衛兵が胸に手を当てて頭を下げる。
「中を見学したいのですが、いいでしょうか?」
「どうぞ。自分たちは男性でありますので、中を案内出来ませんが」
良かった。一応、リュズギャル国語は習得済みだったが、通じたし聞き取れるようだ。
衛兵が脇に体を寄せてくれたので、中へ入る。
「姫様、ここは本当に後宮なのでしょうか。王の寵愛を受けるには、年頃の娘が少ないように見えます」
「……確かに」
美女ばかりが集められた女の園だと思っていたのだが。ぱっと見た限り、着飾った女はいない。
中にいた女たちは老若入り乱れていて、皆が生き生きと働いているように見えた。
「子供が多いな」
「王子様はお二人のはずですが」
洗濯をする者。掃除をする者。小さな子供たちを連れた者。少し大きな子供たちの勉強を見ている者もいる。
「それに、まるで小さな街だ」
タイルで模様が描かれた内装の美しさは同じだが、中の造りは違う。巨大な集合住宅のような構造だ。
侍女と二人、きょろきょろと辺りを見渡していると、一人の女が進み出てきた。
「お初にお目にかかります、王女殿下。私はこの後宮の管理を任されているベルナと申します」
ベルナは初老に差しかかろうかという年齢の美女だった。この国特有の褐色の肌と、くっきりとした黒い瞳、白髪交じりの黒髪。柔らかく微笑んだ目尻と口元には、美しいしわが刻まれている。
「ベルナ様。はじめまして。デニズ国第五王女マチルダです」
「マチルダ様付きの侍女のオリヴィアと申します」
「ご丁寧な挨拶をありがとうございます。どうか、様はよして下さいませ。わたくしめは王女殿下に敬称をつけて頂くような身分にありません」
どういうことだろう。
王の後宮を取り仕切っているのなら、彼女は王の側妃、いや、年齢からすると王母などではないのだろうか。だとすればたとえ出身が平民以下の奴隷だとしても、貴族や王族と同じ身分に昇格しているはず。
「では、どのような立場の方なのでしょう。差し支えなければ教えて頂けませんか」
「もちろんでございます。わたくしめの身分は今も昔も平民でございます。後宮を管理するのは、一番元気な年長者であるのが慣例なのです」
年長者であるという理由で平民が管理しているといことは。
「もしかして。後宮の中に身分制度がない、ということですか」
「左様でございます。王女殿下にあられましては、デニズ国の御方。この後宮の成り立ちから説明した方が納得頂けると思います」
「お願いします」
ベルナの説明によると。
後宮とは、王の祖父の代におこった戦争や災害で夫を失った女たちを保護し、彼女等が子供を育てたり教育を受けるために作られたのだという。
「王宮と後宮、寺院が併設して建てられたのは、戦没者へ王とその遺族がいつでも冥福を祈りを届けられるように、という思いからなのです。時が経ち、戦没者の遺族は私のような高齢者のみとなりました。今はそれぞれの事情で寺院にかけこんできた女たちの保護施設となっております」
私は思わず侍女と顔を見合わせた。私たちはどうやら、恥ずかしい勘違いをしていたらしい。
「成り立ちの説明を感謝すると共に、無知と失礼をお詫びします。私たちは、その、後宮は寵姫たちの住処だとばかり思っていました。申し訳ありません」
「まあ、そんな、恐れ多いです。頭をお上げください、王女殿下」
深く下げた頭に、ベルナのおろおろとした声が降ってくる。平民に頭を下げるのは王女らしくないことは分かっているが性分だ。良いことは良い。悪いことは悪い。相手が誰であろうと、自分が何者であろうとそこは関係ない。
「潔い謝罪は快く思いますが、うちのベルナが困っている。それくらいにしてやって下さい」
くくっという低い笑いと男の声がした。
「これはイルハン様。お見苦しいものをお見せしました」
う。よりにもよってこんな場面で出くわすとは。
声の主は未来の夫、イルハンだった。
気まずくて目を逸らす私に、イルハンはおかしそうに笑った。
「勘違いしても無理はない。大半の国で後宮といえば、マチルダ姫の言われた役割をしているものですからね」
フォローの言葉にも笑いが含まれていて、むずむずとくすぐったい。こういうのは嫌いだ。
「本当です。要らぬ勘違いをしなくていいよう、最新の歴史書を下さればよかったのに」
低い声でちくりと棘のある返しをしてから、私は焦った。
しまった。つい父様や兄様と同じ塩対応が出た。
しかも何だ、今の声。何度これで怖がられてきたと思っているんだ、私は。
「それは気がつかず申し訳ない。部屋に届けておきましょう。では、俺はこれで。ああ、ベルナはお借りしますが見学はご自由に」
嫌味のような私の要求をさらりと受けて、イルハンはベルナをともなって奥へ立ち去った。
****
「面白かった」
本当に届けられた歴史書をぱたんと閉じ、私は伸びをした。この国の語学、作法についての今日の座学は終わった。歴史書も読み終えた。夕刻まで自由時間だ。
「どうしますか。今日はこのままお部屋で過ごされます?」
侍女のオリヴィアが聞いてきた。
いつもなら私が行動するまで口を出さないのに。
昨日気まずい思いをしたものだから、気を遣わせたらしい。
「いや、出よう」
部屋でじっとしているのは苦手だ。彼は王太子。そうそうあちこちをうろついていないだろうから、昨日出会ったのはたまたまだ。
そう思っていたのに。
「なんでいるんだ」
廊下を歩いていると、官僚と思われる男と話し込んでいるイルハンがいた。書類を片手に抱えているのと表情が真剣なので単なる雑談ではなさそうだ。邪魔をするわけにはいかないので、そっと散歩コースを変更したけれど、目が合ってしまった。仕方なく微笑んで、会釈だけするとそそくさと立ち去った。
その翌日。そのまた翌日。さらにまた翌日。
一週間、二週間と過ぎ。
商人と打ち合わせているイルハン。宮殿の外で設計図らしきものを広げているイルハン。数人と慌ただしく宮殿の外へ出ていくイルハン。戻って会議の間へ消えていくイルハン。
毎日のように忙しそうなイルハンと出くわした。
「どれだけ仕事人間なんだ。普通、執務室にこもっているか、会議の間へ呼びつけるだろうに」
今日も準備や勉強を終えた私は、散歩をしながらぶつぶつとイルハンの話題を出した。
確かに視察もあるにはあるが、王族があんなにうろうろしているとは。リュズギャル国では普通なのだろうか。
いや。そういえば第二王子の方はほとんど見かけない。
イルハンの方が普通じゃないんだ。
「ふふっ、嬉しそうですね。姫様」
「そうか?」
「ええ」
オリヴィアに言われて口元に手をやる。いつの間にか笑っていたらしい。
私は慌てて笑みを消した。
「格好いいですものね、イルハン様」
「ああ。恰好いい。あの肌色と目はすごいな」
「仕事熱心な人っていいですよね」
「ああ。王宮の隅々まで目を配っている。身分が下の者にも偉ぶっていないし、話すと気さくで面白いんだ」
「良い方とご結婚出来て良かったですね、姫様」
「ああ。私はそう思っているが……」
ふと、後宮で会った時のイルハンの笑顔を思い出した。同時に自分の失態もだ。
後宮を下世話な勘違いをして笑われたこと。
つい、可愛げのない態度を取ってしまったこと。
私の人相であの言い方。親しい者ならともかく、そうでない人間には絶対印象が悪い。
「あら。あらあら」
「何だ」
「いえいえ~。何もありませんよ、姫様」
うふふと手を当てて笑うオリヴィア。絶対に何かあるだろ。
ああ、もやもやする。よし。
「あ」
「? あ、姫様!?」
人差し指を青空に向けて一言。侍女が釣られて空を見上げた瞬間、走り出した。
オリヴィアが慌てて追いかけてくるが、近くに人がいないのは確認済みだ。淑女の仮面を脱いで本気を出しても構わないだろう。
私はそのまま壁に向かって疾走。手前で踏み込み壁を蹴って体を上に。屋根に手をかけてそのまま飛び乗った。
「ああ、久しぶりにやられた」
中庭の芝生の上に崩れ落ちるオリヴィアを確認。べーっと舌を出して屋根から反対の庭へ降りようとして。
「マチルダ姫?」
イルハンに見つかった。
驚いた顔でこちらを見上げている。
「なぜそんなところに」
「あ、ははは。ええと、ごきげんようイルハン様」
それはこっちのセリフだ。人の気配はなかったはずなのに、なぜこんなところにいるんだ。
あああああああああぁ。変な汗が出る。
「危ないです。今人を呼んで……」
ええ!? 人を呼ばれたらまずい。淑女じゃないのがばれる。
いやもうばれたか。いやいや、ばれたのは幸いイルハン一人だ。傷は浅い。さっさと下りて何もなかったことにしよう。
「いえ! お気遣いなく。そんなに高い所ではありませんから、すぐ下りますね」
「は? 待て、マチルダ」
二階程度の高さはどうということはないのに、顔色を変えたイルハンが着地点で両手を広げた。
「うわ」
このままではイルハンの胸に蹴りをかましてしまう。私は空中で体をひねって方向を変える。
どすっという衝撃と共に、イルハンの胸に飛び込んだ。
「大丈夫ですか!」
私は慌ててイルハンの上から下りると、肋骨のあたりを探った。
落下した人間を受け止めるのは、体重以上の衝撃になる。普通なら骨の二、三本は折れる。
私が触ると、イルハンはびくっと体を震わせてから腹を抱えるようにして丸まった。
痛かったのか。ということはやはり折れている?
「すぐ医者を……!」
「ぷっ」
立ち上がろうとすると褐色の手に手首を掴まれた。大きくて思いの外がっしりとした手だ。その手が震えている。
「イルハン様?」
背中を向けて丸まっているため、表情は見えない。そろそろと覗きこむと。
「はははは」
イルハンは腹を抱えて笑っていた。
****
何だよ、あれ。最高か。
さっきの出来事を何度も思い出して、俺は一人、にやにやしていた。
王族の結婚は義務だ。結婚相手にも政略結婚にも、夢や希望なんて抱いていなかった。
それがどうだ。まさかの理想の女神だ。
空よりも深い海色の瞳。この国にはない白い肌。黄金よりも煌く金の髪。それらデニズ国の特徴も目を引くが、何よりもあの目。立ち姿。
ひやりと冷たい刃のような、凛とした美しさ。曇りのない切れ長の瞳。背筋を伸ばした堂々としたたたずまいなのに、時折スレンダーな胸元を気にしてほんのりと頬を赤らめるのが、たまらなく可愛らしかった。
一目ぼれというのをはじめて経験したわけだが。まだ婚約段階。立場上、がっつくわけにもいかない。それにマチルダも政略結婚で来ているだけだ。あまりがつがつ行くとひかれるだろう。
初顔合わせの挨拶だけでそれだけ浮かれていたのに。ばったり後宮で会った時の彼女。
自分の非をあっさりと認めただけでなく、身分が下の者へ躊躇いなく頭を下げた。あの潔さと分け隔てのない態度は、初対面で受けた印象を裏付けるものだった。
思わず笑ってしまった時の、あの恥ずかしそうな顔も照れ隠しのツンとした態度も、たまらなかった。
今すぐ彼女の手を取って、後宮内を案内&デートといきたかったが、仕事を放りだすわけにもいかない。葛藤しているとぼそりとベルナに耳打ちされた。
「イルハン殿下。怒った顔を見たいからといって、ちょっかいばかりかけていては嫌われますよ」
「うぐ」
図星を指されて俺はデートを断念した。忙しかったこともあるが、何よりも一緒にいては、ますます怒った顔を見たくなりそうからだ。自分でも知らなかったが、どうやら俺は好きな子を苛めたくなるタイプらしい。
流石はベルナだ。彼女は俺を赤ん坊の時から知っている。
しかし待ち合わせているわけでもないのに、毎日のようにマチルダを見かけた。軽く挨拶を交わす程度だが、目が合うといつも恥ずかしそうに白い頬がほんのりと赤くなるのと、ズバズバとした物言いが楽しい。
極めつけは屋根の上のマチルダだ。
息抜きをしようと、気配を消して側近や護衛をまいて一人になったら。屋根に彼女がいた。
「可愛かったなぁ」
屋根の上で挨拶をはじめてしまった、あの焦った顔。可愛かった。
飛び降りようとしたから俺も焦ったが。
「あの咄嗟の判断。あれは一人で下りられたな」
俺を蹴らないように、空中で体勢を変えたあの身のこなし。屋根にも自分で上がったのだろう。心配する必要などなかった。むしろ余計な事をしてしまったのだと思う。
彼女には悪いことをしたが、彼女の素の表情は普段の何倍も面白くておかしくて、可愛かった。俺を本気で心配してくれたことは、嬉しくて堪らない。
「あの細腕で。あの小さな手で、剣だこがあるんだものな」
深窓のお姫様など扱いに困るだけだと思っていたが。
見た目も性格も行動も、好きだ。何もかもが面白くてあきない。
なんだよ。もう運命だろこれ。いっそ結婚式の日取り、繰り上げてやろうか。
なんて浮かれまくっていたあの日の俺。
馬鹿だろう。
それもこれも今だから言えることだ。この後どうなるか知っているから言えることだ。
勝手に一人で舞い上がって浮かれていても、相手がそうだとは限らない。当たり前のことだ。
だが俺はそのことにさえ気づかなかった。恋は盲目とはよく言ったものだ。完全に見えていなかった。
そのせいで、彼女に随分と苦しい思いをさせてしまった。
それを俺は、あの侍女に警告されるまで気づかなかったのだから。
*****
屋根の上逃亡事件の後。
「やってしまった」
あらあら。
部屋に戻るなり、姫様は布団を頭からかぶっておしまいになりました。
「姫様」
「絶対、ひかれた。あきれられた。こんなやつ女じゃないって思われた。ものすごく笑われたし、変なやつだと思われた」
声をかけても団子のように丸まったまま。
どうやら姫様は、イルハン様に素を見せてしまったことにショックを受けられたようです。
ふーん、です。わたしを置いて屋根になんて上るからですよー、だ。
「大丈夫じゃないですかね~?」
「ぐすっ、絶対大丈夫じゃない……」
冷たい相槌を返すと、涙声になってしまわれました。
姫様は普段凛とされていますが、割と繊細な方なのです。あれを失敗した、これを失敗したと落ち込むことは多いのです。
けれどこんな風に泣いてしまうのは、姫様がお小さい頃以来です。
ああ。こうなった姫様にわたしは弱いのです。
「もー。姫様ったら。らしくないから怒れないじゃないですか」
「だってオリヴィアぁぁ」
仕方ありませんね。姫様をお慰めするのもわたしの役目です。
まあ、わたしも姫様が屋根に上るのを止めませんでしたからね。だってこの国に来てからずっと、頑張って淑女の振る舞いをなさっておられました。ちょっとした運動と息抜きくらい、いいではないかと思ったのです。
幸い周囲には、建物の裏側にいたイルハン様だけでしたから。
わたしはポンポンと、布団の上から姫様の背中の辺りを叩きました。
「大丈夫ですよ。国王陛下や王子殿下は身内なのでろくな褒め方していませんが、姫様は可愛いですよ。ちゃんと女の子です」
困りましたね。自己肯定感が低いのが、姫様の欠点です。
確かにブロマイドの販売数は、ドレス姿より騎士服の姫様でしたが。あれは国王様と兄上様方が、ドレス姿のブロマイドの数を制限していただけ。
姫様の凛とした美しさは、男性にも人気があったのですよ。
「嘘だ。絶対大丈夫じゃない。全然可愛くない。目つき悪いし。胸ないし。背は高すぎるし。ズバズバ言うし。屋根に上るし。怪我をさせそうになるし」
「私が見るに、イルハン様はむしろ、姫様のそんなところを気に入っておられるようですけどね~」
王族は簡単に本心を表情に出してはなりません。イルハン様も表情に出さないようにしていましたが、目は口ほどに物を言うもの。駄々漏れです。お二人以外は、みーんな気づいてましたよ。
「ぐすっ、そんなはずないぃ……」
「ありますよ。ほら、こっち来てください」
布団の端を少しだけ開けて、ちょいちょいと手招きをすると。姫様はもぞもぞと動いて、わたしの膝の上におでこを乗せました。
よしよしと頭を撫でて差し上げると、わたしの侍女服の裾をきゅっと握ります。
やだ可愛い。姫様をこんな風にしているのが、イルハン様といのうが気に入りませんが。
少し手助けをして差し上げましょうか。
「どうしてそんなに落ち込んでいるんですか? どうせ政略結婚、形だけのものだって割り切っていたじゃないですか。イルハン様にどう思われていても関係ないはずでしょう?」
「え?」
姫様がきょとんと涙に濡れた瞳でわたしを見上げました。
やっぱり分かっておられませんでしたね。純粋培養されましたものね。騎士団の面々にも国王様と兄上様方の手が回っておりましたし。
「嫌われたっていいじゃありませんか」
「嫌だ。私、イルハン様に嫌われたくない。だって」
姫様が子供みたいに嫌々と首を振りました。ですからわたしは小さな子供にするように聞きます。
「だって?」
「だって私。私……」
姫様の白い肌がかーっと赤く染まりました。
「私、イルハン様のことが好き。だから嫌われたくないんだ」
やれやれ。ようやく気がつかれましたか。
「初恋ですね、姫様」
「うん」
「イルハン様も同じ気持ちですよ」
「それはない」
ありありですけどね。姫様よりも先に向こうの方がメロメロでしたよ。
まったく。わたしの姫様をこんなにしてしまうなんて、悪い殿方です。イルハン様の首を絞めてやりたくなりました。
気配の消し方も甘い青二才ですからね。
姫様が望まれるのなら、ひっそりと寝所に侵入し、寝首をかいてやるくらいわけもありません。もちろん、私がやったという証拠など残しません。
でもそれは我慢です。そんなことをすれば姫様はもっと泣いてしまうでしょう。
「姫様。好きという気持ちは口にしなければ伝わらないものです。ですからイルハン様にお伝えしましょう。それが第一歩ですよ」
そうです。伝えなくては伝わりません。主にイルハン様の気持ちが! 姫様に!
「私なんかを好きになってくれるだろうか」
だーかーら。もう好きですってば。
「問題ありません。わたしにお任せください」
わたしはにっこりと笑って、どんと胸を叩きました。
あのくそ王子、マジで絞め殺してやりましょうか。なんて思いながら。
****
みっともなく泣いて、オリヴィアにすがってしまった日から。
恋を自覚してしまった日から。
私はおかしい。
毎日のようにイルハン様と出くわすのは以前と変わらないけれど、偶然ではなくなった。
散歩をしてはイルハン様の姿を探している。見つかるまで戻りたくない。
イルハン様を見つけたら、それだけで嬉しい。さりげなさを装って声をかける時、心臓が爆発しそうなほどドキドキする。
結婚式は一日一日と迫っていく。イルハン様への気持ちはどんどんどんどん大きくなる。どうしようもなく膨らんで、胸を押しつぶしてくるのが苦しい。苦しくてたまらない。
『好きという気持ちは口にしなければ伝わらないものです』
苦しくなる度に、オリヴィアの言葉が浮かぶ。伝えてしまいたくなる。
だけど迷惑だと言われたらどうしよう。
女らしくない私を好きになってくれる人なんているのだろうか。
でも苦しい。好き。目が好き。声が好き。
もっと見ていたい。声を聞いていたい。触れたい。触れてほしい。
でもそんなの無理。苦しい。辛い。
一緒にいられて嬉しい。楽しい。好き。昨日よりもっと好き。
そうしてついに気持ちを伝えられないまま、結婚式の二日前にまでなってしまった。
「姫様。今宵の月は格別に綺麗です。少し夜風にあたってみてはどうでしょう?」
「うん。ありがとうオリヴィア。そうする」
どうせ眠れそうになかったから、オリヴィアの提案はありがたかった。
私は上着も羽織らず、ふらりと夜の庭に出る。数歩進んで先客に気づいた。
「イルハン様」
月明かりに白く照らされて、イルハンが中庭に立っていた。同じ夜、同じ時間に、同じ庭で偶然出会うはずがない。後ろにいたはずのオリヴィアの姿がなくなっているから、彼女の仕業なのだろう。
「こんばんは。マチルダ姫。月の綺麗な夜ですね」
「こんばんは。イルハン様」
イルハンが手を差し出した。
「せっかくの月夜です。少し散歩をしましょう。お手を」
男性が女性をエスコートするのは、社交のマナー。息をするように当たり前のもの。王族同士の結婚と同じように。
「マチルダ姫。俺たちの結婚は政略結婚です。ただの義務でしかありません。何事もなければ国を継ぐのは弟ですし、無理をして子供を作る必要もありません」
「そうですね。政略結婚ですもの。義務でされるだけですよね」
体の横で拳をぎゅっと握った。声が勝手に震える。
分かっていたことだが、本人から義務だと告げられるのは辛い。
「マチルダ姫?」
こらえきれずに、ぽろりと涙がこぼれた。
「目つき悪いし背は高いし声は低いし胸はないし。屋根にまで上るような、少しも女らしくない女、義務でないと一緒にいられませんよね」
「マチルダ姫、俺は」
「自分の立場は分かっています。必要以上に近づきません。話しかけませんから、ご安心下さい」
「マチルダ姫!」
突然肩を掴まれて、私はイルハンを見上げた。彼は長身の私よりさらに高い。
「侍女殿の言う通り、口にしないとわかりませんね」
イルハンの手が私の目元を撫でた。それからまた、手のひらを上に向けて差し出す。
「貴方は美しい。凜とした曇りのない眼差しも落ち着いた声も、忌憚のない分け隔てのない態度も、活発なところも。俺は貴女のそういうところが、好ましいと思っています」
私のコンプレックスが好きだなんて、信じられるわけがない。ずっとそう思っていた。
「俺は貴女が好きです。はじめて見た時から。義務でない結婚が嫌でなければ、この手を取って下さい」
「イルハン様。私」
好きという気持ちは、口に出さなければ伝わらない。
「私、イルハン様が好きです。義務じゃない結婚をしたいです」
手のひらの上に手を乗せると、ぎゅっと握られた。背後に月を背負って、イルハンが微笑む。
オリヴィアの言う通り、今夜の月は美しかった。