侍女エリーの条件
広大な領地の真ん中の、古く大きなメイフィールドの屋敷はもうない。
火事によって全てが燃え落ちてしまった。
だからエレノアは社交シーズンに滞在用の王都の屋敷にしばらくは暮らしていた。
使用人を最小限の通いの者だけにして、乳母のクレマチスと二人、王都近郊に領地を持ち王都の私邸に暮らすような貴族と比べれば質素と言えたが、無駄な浪費を省いた生活は苦ではなかった。元々のびのびとしたメイフィールドの領地でも、出来る事は自分たちでこなしていたので然程面倒は感じなかったのだ。
両親の不慮の知らせが入ってから日を置かず、屋敷から火の手が上がったのは偶然ではないだろう。
エレノアは逃げる際、不審な者たちを目撃していたからだ。
轟々と炎の蛇に呑み込まれて行く生家を、庭先から乳母や使用人たちと共に眺め呆然と涙を流しながら、寝室から連れ出された前後の記憶を辿っては震えたものだった。
『おい上手くやったか?』
『ああ、問題はない。これで屋敷は終わりだ』
『へへっついでだ、ここの令嬢でも報酬の一つに頂いていくか? 可愛い子らしいじゃないか』
『馬鹿言うな。余計な面倒を起こせば足が付く。必要になれば攫うなり消すなり何なりと再度俺たちに指示してくるだろうさ』
『へっ、つまらないな。使用人でも駄目か?』
『駄目だ』
寝室から出て逃げる途中、先に人影に気付いて廊下の陰に咄嗟に隠れたのでエレノアもクレマチスも見つかる事はなかったが、男たちのそんな会話を耳にしてしまったのだ。
愕然とした。
メイフィールド家が狙われたのは明明白白。
この先、状況によってはエレノアも消される可能性を示唆していた。
震える両手で必死に乳母の服を握り締め、何とか足を動かして庭まで逃げたのだ。
喪失感のダブルパンチにしばらくはエレノアも実感が湧かず、王都の屋敷に移ってからも、緑に溢れた屋敷はそのままに、玄関を開ければ大好きな両親が出迎えてくれる夢ばかりを見ていた。
目が覚めて虚しくなったのはもう何度目かわからない。
いつか昔のように戻れるのではと愚かな希望を抱いていたが、それも十日、一月、そして三月も過ぎれば諦めに変わった。
寂しかった。悲しかった。どうしようもなく。
けれどいつまでも悲嘆の檻に閉じ込められることはなかった。
一番はジュリアンが居てくれたからだ。
当時彼は貴族の子弟が入る寄宿学校をズル休み、或いは夜な夜な抜け出してエレノアの傍にいてくれた。寄宿学校が王都にあったからこそそんな不良学生染みた事も可能だったらしい。
心の支えは紛れもなく彼だった。
眠れない夜、ベッドの縁に腰かけて眠るまで頭を撫でてくれたことだってある。
今思うと赤面ものだけれど、周囲の同年代の少女たちと比べれば遅い程にまだ恋の一つも自覚していなくて、ましてや男女のことなんて考えもしなかったあの頃は、ただただ彼が好きで一緒にいられる事が嬉しかった。
この頃では幼少時とは違い、エレノアにとっては二つの年の差はとても大きくて、彼がすごく大人に見えていた。
ジュリアンとの婚約は、エレノアの人生で一番の幸運だったのだと思う。
クレイトン伯爵家とは領地が接しているとか、遠い親戚とか、先祖が昔好き合っていたとか、そういう意味での隠れた繋がりはない。
社交シーズンで両親が都会に居た際に意気投合した相手が、たまたまクレイトン家だったというだけだ。家柄も釣り合うし……というわけで、エレノアが生まれて間もなく両家の間で婚約の話が持ち上がったらしかった。
彼との婚約は物心ついた時にはもう決まっていて、そのことにエレノア自身何も不満はなかった。子供心にも将来彼のお嫁さんになるのはとても楽しみだったのだ。わくわくとキラキラ、冒険するみたいなドキドキ。そんなもので当時のエレノアはできていた。
船の事故の後は叔父が臨時でエレノアの後見人となって領地の管理をしてくれていた。この国の相続制度は男子優先だが、直系に女子しかいない場合は分家筋の男子ではなく、その女子が相続するように定められている。前時代なら叔父に渡っていたものも全てがエレノアに引き継がれるのだ。
爵位の継承。
生きていく以上いつかは必ずそうなるのはわかっていた。
でもそれはまだずっと先だと思っていた。
いや、正直そんな事を真剣に考えた試しはなかった。
安穏とした現実は無情にも崩れ、変わっていくのだと知った十四の頃、
両親を返してくれるなら、財産なんていらないと何度思っただろう。
何の皮肉か、その願いは予期せぬ形で半分だけ叶ったけれど。
ある日、両親の事故と屋敷焼失からそろそろ五カ月になろうという頃、王都の屋敷に一通の封書が届いた。
それは銀行からで、領地や家財のほとんどが借金の担保になっている旨の通知だった。
寝耳に水。最早先祖代々の諸々は自分の手から零れ落ちていたのを知った。
そしてこの王都の屋敷も差し押さえの対象だった。
退去期限も決められており、エレノアは途方に暮れたものだった。
叔父がエレノアの全てを担保にしてまで借り入れた資金は、近年沸いている鉄道事業への投資に注ぎ込まれたという。
叔父はどことも知れない鉄道会社の株を買ったのだ。
しかし、欲を掻いた者の末路などお決まりで、大勢からたんまり集めた資金を持って詐欺師たちは行方をくらませた。
一夜にしてとある鉄道株は紙くずとなったのだ。
犯人らは既に外国に逃げたという噂もあって、エレノアには追いかけて捕まえるという手段が閉ざされたも同然だった。
実際綺麗さっぱり手がかりはなかった。
屋敷の放火犯たちの足取りのように。
残ったものは通いの使用人たちに支払える少しばかりの金銭と、伯爵位だけ。
メイフィールド家は落ちぶれたのだ。
エレノアはクレイトン家にとって何のメリットもない没落貴族の娘となった。
普通はそれだけでも婚約解消を決意した理由としては十分だろう。
しかしエレノアの身にはそれ以上に決意を促す災いが降りかかった。
通知から一月して、王都の屋敷の退去が明日にと迫った夜の事だ。
屋敷に何者かが侵入してきたのだ。
乳母のクレマチスが先に気付き、寝室から逃げて小さな庭の茂みの陰から様子を窺う事が出来た。下手に逃げるとかえって気付かれるかもしれないとして留まったのだ。
今度は屋敷に火を放つ素振りもなく、男たちは何かを探しているようだった。
息を潜めていると、手慣れているのかさしたる物音も立てず屋敷から出て来た四、五人の男たちが庭先で苦々しい声で会話をし始めた。
暗くて顔は見えないが声だけは聞こえた。
『娘はいたか?』
『寝室にはいなかった。侵入に気付かれたのか?』
『さあな。もう退去期限間近で出てったんじゃないか?』
『今夜も留まっているのを確認しただろう?』
『ああそうだったな。じゃあ逃げられたんだろう』
『全くあの方も、必要ならあの時に一緒に拐かしてしまえば良かったものを……二度手間だ』
口々に同意の声が上がった。
あの時、二度手間、そして探しているのは一人の娘。
――エレノアの事だ。
今度は自分自身の身が狙われているのだと知った。
翌日公的な退去の日を迎えたエレノアだったが、叔父には頼らなかった。
男たちの雇い主だろう「あの方」が誰かわからない上、クレマチスが彼へ疑いを持っていたからだ。エレノアがいなくなって一番得をするのは彼なのだ。
幼い頃に会って以来顔を見ていない叔父だった。騒動後もエレノアは大丈夫だから来なくていいと手紙を出し、忙しかったのだろう叔父も手紙に従って顔を見せはしなかった。
顔も見に来ないなんて姪に対して冷淡だと誰かが言っていた。
自分で来なくていいと認めた手前そうは思いたくなかったが、今は慎重になろうと心に言い聞かせた。
だから叔父には、ただこれまで通りクレイトン家との婚約解消への手続きを任せた。
家の状況に加え、明確な理由もわからず狙われている以上、ジュリアンとは一緒にいられない。
破産の時点でクレイトン家には婚約解消の旨を伝えた。
なのに未だ先方からは一度も了承の返事はもらえていなかった。
身一つでもいいとさえ言ってきて、果ては屋敷に来たジュリアンから何度も翻意を促されていた。
エレノアが断固たる態度を取れなかった理由はそこにあった。
きっとどこまでも優しく自分を甘やかすジュリアンを決定的に傷付けたくなかった。彼に自分が悪者だと思われたくなかった。
でももうそれも終わりだ。
今無理にでも離れなければ、それこそ自分が駄目になると思った。
彼を危険に晒す羽目になると思った。
だから叔父からだけではなく、直筆で問答無用の婚約破棄の手紙一つを送り付けて、留学すると言う嘘の名目で連絡を途絶した。
ここまですればさすがに彼も憤り失望してさっさと忘れてくれるだろうと、そんな目論見もあっての所業だった。礼を失していた事は重々承知しているが、直接会わなかったのは、会えなかったからだ。どうしても面と向かって言うのが怖かった。
募る無力感と悔しさ、そして罪悪感と恋しさ。
エレノアはそんな諸々を煮え湯のように呑み込んだ。
だからエレノアは、今アメリアの傍に居る。
身分を隠し、知己との交流も断ち、約一年。
貴族の青年が集うような場所を極力避けてきたのに、奇しくも今夜ジュリアンと再会してしまった。
(自分から勝手に離れて、それでどんなに好きだったか気付くなんて皮肉だわ)
でももう引き返せない。
メイフィールド家の顧問弁護士の話によれば、領地や返金に関しては詐欺師を捕まえてみない事にはわからないと言っていた。手がかりは無いに等しい。
けれどこのまま泣き寝入りは御免だと、エレノアは足掻くと決めた。
ここ一年、密かにクレマチスと情報を集めるために奔走していた。
有力な手掛かりは未だ得られていなかったが、まだ諦めるつもりはない。
差し押さえられた王都の屋敷が今どうなっているのかはわからない。
ピンカートン家は王都に大きな屋敷を構えるが、王都は広く、同じ王都でも全く土地勘のない場所などざらだ。
それに元の屋敷は貴族街と呼ばれる界隈にあるので、単なる使用人がそんな所に私的な用があるわけもなく、今まで幸いにしてアメリアから用事を言いつけられる事もなく、エレノアは近付かずに済んでいた。
今夜は本当に例外だったけれど。
(恋を犠牲にしたんだもの、たとえ何年かかってもいつか犯人に辿り着いてやるわ)
アメリアには全ての事情を話した。
ベッドの中、予想外の出来事のせいで中々寝付けないエレノアは何度も何度も寝返りを打った。
自分は侍女なので、部屋は主人たるアメリアのすぐ隣だ。
何事かがあってもすぐに駆け付けられるようにとの配慮もあり、ご令嬢の寝室の傍には侍女の寝所がある家が多い。
しかし今まで、それこそエレノアがこの屋敷に来るまで、アメリアには形だけの侍女はいたが離れた使用人部屋で寝起きしていたと聞く。
アメリアの兄ヴィセラスが言うには、歴代の侍女は年がやや離れていたためか、どうもアメリアとは馬が合わず大して会話もしていなかったらしい。
『ほら、アミィは見たまんまに破天荒だろ。だから侍女の方から距離を置かれてたんだよ。アミィもアミィで目には目をって性格してるからそれでどんどん溝がなー』
ヴィセラスの苦い表情がよみがえる。
アメリアがエレノアに気安く接してくれるのは、様々な怪しい点に気付いて興味を持ったからかもしれないが、歳が一つ違いと近いせいもあるのかもしれない。
後は幸運にも相性が良かったのだろう。
きっかけは何であれ、今ではかけがえのない存在だ。
実はアメリアたちの両親は貿易商と言う情報ルートを駆使し、詐欺師たちの、そして襲撃者たちの足取りを追ってくれている。
生憎まだ有力な情報は得られていないが、その点は夫妻も首を傾げていた。
ここまで情報が出て来ないのもおかしい、と。
ただ、実利を重んじるピンカートン家がエレノアたちを家に入れたのは、結果がどうあれ商会に損失はない事、交流の深かったエレノアの両親への義理立て、クレマチスのアメリアへの行儀指導という幾つかの加味要素があったのが大きい。
――そして最大の利点は、犯人逮捕の暁にはエレノアはヴィセラスと結婚する。
そうすればピンカートン家は将来的に爵位を得られるのだ。
働き始めて幾月か経ち、良かれと思ってここに連れて来てくれた乳母のクレマチスは案の定、伏せられていたこの条件に激しい難色を示し出て行こうとさえした。けれどそれくらいの条件がなければ割に合わないとエレノア自らが宥め承諾した。
アメリアは知らない。
知っていたら烈火のごとく怒るに違いない。
当事者のヴィセラスは知っている。
彼はよくわからない。
性格的にも決して両親に唯々諾々と従うというわけではないのだが、将来的なエレノアとの婚姻を厭う様子は表面上特になかった。
エレノアはベッドに潜り込んだまま布団を引き上げると体を小さく丸めた。
勝手にメイフィールド家を破産に追い立ててくれた叔父は、今頃どこでどうしているのか。
彼は父親の弟で、父親とは歳が十と少し離れていてまだ独り身だ。もしかしたら連絡を取っていない間に所帯を設けているかもしれないが、それならそれでいい。
彼が婚約解消に賛成してくれた理由はわからない。黒幕だから余計な繋がりを断たせたかったのか、単なる贖罪だったのか。
わからないと言えば、ジュリアンだ。
「あんな女たらしになっちゃうなんて、信じられない……」
いくらでも、布団を被ってなら文句を言える。けれど自分は彼の瞳に映る事は出来ない。
もしも面と向かう時が来るのなら、何もかもが思い出になるくらい、それくらいの時間がほしい。
もう薄れたと思っていたのに、一目会ったら全てが巻き戻ったように蘇った。
ずきずきと胸の奥が締めつけられて痛い。
一方的に酷い仕打ちをしておいて、恋しがって涙を流すなんてお笑い草だ。そんな資格すらない。
涙腺を堪えていたら、爪が掌に食い込んでいて痛かったけれど甘んじて受け入れた。
長い夜はまだまだ明けない。