伯爵令嬢エレノア
「さあエリー、理由を話してもらいますわよ」
帰りの馬車の中、アメリアは手術前の医者よろしく両手の指をわきわきさせて向かいに座るエレノアににじり寄るようにした。
(か、顔が悪徳業者……!)
「あんないい男から逃げ出そうなんて勿体ない! 相手は仮面まで外してくれてましたのに、あなたったら最後まで及び腰でしたわよね。さあ~てエリー? 勿論私が納得できるよう事情を聞かせてくれますわね?」
背凭れにピタリと背を押し付けるエレノアは、たら~りとこめかみに汗を垂らして弱い笑みを浮かべる。
「話してくれないのなら次も夜会に連れてっちゃおうかしら。今度は主人命令で仮面なしなやつに」
「えっ……」
それはあんまりだった。
アメリアの侍女になってそろそろ一年。
付き添いでの外出時だってエレノアは執拗に深く帽子を被り、極力自分の素顔を晒さないようにしている。
今日だって結局は仮面舞踏会だったから妥協した。
「アメリア様それはあんまりです~」
「あーっまた敬語! 二人きりの時は敬語使わないでって言ってますでしょ。エリーの忘れんぼ! あの人――クレイトン様が好みじゃなかったんですの? それとも……実は他に好きな人が?」
向かい合った二人用の馬車内、膝を突き合わせてくる主人から少し横に逃れてエレノアは目を伏せた。
「そ、そうじゃないですけど」
「ほら敬語!」
「あ、ええと、私は平民だから貴族とは釣り合わないし……」
「え、あの人貴族なんですの? 勿論あの場に貴族は沢山いましたけれど貴族じゃないうちみたいな成金族も他に大勢いましたのよ。クレイトン様もそうかもしれませんのに……何でわかりましたの? 彼がそう言ってましたの?」
「えっ!? あー……あーそのぉー、見た目から多分貴族なのかなって……」
「ふーん。貴族か否かは二分の一ですし、あの方って確かにまんま貴族って感じでしたものね。まあそこはいいですわ。けれどエリーの釣り合わないって言い分じゃあ筋が通りませんわよ」
ジト目で見てくるアメリアにエレノアは希薄な笑みを向けつつ「ど、どうして」と問う。
「だって……」
アメリアは一瞬黙り込んだ。
視線を左右に動かし、言葉にしてしまっていいものかと逡巡しているように見える。
エレノアが口を挟まず辛抱強く待っていると、ややあって意を決したように口を開いた。
「――エレノア・メイフィールド」
その言葉にエレノアは息を呑み、大きく目を見開いた。
アメリアからその様子をつぶさに観察されていたのだと気付いたが後の祭り。けれど彼女は怒るでもなく得意げにするでもなく、何故か眉尻を下げた。まるで水臭いわねと言わんばかりに。
「エリーもクレイトン様と同じく――貴族、ですわよね。メイフィールド家は広大な山野や農地を領地とする一族で、エリーはそこの一人娘でしょう? まあ貴族の中に序列があるにしてもクレイトン様とは身分的には釣り合うはずですわ。爵位返上なんていう話も聞きませんし、身分違いだなんて白々しいですわよ」
「ど、どうしてアメリア様が知ってるの?」
「んもう、二人の時は様も付けないでって言ってますのに……。で、そんなのは少し考えれば私にも推測できる事でしたの。敢えて侍女に身をやつしている理由まではわかりませんけれど」
ただただ驚くエレノアの真正面で、アメリアは確信しているようだった。
「ええと、私ってそんなに不自然だった?」
「否定はしませんわ。どこかの貴族に仕えていたっていうクレマチスが私の行儀見習いの先生として来てくれることになった一年前、同時期にあなたも侍女として雇い入れられたでしょう。書類上は田舎の小さな商家の生まれって誤魔化していても、傍に仕えてもらっているうちにわかりましたの。田舎出の平民にしては言葉遣いも所作も洗練されていましたし、全然田舎臭くないんですもの。そもそも入った当初は手も綺麗でしたわよね」
クレマチスはエレノアが生まれる前から母に仕えていた女性で、エレノアの乳母であり侍女であり家庭教師すら兼ねている。万能で有能な女史だ。年齢はもうエレノアの祖母に近い程で、早くして白髪になったのか、エレノアが物心ついた時にはもう白かった。
母が実家を出るにあたって唯一共としたのがクレマチスだったと聞いている。それ程に頼りにされ、事実頼りになる存在だ。
「そうなの、それで調べたのね」
「エリーじゃなくて、クレマチスの方をちょちょっとね。そこから知った事実から、エリーの素性にピンときたのですわ。両親に問い質したら、子供には関係ない諸々の事情があるんだから触れるなって釘を刺されましたけれど、かえってそれでもう確定ですわね。まあ付け加えれば、クレマチスったらエリーに対して上下逆転のぎこちなさが消し切れてなかったですわ」
ほほほっと茶目っ気たっぷりにアメリアは笑って、エレノアを見つめる。
「ね。外れていないでしょう?」
駄目押しの問いかけ。
声にも態度にも責める気配の全くないアメリアへと救いを感じつつ、エレノアは「さすがはアメリアね」と素直に認めた。
「エリー、けれどその、勘違いしないで頂戴ね? 私はあなたの秘密を公言する気は毛頭ありませんわ。エリーと一緒にいられなくなるのは嫌ですもの。私にバレたからって勝手にいなくなったりしないですわよね?」
少し不安そうに見つめてくる茶色い瞳が、エレノアの心を揺らす。
偽りを知っていたのにずっと黙っていてくれたアメリアを疑う余地なんてない。
「アメリア……。約束するわ。あなたに黙って居なくなったりしないって」
「本当に?」
「本当に。……もう誰かを傷付けるのは避けたいの」
「エリーそれって……いえ、いいんですわ」
身を乗り出していたアメリアがようやく落ち着いた風情で席に体を戻した。
「エリーの家の事情は存じてますわ。ご両親はまだ……?」
「うん、行方不明扱い。でも状況的に絶望視されているから……」
一年と半年前、エレノアの両親は不幸な海難事故に巻き込まれた。
暗礁の多い海域で起きたらしいその事故では大勢の人間や動物、金貨や宝飾品までが海の底に沈んだらしい。
現地はまだ発展途上の地域で、大小無数の孤島がひしめく場所ということもあり捜索の迅速化は難しかった。それ故に行方不明者が多くなったとも言われていた。
両親もその中に含まれていたのだ。
「そうですの……。クレイトン様に正体がバレないようにしていたのにも、何かわけがあるのでしょう? もしかして何かお家事情と関係があるの?」
(鋭い。アメリアって結構キレ者よね。でも単に謎解きを楽しんでいるわけじゃなく、情報を集めるのは少しでも私の力になろうとしてくれてるからなのよね)
こんな令嬢他にいない。
改めて、アメリア・ピンカートンという人間の懐の深さを感じたエレノアだ。
そして、信頼しているからこそ、エレノアは答えを告げた。
「ジュリアンは、知っての通り私の元婚約者で、だけど婚約解消にあたって私は彼から逃げたの。姿を消したって言う方が的確かな。とりあえず表向きは外国に留学ってことになってるから、大々的に捜索される心配はないんだけど、全部が片付くまでは見つかるわけにはいかないの。……巻き込みたくないから」
「まあっ……」
今度はアメリアの方が驚く番だった。
世間一般の娘が取る態度としては予想通りだ。エレノアだってアメリアの立場で話を聞けばこうなったに違いない。
ただ、ここからがアメリアの変わっているというか、妙な勘の良さを発揮した部分だった。程なく自分の中で整理を付けてから表情を真面目なものに引き締めた彼女は、エレノアを静かに見つめる。
「事情はわかりましたわ。これはエリーと私二人だけの秘密ですわ。あ、クレマチスも入ってるかしらね」
再び身を乗り出してきたアメリアに手を握られる。
「エリー、いえエレノア。率直に訊きますけれど、今現在メイフィールド家はあなたの後見人の叔父様が一時的な代表者と思っていいんですわよね」
「……うん」
そうなのだ、当然もうメイフィールド家は両親が動かしてはいない。
「婚約解消もその叔父様の了承を得て?」
「もちろん。さすがにそこは叔父の了解を得たわ。でなきゃ十五、六の子供が家同士の取り決めを勝手にどうこうできないもの」
アメリアは納得した顔をした。
ただし、刹那の間だけ。
「でもそれはメイフィールド家から一方的に突き付けた破談じゃなくって?」
「……そうよ」
「だから当事者のあなたは留学と嘘をついてまで、さっさと身を隠した。相手がいなければ婚約も結婚も最終的にはどうにもならないですものね。エレノア、あなたは何を背負っているんですの? もしくは、暴こうとしているんですの?」
本当に頭が回る。
「アメリア……。あなた探偵になれるわ」
図星過ぎて他に取り繕う表情も浮かばず苦笑いで茶化すと、アメリアは得意気にしてみせた。
そうなのだ。叔父が臨時の後見人となってから、クレイトン家に婚約解消を打診したものの再三断られていたのだ。けれどどうしても解消したかった。
故に最終手段として強硬な態度に出たというわけだった。
「エレノアは何をするつもりですの? 私にも協力させて頂戴」
「そこまで迷惑は掛けられないわ」
「私がしたいんですわ! 駄目だって言うんでしたら……クレイトン様にバラしちゃいますわ」
「だだだ駄目よっ!」
「ホホホ何とでも言って頂戴!」
「アメリアあああ~、だってもしかしたら危ない目に遭うかもなの、だから大事な友達を巻き込みたくないのよ!」
「友達っ……!! エレノアの口から私の事を友達と……!! あああ『そんなんじゃお前友達一人も出来ねーぞ』とか愚かな寝言を言っていた使えないお兄様に聞かせてやりたいっっ!!」
(アメリアったらヴィセラス様からそんな事言われたのね……)
エレノアから見ても、時々兄妹仲が良いのか悪いのかよくわからない二人だったりする。
何やら感涙に震えるように頬を紅潮させるアメリアは、ひとしきり何かを噛みしめてから握っていた手をそのままぐっと引き寄せる。
「何らかの危険があるなら尚更引けませんわ。脅しだろうと簀巻きだろうと何でも使ってエレノアを助けますわ!」
「す、簀巻き?」
「――協力しますわ! ね? エレノア?」
満面でにっこりとされ、しかし唯一目だけは眼光鋭く全く笑っていない。
(これは、断れば確実にジュリアンにバラされる!)
友人の目は紛れもなくそんな本気な目だった。
「私はエレノアが心配で、何も出来ないままなのは心底嫌ですもの」
(ああ、そうか。……アメリアは私と同じなのね)
何も出来なくて嫌になる。
それはエレノアも酷く痛感した事のある、現在進行形でもある気持ちだ。
「……うん、ありがとうアメリア。助けが欲しい時は遠慮なく言うわ」
しっかり目と目を合わせ、握られた手を一度外して自分が上から包み込むようにして、エレノアはふわりと微笑んだ。
精一杯の感謝。
それしか今は返せるものがなかったから。
これから先アメリアを信頼する事が恩返しになるだろうか。
冬に花が綻ぶようなエレノアの笑顔を食らったアメリアは、顔を背けると頬を赤くして小さく零した。
「……私が女で良かったですわ。エレノアってこういうとこ自覚ないのかしら」
「え?」
「何でもないですわ」
その笑みだけで恋に落ちる男は多いだろう。実際、屋敷を訪れる客人の中にも、エレノアがにこりとするだけで頬を染めた男性は何人もいた。
美しい緑瞳に見つめられてのエレノアの微笑みは、そういう威力があるのだ。
「……おそらくきっとクレイトン様も。まあエレノアの魅力は容姿だけではありませんけれど!」
「アメリア?」
「ホホホ、何でもないですわその二」
アメリアは二人がどんな婚約者同士だったのかは知らない。それでもさぞかしジュリアンもハラハラしていたに違いない……とかなりの同情を込めて今宵会った蜂蜜色の髪の青年を思い浮かべたのだった。
商家の娘だけあって小さな頃から様々な人間を見て来たアメリアは、人を見る目には自信がある。
「クレイトン様ならいいと思ったんですけれど。……多少性格に難はありそうでも」
今度はエレノアに訊き返されないように口の中だけで呟いた。
性格に難。
見目良し、家柄良し、財力良し、性格も優しいときている今や社交界の憧れジュリアン・クレイトンをしてそんな評価を下せる令嬢は、世界広しと言えどアメリアだけだろう。
そしてそれは、結論を言えば間違ってはいなかった。
その点を考慮から抜いても、既にエレノア側に固い決意と無視できない事情があるようなので、アメリアの「エリーに良い人見つけてくっ付けましょう大作戦」は乗っけから頓挫した。
「クレイトン様を招待すると言ってしまった夜会はどうしましょう。忘れたふりをして招待状を送らずにいようかしら」
「それは言った手前送った方が良いと思うわ。後々の信用問題に関わるかもしれないし。私の事は気にしないで、裏方に回るから。アメリアは楽しんでね」
エレノアの言葉に、アメリアは急にやる気を失くしたような顔をした。