咄嗟のウソ
「どうして喋ってくれないのかな。僕が気に入らない?」
ダンスホールの人波をすり抜けるようにして進む途中、トレーを持った給仕の男性にグラスを二つ催促して一つを先にエレノアに手渡しながら、ジュリアンは苦笑った。
(やっぱり喋らないと不自然よね。でもどうしたら……)
しばし悩んだ挙句エレノアは繋がれた手を引いて足を止めさせると、その手を解いた。
相手が困惑を滲ませる間もなく掌を上向かせると、大胆にも彼のその手を指でなぞった。
「ええと、何かと思ったら文字かな?」
こくりと頷く。
「『私は喋れません』って書いた?」
もう一度頷く。
肯定に彼はちょっと目を瞠ったが「そうなんだ」と受け止め、後は何も気にしない様子で夜の涼みにエレノアを連れ出した。
庭先には下りずバルコニーの手摺りに並んで寄り掛かりながら、誘いに付き合う形のエレノアは内心気が気ではなかった。
「僕はジュリアン・クレイトン」
そう言うと、彼は何と仮面を外してしまった。
ふうと一息吐く横顔は紛れもなく元婚約者ジュリアンその人だ。
(ふええっジュリアン何やってるの!? それじゃあ仮面舞踏会の意味ないでしょおぉ~……)
「君の名を聞いても?」
エレノアはピシリと固まった。
(ま、まさか仮面舞踏会に来て名前を訊かれるとは思ってなかった……っ)
マナー違反もいい所だ。何のための仮面なのか。
(正体を明かさずやり過ごせるのがメリットなんじゃないの?)
彼に倣って仮面を外す事だけは避けたい。どうしてもそれだけは出来ない。
顔を見られたらこの一年の苦労が水の泡だ。
しかしこの状況はフェアではない。既に向こうは顔を晒し素性を明かした。
とは言え、向こうが勝手にやったのだしこっちが従う義理はないのだが、エレノアはお人好しだった。
彼女はその場にジュリアンを置いてさっさと立ち去るという選択肢をまるで思い付かなかった。どうしようと緊張により一層身を固くしていると、彼は催促するように掌を差し出してきた。
(名前を書けってこと? でも本当の名前は名乗れないから偽名でいくしかないわよね)
渋々と彼の掌に指先を乗せる。
今の偽名は本名に近い……というかまさに本当の名のニックネームだ。
どうか気付きませんようにと祈りながら綴ろうとした時だった。
「見つけましたわエリー! んもうどこに行ったのかと思ったら……って、あああごめんなさいお取り込み中? ――むは!? イケメンッ!! ついについにエリーにも春がきましたのねえええっ!」
エレノアの隣の青年を見て我が世の春のように狂喜の声を上げたのは、いつも元気な少女。
――アメリア・ピンカートン。
学校に通っていればエレノアの一つ下の学年に当たる十五歳だ。
何に付けても騒々しい彼女は、近年貿易によって甚だしく業績を伸ばし莫大な富を得、現在も経営良好なピンカートン商会のご令嬢だ。
背に流れるくるくる巻き毛の茶色い髪に、髪と同じような色の瞳はくりくりとして愛らしい。鼻の上にそばかすが散っているのは御愛嬌だ。
彼女はワケありのエレノアが現在侍女として仕えている少女。
主人なのに主人らしくなく、まるで友人を誘う気安さでこの夜会にも誘ってきた。最初は侍女の身で恐れ多いとやんわりと断ったのだが、
『入口で招待状さえ提示すれば、後はどうせ無礼講の仮面舞踏会なのですし誰だかわかりませんわ。それに招待状はエリーの分までもう手配済み、むふふふふ観念しなさいな!』
強制参加だった。
正体がバレないという妥協点と、妙に張り切っていたアメリアをガッカリさせるのも嫌だったので折れた。
アメリア自身もあまり夜会には出ないのに、招待状はおろかドレスの手配も彼女が全てしてくれて一緒の馬車でここまで乗り付けた。豪商の娘だけあってさすがにそういう面では手際がよかった。
そのアメリアはジュリアンが仮面を外していたからか、釣られるように仮面を外すとにんまりとする。
「こんばんはっ甘いマスクのカッコイイ紳士さん」
「こんばんは」
「うっわあ声までイケてますわ! エリーやるじゃない!」
ジュリアンが優しく挨拶する傍で、アメリアは一人大興奮してエレノアの背をバシバシ叩いてくる。
「もしかして君は彼女の友人? ちょうど今名前を聞こうとしていたんだよ。彼女はエリーと言うんだね」
「はい。私の親友兼侍女ですわ! ……あ、とと。他の方には彼女が侍女と言う話は内密にお願い致しますわね?」
「もちろん」
侍女を着飾らせて一緒に夜会に参加させていたなんて、いい顔はされない。
令嬢よりもその侍女への風当たりが強くなる。最悪会場から抓み出されて終わるだろう。
身分の上下を問わない無礼講と言えども、参加者は爵位持ちはもちろん名士や郷士、弁護士や教授などの職業の者、または彼らに連なる親族が限定であり、使用人はさすがに論外だった。
口を滑らせ焦って口元を押さえたアメリアは、ジュリアンの寛容な理解にホッとした色を見せた。
軽く咳払いをすると姿勢を正し態度を改める。
「私はアメリア・ピンカートンと申します。以後お見知りおきを」
「僕はジュリアン・クレイトン。……ピンカートンって、もしかしてヴィセラスの?」
「ああらまあっ、お兄様のお知り合いでしたの!」
「実はアカデミーの同期なんだ。ヴィセラスのおかげで毎日楽しく過ごせているよ。この夜会にも誘おうと思ったら先約があるって言ってたんだけど、もしかして今夜は彼も?」
「ええ来ていますわ、私のお目付け役として。ですがお目付け役なのにどこかに行ってしまって……。会場のどこかにはいると思いますけれど、全く役に立たないお目付け役もいたものですわね」
兄の知己とわかった気安さからか、アメリアは不在の兄への不満を漏らした。
「今日はエリーの恋人を探そうって言ってありましたのに……面倒で逃げましたわね。でも心配しなくてもこんないい人を捕まえてたみたいですし、お邪魔虫はあっち行ってますわねホホホ。じゃあエリー頑張って!」
への字口から一転うきうきとしたアメリアは、エレノアとジュリアンを前にスカートの両裾を指で抓み上げ退去の挨拶をするとくるりと踵を返す。
(えっやだ置いてかれちゃう!)
焦ったエレノアは咄嗟に手を伸ばしてむんずとアメリアの腕を摑んだ。
「エリー……?」
アメリアがビックリしたように振り返る。
事情を説明したいのにここで声を出すわけにもいかなくて、エレノアは置いていかないでと摑んだ腕を何度か小さく引いて訴えかけた。
ここはもう無理と微かに首を振ると、アメリアは察したのか一瞬だけ困ったような顔でジュリアンを見やってからエレノアを見た。
「ほほほ、クレイトン様すみません。実は私たち門限があったのをすっかり忘れておりましたワ~」
(声が裏返ってるよぉ。ひいーんこれじゃあ嘘なのバレバレじゃないの~)
怪しまれないわけがない。
アメリアは明後日の方を見て冷や汗を流し、エレノアは他の回避策を慌てて模索する。
ジュリアンは微笑んだまま何も言わない。
(これはもう最終手段――強行逃亡するしかない?)
エレノアがようやくそんな方向に覚悟を決めようとしていると、
「……そっか。ならこれ以上は引き留められないね」
静かな吐息。
ジュリアンは唐突すぎて不自然なアメリアの申し出にも嫌な顔一つせず、ただ少し間を置いただけで軽い口調でそう告げた。
「そこまで送ろう。今日は馬車で? それとも自動車で?」
「……ほ。あ、いえ、ありがとうございます。今日は馬車ですわ。自動車はエリーがまだ慣れていないもので」
「ふふ、君は友人思いなんだね」
「当然ですわ。エリーは私の大事な大事な大親友ですもの!」
戸惑いをすぐさま消し、喋らないエレノアの代わりにアメリアが会話を繋ぐ。
ジュリアンの先導でバルコニーから再び戻った大広間では、道行く彼の素顔を見て頬を染める淑女たちが続出。一緒にいるエレノアたちにも様々な温度の視線を向けられたが、同じく素顔を晒すアメリアはそんな無遠慮な視線などどこ吹く風だ。
メンタルの強さに感心しつつ、エレノアは本来の立場の侍女らしく目立たないように二人に付いて行くのに努めた。
「ピンカートン家のご令嬢の馬車をよろしく頼むよ」
ジュリアンが慣れた様子で入口近くに待機していた会場係に申し付ける。
係の者は了解すると馬車庫で待機している御者に伝達をしに行った。
「すぐ来ると思うから、クロークルームから上着を取って来てもらうといいよ」
「はい、ありがとうございます」
彼はエレノアの会釈とアメリアの返事ににこりとすると、務めは果たしたとばかりに踵を返そうとした。
「あっそうですわ、今度我がピンカートン家でも舞踏会を催しますので、その折には是非ともいらして下さいな。招待状をお送りしますわね!」
「それは光栄だなあ」
(えっ屋敷に招待!?)
アメリアは何故エレノアが無言なのか追究は後回しにしたらしく、兄の友人であるジュリアンに粗相のないよう努めることにしたのだろうか。
「パーティー楽しみにしていて下さいな。ホストとして腕によりを掛けて期待以上の華やかさに仕上げてみせますわ! 屋敷も、この子も!」
アメリアにぎゅっと二の腕を抱き込むようにされ無理やりジュリアンの前に立たされたエレノアは、仮面の裏で目を白黒させた。
真正面のジュリアンと、仮面の奥の自分の目がバッチリ合った。
まあ彼の方からは見えないけれども。
(えええッ何でここで私!? 私には関係ないのにいいい~っ)
というか関わりたくない。
一方、こちらも意外だったのか一度瞬いたジュリアンは、けれど次には優雅な微笑を取り戻した。
「それは心躍る一日になりそうだなあ。君は僕とエリー嬢の運命のキューピットだったりしてね。今度はピンカートン家で会えると期待しているよ。……エリー嬢、その時は僕とまた踊って下さいませんか?」
やや身を屈め上目遣いに覗き込んでくる整った容貌に、エレノアは頷く事も出来ず戸惑ったように少しだけ体を引いていた。それを自覚してまずいと思った時にはもう遅い。
ジュリアンはふふっと笑った。イケメンスマイル全開で。
「――予約の印に」
(えっ! なっ!)
彼は跪き、恭しくエレノアの手を取って手の甲にキスを落とした。
大胆な彼の行動にエレノアは益々恐恐となった。めちゃくちゃ注目されている。幻聴ではなく「誰よあの子」なんて声までが聞こえてくる。羨望と嫉妬が渦巻く眼差しに今にも自分の正体を暴かれそうで内心ヒヤヒヤしかない。女子の執念と情報収集力分析力を甘く見てはならないのだ。
「クレイトン様ったらやりますわね~」
周囲がざわつく中、何も知らないアメリアが満足げに口笛を吹いた。
彼女の侍女として主人の淑女らしからぬ行動を窘めるべきだろうか、なんてエレノアは現実逃避よろしく頭の片隅で職務に忠実にも考えた。
「こう見えて実は僕、しつこいんだよ?」
離される間際、他の人には聞こえない大きさでジュリアンが囁いた。
仮面の奥すら見透かすような流し目に、思わずぞくりとした。
この人は本当の本当にジュリアンなのだろうか、と。
そのすぐ後に会場係が馬車の準備完了を告げに来て、そう言えばまだ上着を頼んでいなかったエレノアは、自分で取りに行った方が早いとしてジュリアンと別れ、アメリアと共にクロークルームに向かうのだった。