世界を救いし偉大なる聖女は数億の民に惜しまれ天へと帰る。その後
私の名前は九重遙香三十五歳、独身
ちなみに彼氏が作れなかったのではなく、作らなかったのだ。
これは負け惜しみではない。
そこそこ収入のある男性から告白されたことが何度かある。
私は自分の夢を叶えるためにそれらをすべてお断りした。
私の夢
それは仕事を辞めて田舎で悠々自適に過ごすこと。
そのために色々なことに手を出し、八千六百万円の財産を手に入れた。
今私は研究所に辞表を提出し、購入した森の中にある中古の一軒家に原付で向かっているところだ。
「明日はなにしよう。なにもしなくても良い。何かしても良い。ふふっ」
そう呟いた瞬間、私の視界は光に呑まれた。
私は白一色の世界にいて、目の前には白っぽい何かがいる。
「喜べ、世界をよりよき未来へと導くため、其方の器を借りることにした」
わけが分からない・・・
「しがらみもなく、ある程度の資産がある其方は異界より招いた魂の器として最適である。其方をこのまま消滅させるつもりはないので安心しろ。役目を終えれば招いた魂を元の世界へ戻すと約束したのでな。異界より招いた魂の元の器をそのまま放置すれば器が壊れてしまうから其方にはそちらに行って貰う」
はいっ!?
「招いた魂の元の器は其方より若い器で、しかも貴族だそうだ。良かったな」
白っぽい何かは一方的に話し、私の視界は又光に呑まれた。
チクチクする・・・
起き上がって周囲を見渡す。
ワラと隙間の空いた木の壁と小さな木箱、それ以外にはなにもない。
私は自分の体を見下ろした。
明らかに自分の体ではなかった。
しばらく呆然とした後、お腹の音が激しく鳴り響き、とりあえず扉を開けて外に出た。
太陽が二つ見える・・・あの白っぽい何かが言っていたとおり、私は異世界の誰かの体に憑依したようだ。
『こら!日が出てる間に小屋から出てくるんじゃないよ!!』
横手から体をつかまれ小屋の中へ押し込まれた。
バタンと扉が閉められる。
『奥様に見つかったら私らがおとがめを受けるんだ。言うことが聞けないならかんぬきをして夜も出られないようにするよ』
さっき捕まれた腕が痛く、お腹の音は鳴りっぱなしだ。
白っぽい何かはこの体の持ち主を貴族だと言っていたような気がする。
貴族ってなんだっけ?
ぺたんと藁の上に座り、少し頭を巡らせる。
・・・とりあえず寝よう。
私は現実逃避した。
暗くなり、壁の隙間から周囲を確認してから私は外に出た。
私を小屋に押し込んだ女は奥様に見つかったら私らがおとがめを受ける、と言っていた。
つまり夜に見つからなければ外に出ても良いと言う事だろう。
近くにあったのは井戸と洗濯の道具と思われるたらいと板、そして少し離れた場所に立派なお屋敷があった。
「食べ物があるとすればあそこよね」
私は花が咲き乱れる庭園を抜け、屋敷の裏手と思われる場所に向かった。
そして良い匂いのする扉を開けた。
鍵はかかっていなかった。
薄暗くて良くは見えなかったけど、ひんやりとしたその部屋には食べ物らしき物がたくさんあった。
私は生でも食べられそうな、ソーセージっぽい物やパンと思われる物などを掴んで小走りで小屋に戻った。
「うわっ、これなに?」
最初に口に入れた物はソーセージっぽい形をしていたが、とてもそのまま食べられる物ではなかった。
だがそれ以外は日本で食べていた物よりもおいしかった。
「調理や味付けもしてないのにこんなにおいしいなんて。この世界の食べ物はすごいのね」
私は腹を満たした後、なにも考えないようにしてそのまま眠りについた。
あれからかなりの日が過ぎた。
寝て、夜起きて、食べ物を取りに行って食べて、また寝る。
ある意味、夢見ていた悠々自適な人生と言えなくもない。
私は乾いた笑い声を上げつつ、今日取ってきた甘くておいしい食べ物を口に放り込んだ。
『慈悲で前妻の娘であるおまえを生かしておいてやったというのに、わたくしの物に手を出すとはなんと恩知らずなのかしら』
昨日取ってきた甘くておいしい食べ物はこの女の物だったようだ。
多分この女がこの屋敷で働いている者たちが言っていた奥様なのだろう。
そしてその奥様とやらの言葉で自分がどんな存在であるのか少しだけ分かった。
前妻の娘、そしておそらく父から捨てられた娘がこの体の持ち主
男たちに引きずられて門の外に投げ出された私が見たのは、とても美しい町並みだった。
大理石のような白く美しい石壁にきれいに敷き詰められた石畳に街路樹、そして通行人からの汚らわしい者を見るかのような視線
どうやらここは高級住宅街のような場所なのだろう。
私の格好は麻の貫頭衣であり周りにいる人たちが着ているドレスとは大違いだ。
ここにこのまま居たらきっとろくな事にならない。
私はとぼとぼと歩いてこの場を離れた。
なぜだか分からないけど言葉と文字は理解できる。
漢字でもアルファベットでもないこの文字、だが書けるかと言われれば書けないし、言葉は分かるが正しく発音出来ない。
通りを歩いていると、就職斡旋所を意味する文字を見つけてそこに入った。
受付らしい場所の年配の女性に声をかける。
『はたらきたえ』
私は就職斡旋所で娼婦か裕福な老人の後妻という職業を紹介された。
前者を薦められた理由は着ている服はともかく容姿はそれなりだったからで、後者は受付の人の直感で礼儀正しく真面目そうに感じたから、だそうだ。
他の職業は、と聞いたら保証人や紹介者が必要だと言われた。
私は裕福な老人の後妻という職業を選択した。
娼婦という仕事を見下すわけではないが、この世界の住人との間に子供が出来るかもしれないなど考えるだけで気持ち悪い。
裕福な老人の後妻は、妻とは言っても実際の仕事は棺桶に片足を突っ込んだ老人の介護が仕事だと受付の人が力説していた。
私に保証人はいないけど良いのかと聞くと、すでに七人ほど相手に紹介したが、全員が結婚に至る前に逃げ出して依頼者である老人の息子が細かい条件をすべて取り下げたらしい。
そうまでして後妻をあてがう理由は、この世界では老人を面倒を見るべき親族が同居せず他人に任せっぱなしなのは外聞が悪いが、新しい妻を娶って別居しているのは問題ないそうだ。
いまいち基準が理解できないけれど成功報酬が魅力的なのでまあ良い。
かなり痴ほうが進んだ人だったのでとても、かなり、激しく苦労はしたが、五年が経った頃にやっと老人は天に旅立った。
死んでくれてありがとうと思ってしまった自分に少し嫌悪感を感じる。
だが私が殺したわけではない。
私は就職時の契約で約束されていた、老人が住んでいたこの家を貰った。
この世界の食べ物は味付けしなくてもおいしい。
そして穀物や野菜の成長速度が異常に速い。
この家の周辺に作った畑だけで私一人なら十分に食べていける。
少しは蓄えもあるので老後もそれほど心配しなくても良い。
後は自分が痴ほうになるとすべての根底が覆るので、そうならないように何か趣味を見つけようと思う。
五年遅れてしまったけれど、夢見た田舎の一軒家で悠々自適な人生を送れそうだ。
そう思った瞬間、私の視界はまた光に呑まれた。
黒っぽい何かが目の前にいた。
「使命を終えた愛魂が戻ってくるので邪魔だ。元の世界へ帰れ」
「私、日本に帰れるの?」
「そうだ」
こっちの世界でも悠々自適に暮らせる算段がついたというのに。
まあ日本でも悠々自適な人生が送れる?
「私の家とか財産ってどうなってるの」
「増えた」
詳細はわからないが増えたならなんとかなるだろう。
この妙な存在、神とか高位次元生命体とか言い出しそうな存在に何かを言ってもどうせ話にならない。
静かに元の体に戻るのを待つ。
そして私の視界は光に呑まれた。
目を開けると最近見慣れた木の壁ではなく、懐かしいアルミサッシときれいな壁紙の貼られた壁が見えた。
戻ってきたんだ・・・
だけどここは何処だろう。
少なくとも私が購入した森の中の一軒家ではなさそうだ。
「聖女様、お目覚めになりましたか?」
後ろから女性の声がした。
聖女様とはだれ?私、と言うか今までこの体を使っていた人が何かしてそう呼ばれるようになった?
あの黒っぽい何かが使命を終えた、とか言ってたっけ。
うわっ、余計なしがらみ発生しまくりじゃない。
聖女とか呼ばれるなんて、田舎に引きこもって生活する夢の障害でしかない。
なんて事してくれたのよ!
私は両手で顔を覆った。
?
手や顔に感じる感覚が違うし、体が重く思考がはっきりとしない。
私は自分の手を見た。
痩せてしわを刻んだ手を・・・
なにこれ?
頭の中がぐるぐる回るような感覚がして、思考がぐちゃぐちゃに入り乱れる。
そしてしばらくして私は理解した。
あちらとこちらでは時間の流れが違っているのだろうと・・・
意識が遠のいていく。
このまま眠りにつけば、きっともう目覚めることはない。
私は笑いながら暗闇に呑まれた。
九重遙香の四十年の生涯が終わった。
享年八十七歳
生前の功績を称え、森の中の一軒家は記念館として保存され、その隣に建てられた記念碑には絶えず多くの花が供えられた。
「おいおまえ、白いのと黒いのに一泡ふかせてやりたくないか?」
目の前には白でも黒でもなく、灰色っぽい何かがいた。
「もうあなたたちの都合に振り回されるのはごめんよ。もう眠らせて」
私は目を閉じたつもりだったが、視界はそのまま灰色っぽいなにかを映していた。
「俺が連れてきたのはおまえの魂だけだから目をつぶるのは無理だぜ。まあ俺の話を聞いて嫌だったらちゃんと穏やかに消滅させてやるから安心しな。俺に協力すれば成功しても失敗してもおまえの望みだった悠々自適な人生を用意してやるよ。とは言っても俺が用意できる体は人型じゃなくておまえの記憶にあるスライムに似たものだけどよ」
その後も灰色っぽい何かは計画の内容やその後の報酬について力説した。
輪廻の輪に戻る前に連れてこられた私の魂は、まだ白っぽい何かとクロっぽい何かに与えられた両世界への通行権が削除されていないため、灰色っぽい何かの力で気付かれることなく両世界へ侵入する事が出来るらしい。
どうせこいつらになにを言っても無駄だと判断し私はこの計画に同意した。
そして白と黒の世界で灰色っぽい何かの指示に従い四十三年間過ごし、白っぽい何かと黒っぽい何かのお気に入りに傷をつけることに成功した。
とは言ってもやったことは白っぽい何かのお気に入りの泉に放射性物質をまき散らしたり、黒っぽい何かが気に入っている私と入れ替わっていた女に真実を教えてやっただけだ。
その後白っぽい何かと黒っぽい何かには見つかってしまったが、灰色っぽい何かが言っていたように私の魂の管理権が灰色っぽい何かにあるらしく、それぞれの世界からはじき出されただけで魂は灰色っぽい何かの元に戻された。
すべてを終えた私に灰色っぽい何かは最初に約束を守ってくれた。
「ピンク青混じりちゃん、あの木まで競争だよ」
「灰色緑混じりくん、待ってよ」
私はピンクに青色が少し混ざった色のスライムに転生した。
最初にデメリットとして提示されていたとおり、知能は幼稚園児並みになってしまったみたいだけど、かえってそれが良かったかもしれない。
おっかけっこやかくれんぼ、ただぴょんぴょん跳ねて走り回るだけでこんなに楽しいなんて素晴らしい。
それに人付き合いも複雑に考えなくても良い、と言うか複雑に考えられない。
とにかく楽しい!
「僕の勝ちだよ」
「競争って言う前に走り出すなんてずるいよ灰色緑混じりくん」
私はぴょんと跳ねて彼に抱きついた。
今の私の望みは彼との間に子供を作ることだ。
この世界は灰色っぽい何かによってスライムの数が決められている。
事故や自らの意思による消滅で数が減らなければ新たなスライムは生まれない。
だけど大丈夫
今はとっても楽しいし、この体には寿命はない。
私の悠々自適な人生はこれからだ!