記憶喪失の私は、どうやら皇弟殿下の最愛のようです
目を覚ますと、私は見知らぬ部屋のベッドの上にいた。
「ルシル、ようやく目覚めたか! おまえさんが生き返ってくれて、ホント良かった……」
よく日焼けした壮年の男性が、私の顔を覗き込んでいる。
もう少しで、血の雨がわんさと降るところだったな……と、それはそれはホッとした表情で。
(いま『血の雨が降る』という物騒な言葉が聞こえたけど、それよりも、もっと気になる『生き返って良かった』って、どういうこと?)
「どうした? ぼんやりして。 あっ、そうか! 腹が減ったんだな。 待ってろ、すぐに用意してもらうからな」
一瞬呆けていた私は、部屋を出ていこうとする男性の袖を掴んでいた。
「あの……ここは、どこですか? あなたは、誰?」
「はあ!? ルシル、一体どうした? おまえさん、ボケるにはまだ早いだろう?」
何とも口の悪い男性だが、とりあえず悪い人には見えない。
「理由はわからないのですが、記憶がないのです。ここがどこなのかも、自分が何者なのかも、わからないんです」
正直に包み隠さず、自分の現状を打ち明ける。
白衣を着ているのだから、男性はお医者さんなのだろう。
「なるほど、そういうことか。ふむ……外的か心的要因かはわからんが、それによる一時的な記憶の混濁かもしれんな」
男性は、私の話を疑うことなく信じてくれたようだ。
「俺の名は、ダンテ。この宮廷で医官をしている者だ。おまえさんの名は、ルシル。ここで働く文官だ」
ダンテ医官の話によると、ここはザルディ帝国の帝都内にある宮殿。
その中にある、私の私室だそう。
数日前、私は外出中に何者かに毒を盛られ……死亡。
検死を担当したダンテ医官が、間違いなく死亡を確認したとのこと。
しかし、その数時間後……なぜか私は息を吹き返す。
その後もしばらく昏睡状態は続いたが、今日ようやく目を覚ましたのだという。
◇
生き返ってから、三日が経った。
治療は順調に進んでいるが、いまだに記憶は戻らない。
毒の影響で一時的に記憶を失っている……というのがダンテ医官の見立てだが、はっきりとした原因はわからないらしい。
いつまでもこのままの状態では困るので、自然に記憶が戻るのを待つのではなく、周囲に話を聞き取るなどして記憶の回復に努めるべきか。それとも……
私が真剣に考え込んでいると、ダンテ医官が診察のため部屋にやってきた。
浮かない顔をした彼は、開口一番こう言った。
「実はな、お偉いさんがおまえさんと面会したいって言うんだ。一度は断ったんだが、どうしてもって聞かねえんだ。急な話で申し訳ないが、面会日が明日に決まったから、よろしく頼むな」
「お偉いさんというと……あの変なおじさんより、上の方ですか?」
「ああ、そうだ」
変なおじさんとは、私の父親という人物のこと。
一人娘である私を溺愛しているらしく、私が目覚めたその日に、面会謝絶にもかかわらず部屋へ突入してきた、ちょっとどころかかなりの変人。
記憶のない見ず知らずのおじさんに纏わりつかれ、あまりのしつこさに辟易した私は、思わず殺意を持って拳を握りしめていた。
もちろん、握りしめただけで手は出していない……かなり危なかったが。
そんな自分は、決して親不孝な娘ではないと思いたい。
娘に構ってもらい満足したのか、「父さんは、必ずルシルの敵を討ってくるからね!」とドス黒く悪い笑みを残し、彼は仕事へと戻っていった。
父は平民からの成り上がりで、今は第一軍団の軍団長を務めているのだとか。
だから、市井の事件は担当できないと思うのだけれど。
「軍団長殿より、遥かに上のお方。現皇帝の弟君であるレナード殿下だ。軍を掌握されており『コマンダン・ルージュ』とも呼ばれている」
「……えっ!? そんな偉い方が、こんな下っ端の私にどんなご用件でしょう?」
「用件は……会えばわかる。ただ、おまえさんはこれまで何度も面識があるぞ」
「そ、そうなんですか!」
まさか、平民の私がそんなお方と面識があったとは……ただただ、驚きだ。
「歳は、確か……おまえさんの二つ下だったかな。お若いが傲慢ではなく、貴人にしては比較的穏やかな方だ。ただ、血気盛んなところもあり、過去には血の雨を降らせたこともある」
「もしかして『コマンダン・ルージュ(赤の司令官)』の赤は、『血』の赤ですか? どこが『比較的穏やかな方』なんです? 矛盾していませんか?」
「赤は殿下の瞳の色からきていると思うが……とにかく、ある一点に関することだけは、苛烈になっちまうんだよ、殿下は……」
素朴な疑問を口にした私に、ダンテ医官は気まずそうに目をそらした。
「……わかりました。殿下の禁忌に触れないよう、重々気をつけます」
(何だか、非常に面倒なことになったな……)
今からでも、熱を出して寝込んでしまいたい。
明日のことを思い憂鬱になった私は、ひとりため息を吐いた。
◇
一夜明け、皇弟と面会する日になった。
あまり食欲がなく少しつまむ程度に朝食を終えると、さっそく準備を始める。
失礼のないように身だしなみをきちんと整えようとしていると、ドアがノックされた。
部屋に入ってきたのは若い侍女で、なんと私の身支度を手伝ってくれるのだという。
彼女は手際よく私の髪を綺麗にまとめると、見覚えのない高価な髪飾りをつけ、失礼のない程度に薄く化粧を施してくれた。
私が丁寧に礼を述べると、「ルシルと私の仲じゃない!」と軽い感じで返された。
もしかして、記憶をなくす前からの知り合いなのだろうかと、彼女へ記憶喪失の話と知り合い確認をしようとしたとき、今から皇弟がいらっしゃると先触れが。
事前に人払いをしておくようにとの御達しで、部屋にはいつの間にか来ていたダンテ医官と私の二人だけになっていた。
ダンテ医官の言いつけに従い椅子に座って待っていると、皇弟レナード殿下がやってきた。
傍らには、男女二人の従者もいる。
「殿下、誠に恐れ入りますが、事前に申し上げた通り、本日ルシルは座したままでご容赦ください。それと、面会は短時間でお願いいたします」
「わかっている」
レナード殿下が頷くと、ダンテ医官は一礼をし部屋をあとにした。
通常であれば、貴人に対し座ったまま出迎えたり話をしたりすることは、大変な不敬にあたる。
しかし、私がまだ病み上がりということで、ダンテ医官が気を遣ってくれたのだ。
噂には聞いていたが、皇弟…レナード・ザルディ殿下は、恐ろしく顔かたちの整った見目麗しい人物だった。
無造作にまとめられた、煌めく銀髪。
切れ長の瞳は赤褐色で、赤黒く光っている。
形の良い薄い唇は口角が上がり、笑みを浮かべていた。
「……とにかく、おまえが無事で良かった」
私の向かい側に座る美丈夫の口からこぼれ出たのは、砂糖や蜂蜜のように甘い声だった。
綺麗な顔に見惚れていた私は、ハッと気を引き締める。
「……優しいお言葉、恐れ入ります」
とびきりの笑顔に気圧され、一言二言、言葉を返すのが精一杯だった。
(キラキラが眩しすぎて、そのうち目がつぶれるかも……)
「今日は飲まないのか? アンナが淹れたお茶は格別だから好きだと、いつも言っていたはずだが……」
「!?」
レナード殿下の言葉に、思わず自分の耳を疑う。
記憶をなくす前の私は、殿下を前に恐れを知らない言動をしていたようだ。
(恐れ多くもこのお方と、何度かお茶をご一緒していたんだ……当時の私)
「……それでは、失礼いたします」
粗相があってはいけないと最初から手を付ける気はなかったが、殿下から命じられたならば仕方ない。
震える手でカップを取り、一口飲んだ。
上品な香りと爽やかな喉ごし。
気づけば、息も吐かずに飲み干していた。
自分の行儀の悪さに、しまったと思っても後の祭り。
チラッとレナード殿下の様子を窺うと、目を細め笑いを堪えているようだった。
噂通りの穏やかな人物のようで、まずは一安心。
「フフフ…お茶菓子も遠慮せずに食べるといい。クッキーは久しぶりだろう?」
「ありがとうございます。それでは、お言葉に甘えて」
先ほどから軽い空腹を感じていたので、遠慮なくクッキーをつまんで口に入れる。
サクサクとした軽い食感と、ほどよい甘さ。
さすが、貴人が食される物はひと味もふた味も違うなと感激しながら嚙みしめていると、クッキーはすぐに口の中で溶けてしまった。
惜しみつつ、ゆっくりと飲みこむ。
いつの間にか、空だったカップにお茶のおかわりが注がれていたので、こちらも遠慮なくもう一杯頂いた。
「お茶もクッキーも、とても美味しいです」
黙って食べているのも気が引けたので、素直な感想を述べておいた。
まだ、お皿にたくさん残っているクッキーが気になるが、二枚目に手を出す勇気はない。
「気に入ったのであれば、残りは後で食べればよい。もともと、おまえのために用意したのだからな」
「ありがとうございます」
レナード殿下はとても良い人だ。
私が欲しいと思った物を、気前よくポンとくれる。
男前のうえに気前が良いなんて、周りの女性たちが放っておかないだろう。
「レナード殿下はお優しいですね。こんな平民のわたくしにまで、目を掛けてくださるのですから」
「……ルシル、なぜ、今日はそのような話し方をするのだ? なぜ、以前のように呼んでくれない?」
突然、レナード殿下の表情が変わった。
先ほどまでのにこやかな笑みが消え、戸惑いと困惑、そして……まるで私に追い縋ってくるような懇願のまなざしを向けてくる。
「あの……申し訳ございませんが、レナード殿下の仰っている意味が、わかりかねます」
(急に、どうしたんだろう。まさか、ダンテ医官が言っていた『ある一点』に触れてしまった? もしや……血の雨が、降る?)
「殿下、少し落ち着いてください!」
私の怯えが伝わったのか、後ろに控えていた男性従者が制止するように前へ出てきた。
目の覚めるような赤髪に、涼やかなシルバーグレーの瞳が印象的な青年騎士だ。
「ルーシー、もしかして……昔の記憶が全くないのかい?」
騎士からの問いかけに、私は大きく頷く。
ダンテ医官から私の状態に関して報告はあったが、まさかここまでとは思っていなかったと彼は言った。
彼から『ルーシー』と呼ばれたが、私たちはかなり親しい間柄だったのだろうか
「護衛騎士様は、以前からわたくしのことをご存知なのでしょうか?」
「……このマイナール、そして侍女頭のアンナは、おまえのことを『ルシル』ではなく『ルーシー』と呼んで可愛がっていた。もちろん、マイナールは兄のように、妹のようなおまえをだが」
「そうでしたか」
質問したマイナール様ではなく、レナード殿下が答えてくれた。
多少落ち着かれたのか、穏やかな表情に戻っている。
「二人のことがわからぬということは、当然私のことも……」
「レナード殿下のことは、事前にダンテ医官から伺っております。本来であれば、わたくしのような者が直答することは許されぬお方であることも」
「…………」
ただ事実を述べただけなのに、レナード殿下の表情が悲しげに歪み、なぜか心がズキンと痛む。
「幼い頃からの記憶がないのか? 全て?」
「はい、人間関係が全てです。父は見舞いに来てくれましたが、母はどうしているのでしょうか? あと、他に気になっているのは、しがない文官のわたくしが、なぜ宮殿内にこのような部屋を賜っているのか、その経緯も知りたいと思っております」
「母親は、おまえを産んですぐに亡くなったと聞いている。だから、軍団長殿は一人娘であるおまえを大層可愛がっているのだ。あと、宮殿に部屋がある理由だが……おまえを守るためとしか言いようがない」
「わかりました。教えてくださり、ありがとうございました」
この話は、これ以上は聞かないほうがよいのだろう。
なんとなく、そう感じた。
私は何者かに毒を盛られ、命を狙われたのだ。
犯人はまだ捕まっておらず、担当外の父も奔走している。
(狙われた理由は、私個人に対する恨み? それとも、軍団長である父の仕事絡みなのか……)
その後も、レナード殿下はいろいろな話をしてくれた。
私がお菓子を食べすぎてお腹を壊したという恥ずかしい話から、貴族に言い寄られて困っていた同僚を助けたという武勇伝まで。
とにかく、レナード殿下は私のことについてやけに詳しかった。
子供の頃、私が初対面のレナード殿下へ説教をした話をされたときは、さすがに背筋が寒くなる。
「今さらではございますが、レナード殿下に対するこれまでの非礼なふるまい、誠に申し訳ございません!」
不敬罪で捕まってもおかしくない、処刑レベルの不敬の数々。
平身低頭の平謝りだ。
過去の自分に文句を言いたい。一体、何様なんだと。
「いや、私は感謝しているんだ。子供の頃、我が儘ばかり言って周囲を困らせていた私をおまえが叱ってくれた。だから、私は……」
「……恐れ入りますが殿下、そろそろお時間です」
マイナール様が声をかけた。
「そうか……。すまない、ダンテ医官からは短時間でと言われていたのだが、体に障りはないか?」
「はい、大丈夫です。今日はいろいろと教えていただき、ありがとうございました」
私は、深々と頭を下げた。
「まだ、話をしていない大事なことがあるのだが……」
レナード殿下は私の頭にチラッと視線を向けたあと、席を立った。
お見送りをするため、私もゆっくりと立ち上がる。
「見送りはよいから、すぐに休んでくれ。しばらくの間は、おとなしく養生に努めるように」
「お気遣い、ありがとうございます。でも、仕事もしないで食べて寝てばかりの生活では……太ります」
「ハハハ……おまえは普段働きすぎだから、こういう時くらいしっかり休んでくれ。また倒れるようなことがあれば、俺が困るからな」
『私』ではなく『俺』と砕けた物言いをしたレナード殿下は、白い歯を見せ笑っている。
その表情は無邪気な少年のようで、年相応の素顔が垣間見えた。
◇
数日後、私はようやく仕事に復帰した。
宮殿内に設けられた事務室で、与えられた業務をこなしている。
人間関係の記憶はなくとも文官としての知識は健在で、仕事をするにあたっては何ら支障はなかったことが救いだ。
「……そんな関係で、昔から軍団長殿とは懇意にしているんだ」
父と同年代の、あまり文官には見えない立派な体格をお持ちの男性が話を終えた。
昼下がりの午後、私は今日も事務室内にて休憩をしながら、周囲の同僚から失われた記憶の穴埋めを行っていた。
「では、ジムワルドさんと父は、学園時代からの知り合いということですね」
「そうだね。私は君の実家にも行ったことがあるんだよ」
「実家はたしか、帝都の外れにある屋敷でしたっけ? 今は、叔父夫婦に管理をまかせているという……」
これまでに聞き取った話を基に、自分の記憶をつないでいくのだ。
「なあ、ルシルちゃん。大体この辺りの人間には話を聞き終えたんだろう? だったら、今度はレニー殿下の従者らに聞いてみたらどうだい?」
「レニー殿下?」
初めて聞く名だが、なぜか胸の奥がざわめいた。
「あっ、今はレナード殿下とお呼びしないといけないな」
ジムワルドさんが、ばつが悪そうに首の後ろを掻いている。
「今はレナード殿下だが、小さい頃は『レニー殿下』と呼ばれていたのさ。君は一時期、その殿下付の侍女だったんだよ。侍女頭のアンナから聞いてないか?」
「まだ、アンナさんからは何も話を聞いていなくて……だから、初めて知りました」
文官の私が侍女をしていた時期があったとは、全然知らなかった。
先日の対面時に、レナード殿下からそれらしい話もなかったはずだ。
「じゃあ、今後話が聞けるといいね」
お茶を飲み干すと、私たちは仕事へ戻った。
「ルシル~ちょっと良い?」
仕事を再開した私のもとへ、メアリがやってきた。
以前、レナード殿下との面会前に私の身支度を手伝ってくれた侍女が、彼女だったのだ。
あれから私たちは再び交流を深め、良き友人となっていた。
「アンナさんが、あなたの過去ついて話したいことがあるんだって。ルシルの都合のよい日を教えてくれない?」
「アンナさんは殿下付でお忙しいでしょうから、私がアンナさんの予定に合わせるよ。その時に、私からも聞きたいことがあると、アンナさんへ伝えてほしいな」
「うん、わかった」
さっそく伝えてくる!と、メアリはすぐにいなくなった。
さすがは侍女の鏡。本当に、仕事が早い。
◇
その日の夕食後、湯浴みも終えた私はベッドに寝転がり本を読んでいた。
そこに、コン、コン、とドアをノックする音。
やってきたのはメアリだった。
「ルシル、急だけど今から来てもらえる? アンナさんが呼んでるの」
「私は構わないけど……アンナさんは大丈夫なの?」
この時間、まだレナード殿下の夕食や湯浴みが終わっていないのでは?
頭の中に、ふとそんなことが思い浮かんだ。
「それは問題ないって。だから、今すぐ準備してくれる?」
「わかったわ」
急いで着替えを済ませた私を、メアリが無理やり椅子に座らせる。
彼女の手にかかると、あっという間に髪型が整えられ、化粧もすぐに終わる。
「ルシル、あの髪飾りはどこにある?」
「髪飾りって、これのこと?」
私が箪笥の奥から出してきたのは、あの高価な髪飾り。
それをメアリは、私の髪につけた。
私は面会時の借り物だと思っていたら、以前とある方から私へ贈られた物らしい。
相手は誰なの?とメアリに聞いても意味深な笑みを浮かべるだけで、彼女は絶対に教えてくれない。
だから、今も贈り主は不明のままだ。
高価すぎて普段使いすることが憚られる髪飾りは、ずっと箪笥の肥やしとなっていた。
メアリに連れてこられた先は、レナード殿下の離宮だった。
仕事でたまに書類を届けることもあり、最近は少し慣れてきたが、復帰した直後はとても緊張した。
ただ書類を届けるだけなのに、毎回なぜかお茶を出され、レナード殿下の雑談のお相手をさせられるのだ。まったく訳が分からない。
最後は、お菓子を手土産にもらって帰るまでがいつもの流れ。
私が「殿下の執務の邪魔になっている!」と訴えても、「これも、あなたの大事な仕事なのよ」とアンナさんは取り合ってくれない。
その内、レナード殿下の禁忌に触れるんじゃないかと、こっちはびくびくしているのに!
◇
ここは、どうやらレナード殿下の私室のようだ。
部屋にマイナール様の姿は見えず、メアリもいつの間にかいなくなっていた。
アンナさんに促され、テーブルの椅子に座った。
少し離れたソファーには、レナード殿下がグラスを片手に寛いでいる姿が見える。
非常に居心地が悪く落ち着かないが、アンナさんから話を聞くためには仕方ない。
我慢、我慢と自分に言い聞かせ、お茶を用意し隣に座ったアンナさんの方を向いた。
「お忙しい中、お時間をいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ、こんな時間にごめんなさいね。どうしても、ルーシーと話がしたかったから」
頭を下げた私を見つめるアンナさんのまなざしは、いつも優しくて温かい。
「私に、聞きたいことがあるのよね?」
「はい。私は一時期、殿下付の侍女をしていたと聞きまして」
「ええ、そうね。私と一緒に部屋の掃除や食事の準備、身の回りの御世話などをしていたのよ」
「そうでしたか」
面会時の私に対する従者二人の気遣いや親しげな様子は、一緒に仕事をしていたからなのだとようやく納得できた。
「……ただし、殿下付の侍女というのは周りの勘違いで、本当は行儀見習いとしてここに入っていたのよ」
「行儀見習いですか!?」
動揺して、思わず声が上擦る。
レナード殿下がぴくっと反応したが、私は気づかなかった。
「行儀見習いというと、仕事というよりも、花嫁修業の意味合いのほうが強かったと記憶していますが……」
「その認識で間違いないわ。ルーシーはとある方へ嫁ぐべく、ここで修業をしていたの……内密にね」
「でも、わたしに婚約者は……」
私は首をかしげる。
婚約者がいるのであれば、一度くらいはお見舞いに来てくれたはずだ。
(父と皇弟殿下以外、誰も来てない……よね?)
「ああ…その結婚話が途中でなくなったのですね。だから、嫁ぎ遅れと言われるこの歳になっても、私はいまだ結婚していないと。まあ、見た目も性格もこれですからね、納得です!」
また一つ、自分の中の疑問が解消できた。
ニコニコ笑顔の私とは対照的に、こちらを見つめるアンナさんは微妙な表情をしている。
「……ルーシーは、早く結婚したいとは思わないの?」
「そうですね。今は仕事が楽しいですし…あっ、でも、子供は産んでみたいとは思っています。人生、何事も経験ですから」
こんな私でもよいと言ってくれる希少な人が、世の中に存在していればの話だけれど。
面白い話をしたつもりはないのに、アンナさんが声を出して笑っている。
「ふふふ……記憶が無くなっても、相変わらずルーシーはルーシーね。でも残念ながら、あなたの結婚話は無くなってはいないわよ」
「えっ?」
アンナさんは私の頭にある髪飾りに手を伸ばすと、外してそっとテーブルの上に置いた。
「この髪飾りは、ルーシーがその相手の方から頂いたものよ」
「アンナさんは、相手の方をご存知なんですね? かなり高価な物のようですが」
「髪飾りの台と石を見れば、そのお相手が誰かすぐに気づくと思うのだけれど……ルーシーだものね」
アンナさんに言われ、改めてじっくりと髪飾りを観察してみる。
精巧な花の彫刻が彫り込まれたシルバーの台に赤い石がいくつか嵌め込まれている髪飾りは、その見事な細工から、製作者がかなり腕の良い職人であることがわかる。
よく見ると、赤い石は二色あった。
一つは落ち着いた赤。
もう一つは、色鮮やかな赤だった。
「絵柄は『百合』でしょうか? それに『銀』と『赤』の二色ですね」
「そこまでわかっているのなら、答えは簡単に出るわ」
アンナさんの言葉を受け、私はさらに真剣に考える。
(『百合』という言葉が、名前に付いている人なんて身近にいただろうか? それとも、家紋とか? どこかで見たことがあるような気もするけど……)
とりあえず『百合』は横に置いて、『銀』と『赤』で考えることにした。
この国では、自分の髪色と瞳の色の物を想い人へ贈る慣習がある。
私は黒髪に青い瞳だから、相手へ贈り物をするなら『黒』と『青』になる。
それを踏まえて推測すると、相手の人は銀髪・赤い瞳。もしくは、赤髪・銀の瞳になる。
(そういえば、なぜ赤だけ二色なんだろう?)
特に、このような鮮やかな赤色の瞳を持っている人を、私は見たことがない。
もし、実際にそんな人がいたら、いつも目が充血しているように見えてしまうかも……なんて、つい姿を想像してしまい一人でクスクス笑っていたら、鋭く突き刺さるような視線を感じた。
何気なく視線を向けると、その方とばっちり目が合ってしまい慌てて逸らす。
忘れていたが、レナード殿下も銀髪・赤目だ。
そして、ついでに思い出した。
『百合』に見覚えがあったのは皇家の紋章や国旗に付いているからで、毎日宮殿で目にするため記憶に残っていたのだ。
(……ん?)
百合の付いた家紋……
煌めく銀髪……
落ち着いた赤褐色の瞳……
血を想像させる色鮮やかな赤色……ルージュ
「・・・・・」
ある一つの答えに辿り着いた私が再びその人物に視線を向けると、また目が合った。
さりげなく視線を外しアンナさんを見ると、にっこりと綺麗なお顔で微笑んでいる。
「……ルーシー、ようやく気付いたようね」
◇
「い、いいえ……私の勘違いだと思われます!」
だらだらと目には見えない冷や汗を掻きながら、私は首を横に振って全力で否定する。
そんなことは、絶対にあり得ない。
贈り主が、レナード殿下だなんて……
「……勘違いではない」
私の言葉を否定する、威厳のある声が響いた。
ソファーに座っていたレナード殿下がこちらにやってくると、アンナさんはさっと席を立ち部屋を出て行ってしまう。
アンナさん、待って! 置いていかないで~!!の願いも空しく、無情にもドアは閉められる。
そして、レナード殿下はおもむろに空いた椅子へ座り、私に向き直った。
「これは、俺がルシルに贈った髪飾りだ。だから、勘違いなどではない」
私の目を見てきっぱりと言われてしまったら、もはや否定のしようがない。
レナード殿下にキラキラとした雰囲気はなく、少し荒い言葉遣いも、不機嫌そうな表情も、何もかもが歳相応の普通の青年だった。
「…………」
「何か、言いたいことはないのか?」
「あの、レナード殿下は……」
「……以前のように、俺のことは『レニー』と呼べ。殿下もいらぬ」
有無を言わせぬ、力強い言葉。
絶対服従。
皇弟殿下の命令には、従わなければならない。
「かしこまりました。では、レニー様、質問をさせていただいてもよろしいでしょうか?」
「何だ?」
「先ほどアンナさんは、内密に行儀見習いをしていたと仰いましたが、それは、レニー様との結婚が政略的なものだからですか?」
「いいや、違う」
レニー様は即否定され、「えっ、違うの?」と思わず声が出そうになった。
貴族ではない私だが父親は軍団長で、軍の派閥関係とかの絡みで婚姻を結ぶことがあってもおかしくはない。
正式に発表するまでは、内密に行儀見習いをしていた……対外的には侍女として。
そう考えていた私は、ぽかんと呆気にとられた。
「どうした?」
「い、いえ……わたくしは政略結婚なのだと思っておりましたので。あっ、妾というなら納得です。平民ですし。ただ、レニー様ならこんな見栄えの悪い女でなくとも、もっとお似合いの女性が他に大勢いらっしゃるとは思いますが」
「妾などではなく、正妻としておまえを迎える。ついでに言えば、俺はおまえ…ルシル以外の者を娶る気もない」
「そ、そうですか……」
ここまではっきりと言い切られてしまうと、何だか気恥ずかしい。
私を正妻にとは、政略結婚でもないのに物好きな方だな……なんて、失礼なこともついでに思ってしまったのは内緒の話。
「他に、質問はあるのか?」
「それでは、単刀直入に……今夜こちらに呼ばれたのは、レニー様の夜伽のお相手をするためですか?」
「……はあ!? ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ…」
レニー様が激しく咽せている。
目を白黒させとても苦しそうなので、急いで目の前にあったお茶を差し出す。
「レニー様、まだ口はつけておりませんのでお飲みください」
お茶を一気に呷ったレニー様は、ふう……と息を吐いた。
落ち着いたようだが、じとりと私を見つめる非難の視線が痛い。
「聞くにしても、もっとこう婉曲に……とかはないのか?」
「申し訳ありません。基本、まどろっこしいことは苦手でして」
「……知っている。おまえは、昔からそういう奴だった」
「…………」
一瞬遠い目をしたレニー様から言われてしまうと、私は黙るしかない。
沈黙が気まずいので、ゴホンと一つ咳をした。
「それで……どうなのでしょう?」
「……違う。断じて、違うぞ。そもそも、今までおまえに何度求婚しても、全て断られているからな。その髪飾りだけは、どうにか受け取ってもらったが」
「そうでしたか」
夜伽の件は私の勘違いということで、とりあえずホッとした。
そして私たちは、婚約もしていないようだ。
求婚を断り続けていたらしい、当時の私。
普通に考えれば、皇弟からの申し入れを平民である私が拒否することなど、絶対に有り得ないと思うのだが。
急に考え込んでしまった私を、レニー様は訝しげに見ている。
「……何を考えている?」
「わたくしがどれだけ拒否しようと、レニー様のご命令であれば、結婚なんてすぐにできると思うのですが」
「嫌がるおまえに、無理強いする気はない」
ルシルに嫌われたくはないからな。
ぽつりと呟いたレニー様は、どこか自信なさげだった。
「その他に、聞きたいことはないのか?」
「そもそもの話ですが、結婚相手がなぜ『私』なのでしょうか?」
相手がレニー様とわかってから、ずっと思っていた最大の疑問。
なぜ、私なのか?
わざわざ平民の、しかも年上の私を選ばなくとも、身分の釣り合う貴族のご令嬢方が大勢いらっしゃるのに。
「人を好きになるのに、理由なんて一つしかないだろう? 俺はおまえだから好きになった。他の奴ではダメだ!」
「!?」
トクン、と心臓が跳ねた。
ものすごく熱を持った瞳で見つめられ、そんな言葉を伝えられたら、嫌でもドキドキしてしまう。
「ん? 顔が赤いぞ。もしかして……」
レニー様の手が、私へ伸びてくる。
(不覚にも、ドキドキしたことがレニー様にバレて……)
「……熱でもあるんじゃないか?」
私の額に手をあてると、赤褐色の瞳が心配そうに顔を覗き込んでいた。
(……なかった。それにしても、顔が近い!)
私は慌てて距離を取ると、深呼吸をする。
執務室で雑談している時には全然気づかなかったが、今思えば、レニー様はわかりやすく私に好意を伝えていた。
髪型や服が似合っているとか、
帝都に新しくできたケーキ屋に一緒に行かないか?とか
ただ、私が貴族の社交辞令だと思って真に受けなかっただけで、生き返ってから初めて面会した時も、お茶菓子を私のために用意したってサラッと言っていた。
「あの、当時の私がレニー様と二人きりで話をしていたとき、今みたいに顔が赤くなったりはしていませんでしたか?」
「ああ……そういえば、なっていたな。俺と一緒の時に頻繁に熱を出すから、心配したんだ」
やはり、赤くなっていた私。
しかし、レニー様には熱が出たと嘘をついてごまかしていた。
それにしても、この方は意外に天然なんだろうか?
こんなわかりやすいことに、気づいていないなんて。
「どうして求婚を受け入れないのか、理由を聞かれたことはありますか?」
「『平民の自分では、相応しくない』とか、『皇弟なんだから、国のためになる人を選ぶべきだ』と言われたな……」
その時のことを思い出しているのか冴えない表情を見せるレニー様を見て、一つの仮説が思い浮かんだ。
自分の推測を確定させるため、私は最後の質問を口にする。
「もしかして……その頃、レニー様にお見合い話はありませんでしたか?」
「隣国の第一王女を、俺に嫁がせる話が出た時だな……今も無視し続けているが」
じつにあっさりと、理由の裏付けも取れてしまった。
しかし、当時の私が必死に隠したことを、今の私がレニー様に伝えても良いのだろうか。
「……よほど、俺と結婚するのが嫌だったんだろうな」
突然、レニー様がぽつりと呟いた。
「えっ?」
「あの日、おまえは俺に黙って宮殿を抜け出し、そして……毒を盛られた」
「…………」
「荷物をまとめた鞄が見つかったから、どこか遠くへ行くつもりだったのはわかっている。もしかしたら……好きな奴と、駆け落ちでもするつもりだったのかもしれない」
今の私を通して当時の私を見つめる赤褐色の瞳はとても悲しげで、見ているだけで胸が痛い。
「だから、おまえが記憶を無くしたと知ったとき、自分が忘れられた悲しみが半分、おまえとまた一からやり直せる喜びが半分だった」
「レニー様……」
「今まで黙っていて、すまなかった」
レニー様は、私に頭を下げた。
「おまえの幸せを考えるなら、本当は俺から解放してやるのが一番だ。でも、申し訳ないがそれはできそうもない。俺のことを好きになってくれとは言わないから……もう、どこにも行かないでくれ」
話はこれで終わりだとレニー様は席を立ったが、私は椅子に座ったまま動くことができない。
当時の私へ、是非とも問いかけたい。
彼の幸せを願って起こした行動が、こんなにも傷つける結果になると想像していたのか?
深く傷ついている彼のために、今の私は何をすれば良いのか?……と。
「マイナールに、部屋まで送らせよう」
「レニー様、お待ちください!」
護衛騎士を呼びに行こうとしたレニー様を引き留めた私は、「当時の誤解だけは、解いておきたいです」と申し出る。
こんな気持ちのまま、この話を終わらせたくなかった。
「当時の誤解とは、何だ?」
改めて椅子に座り直したレニー様は怪訝な顔をしているが、私は構わず話を始める。
「レニー様のご想像通り、当時のわたくしには好きな人がいました」
「……それは誰だ? 俺の知っている奴か?」
「はい、よくご存知の方です」
「…………」
「わたくしはその彼の幸せを願い、身を隠すことにしました。いつまでも傍にいれば、彼のためにならない……そう思ったからです。しかし、毒殺されてしまいました」
レニー様は苦しそうな表情をしながらも、私の話に耳を傾けている。
固く握りしめている拳が、微かに震えていた。
「一度死んだはずのわたくしがどうして生き返ったのか、不思議でした。でも、わかったんです。好きな人に想いを告げないまま、死にたくない。せめて一言だけでも……そう思ったのでしょう」
私は隣に座るレニー様の手を握ると、一度深呼吸をした。
「わたくしルシルは、ずっとレニー様をお慕いしておりました。それでも、貴方からの求婚を受けることができず、誠に申し訳ございません。どうか、これからも皇弟としての務めを立派に果たしてくださることを、希望いたします」
言い終えると、私はレニー様の手を離した。
彼はまだ放心状態で、呆然としている。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございました。わたくしは、これで失礼させていただきます」
当時の私が伝えたかったであろう言葉を、レニー様へきちんと言えた。
これで、レニー様の誤解も解けて一件落着。めでたし、めでたし。
私は、大仕事をやり終えたあとの爽快感に浸っていた。
鼻歌を歌いながらドアに向かって歩いていると、いきなり後ろから腕を掴まれる。
気付いたときには、私はレニー様の腕の中にいた。
「えっと……レニー様?」
「……ルシル、結婚しよう」
レニー様は、私を強く抱きしめながら耳元で囁く。
彼の激しい鼓動が、こちらにも直接伝わってくる。
はあ……とホッとしたような吐息が耳にかかり、恥ずかしさとくすぐったさで背中がゾクゾクした。
「あの……先ほど申し上げた通り、わたくしは身を引きます。レニー様は皇弟としての務めを果たすためにも、どうぞ隣国の王女様とご結……」
最後まで言わせてもらえなかった。
唇がふさがれ、熱が体中を巡る。
振りほどこうとしても力強い腕に阻まれ、どうしても逃れることができない。
ようやく解放された時には全身の力が抜け、私は立っているのもやっとの状態だ。
「想いあっているのに、なぜ別れなければならない? おまえの本当の気持ちを知ったからには、もう離しはしない」
「…………」
予想に反して、非常に困ったことになってしまった。
誤解を解くだけのつもりが、どうやら火に油を注ぐ結果となったようだ。
「レニー様、落ち着いてください。あなたを好きだったのは当時の私であって、今の私ではありません!」
「何をわけのわからないことを言っている? 当時だろうと今だろうと、おまえはおまえだ! 違うか?」
「それは、そうなのですが……」
「明日、朝一番で軍団長殿に結婚の許しをもらいに行ってくる。あの方のことだから、一筋縄ではいかぬだろう。長期戦も覚悟しなければなるまいな」
すでに戦う男の顔になっているレニー様に、どんどん自分が追い詰められているような気がする。
こうならないように、当時の私がよく考えて行動したはずなのに……いつから歯車が狂ったのだろう。
「いっそのこと、先に既成事実を作ってしまったほうが……」
不穏な言葉を口にしたレニー様が私を見つめる瞳が、血に飢えた野獣のようにしか見えないのは、きっと気のせいだと思いたい。
「……ルシル」
優しく名を呼ばれただけなのに、ビクッとした。
ゆっくりと近づいてくるレニー様からさりげなく距離を取りながら、この先に待ち受けるであろう事態をどうすれば回避できるのか、必死に考える。
私が頭をフル回転させていると、ドアが激しくノックされた。
「殿下、夜分遅くに失礼いたします。つい先ほど、第一軍団長殿がルシル嬢殺害未遂の容疑者を連行してまいりました。つきましては、取り調べにご同席いただきたく……」
マイナール様からの報告が続いている中、私は二つの危機が回避されたことに心底安堵したのだった。
◇
取り調べの結果、容疑者は隣国の間者であることが判明した。
犯行後、すぐに隣国へ逃げ延びるつもりが、父の命により素早く検問が強化されてしまったため、ずっとザルディ帝国内を逃亡していたとのこと。
危ない場面まで助けてもらった父には、後日特大の感謝を贈っておいた。
レニー様はというと、すぐに軍を編成し隣国へ乗り込んでいった。
驚くべきことに、殺害未遂事件の首謀者は国王と第一王女だったのだ。
結婚の障害となる私を排除するため、かなり前から虎視眈々と好機を狙っていたらしい。
このまま侵略戦争になるのではと心配したが、レニー様は圧倒的な軍事力に物を言わせ、首謀者たちの即時引き渡しと帝国の属国となる要求を突きつけ、相手国が承諾したことで、どうにか戦争は回避される。
隣国は王女の兄である第一王子が国王となり、首謀者たちは死罪を免れ鉱山へ強制労働の刑になったのだった。
「もし、ルシルが死んでいたら……隣国は今ごろ、影も形も残っていなかったな」
帝都に戻られたレニー様は、とてもにこやかな笑顔で仰った。
今回、『コマンダン・ルージュ』の御姿を拝見することもなく血の雨も降らずに済んだことを、私が神に深く感謝したのは言うまでもない。
◇
あれから半年が過ぎたが、私の記憶は今も戻っていない。
そして、いまだに父から結婚の許可は下りていなかった。
◇
私は今日も、文官として業務に勤しんでいた。
「これじゃあ、ルシルちゃんはいつまでたってもお嫁に行けないね」
私の淹れたお茶を飲んで一息ついていたジムワルドさんが、苦笑している。
私との結婚を巡るレニー様と父との攻防は宮殿中に知れ渡ることとなり、まだ婚約もしていないのに、私はすでに皇弟殿下の婚約者扱いをされている。
以前にも増して腫れ物に触るように接してくる同僚には、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
そんな中、変わらず普通の態度を貫いてくれるジムワルドさんとダンテ医官、そしてメアリには感謝の言葉しかない。
「私は、まだ結婚なんてしなくてもいいんですけどね」
ジムワルドさんの向かい側に座ると、私もお茶を一口飲む。
まだまだ、アンナさんのお茶には到底及ばない出来だ。
レニー様は父の許可待ちの間に、私が逃れられないよう次々と包囲網を構築していた。
先日の、皇帝陛下への謁見もその一つ。
初めてお会いした陛下は、濃い金髪にレニー様と同じ赤褐色の瞳の、こちらもびっくりするような美丈夫だった。
歳の離れたレニー様を可愛がっていらっしゃるようで、「愚弟を、これからもよろしく頼む」と笑顔で言われてしまえば、平民の私は首肯するしかない。
皇帝陛下が認められた結婚に異議を唱える貴族がいるわけもなく、レニー様へ続々と持ち込まれていたお見合い話はピタリと無くなった。
それでも、まだ私の命を狙う者がいるのでは?との私の懸念に、メアリが笑いながら教えてくれた。
彼女曰く、この国で私に手を出そうとする愚か者は、そもそも存在しないとのこと。
赤の司令官の禁忌に触れた者の末路がどうなるのか、過去を見れば誰でも理解するらしい。
何があったの?と尋ねたら、「世の中には、知らないほうが幸せなこともあるのよ」と、ひんやりした笑顔でメアリは言った。
「ルシル~、殿下がお呼びですよ!」
噂をすれば影がさす。
いつものように、メアリが事務室に入ってきた。
「おっ、もうそんな時間か、私も仕事を再開するとしよう」
ジムワルドさんが席を立ち、私はメアリと共にレニー様の執務室へ向かった。
◇
お茶とお茶菓子が用意されると、すぐに皆が退室していく。
先ほど、ジムワルドさんともお茶をしたばかりだが、こちらでもレニー様に付き合ってお茶を飲む。
(やっぱり、アンナさんが淹れたお茶は美味しいな……)
私としては仕事をサボっているようで落ち着かないが、これも立派な仕事なのだと周りから説得されてしまった。
だから、開き直るしかない。
レニー様は必ず私の隣に座り、腰に手をまわしたまま片時も傍を離れようとはしない。
毎日、朝晩は必ず一緒に食事をし、昼間も必ずお茶の時間が設定されている。
束縛するのが好きなのかと思っていたら、アンナさんがこっそり教えてくれた。
これは、私の安否確認なのだと。
私が(仮)婚約者となってからは、この行動が顕著になっているらしい。
あの日、黙っていなくなった私をレニー様は必死で捜した。
見つかったとの報せが入り駆けつけてみれば、私が物言わぬ骸となっていたのだ。
そのときのレニー様の気持ちを思うと、今でも胸が痛くなる。
彼に強烈なトラウマを植え付けてしまった張本人としては大変申し訳なく、今は本人の好きなようにさせている状態だ。
「ルシル、来週公務で地方の視察があるのだが、一緒に行かないか?」
「期間はどれくらいですか?」
「移動時間も含めると、一週間くらいだな」
「一週間……」
もちろん仕事があるのでそんなに長くは休めないのだが、口にすることが憚られる。
隣から、期待をこめた視線が突き刺さっていた。
「う~ん、仕事をそんなに休めないので、私は無…」
「ルシルが行けぬのなら、俺も行かぬ!」
晴れやかに堂々と宣言するレニー様を、私は半眼でねめつける。
一度呼吸を整え、静かに口を開いた。
「……わたくしは、皇弟としての義務を怠る無責任な方のところへは嫁ぎたくありません。皇帝陛下へ申し上げて、結婚の許可を取り消していただきましょう」
「ルシル、ちょっと待ってくれ!」
余裕の笑みを浮かべていたレニー様が、急にあたふたし始める。
私が口先だけでなく本当に実行すると、彼は知っているのだ。
「わかった! 公務はきちんと行う。だから、俺に褒美をくれ」
皇弟の仕事なのに、なぜご褒美?と疑問に思いながらも、了承する。
「俺は、ルシルの手料理が食べたい」
「手料理ですか?」
「平民は、恋人へ手料理を振舞うと聞いた。だから、俺も食べてみたいのだ」
瞳をキラキラと輝かせて自分の希望を述べるレニー様が、とても可愛らしい。
私は笑いをこらえながら、大きく頷いた。
「何か、希望はありますか?」
「そうだな……」
次々と料理名を口にするレニー様を眺めながら、頭の中で練習計画をまとめていく。
最近料理をしていないので、アンナさんに厨房を貸してもらえるようお願いもしなければならない。
せっかく作るのであれば美味しくできた物を食べてほしいし、彼から「美味しかった」と言ってもらいたい。
「……ルシル」
名を呼ばれて、ハッと我に返った。
「はい、レニー様」
私が答えると、レニー様が破顔した。
赤褐色の瞳が、優しいまなざしを向けてくる。
「もう、どこにも行かないでくれ」
私がいることを確認するように、
懇願するように、
彼が、一日に一度は必ず口にする言葉。
「はい、わたくしはずっとレニー様のお側におります」
安心したように顔をそっと近づけてくるレニー様に微笑むと、私は目を閉じる。
柔らかな日差しが差し込む執務室には、今日も穏やかな時間が流れていた。
お読みいただき、ありがとうございました。
この話の前日譚となる、短編『絶望の夜、希望の朝』は、レナード側から見た話となります。
よろしくお願いします。