不都合な再会
「ねえ君、待って」
背中からの声に振り返れば、そこに差し出されたのは白手袋の男性の手だ。
「――是非僕と一曲踊って下さいませんか?」
視線を動かし腕を辿っていくと、そこに立っていたのは、目元用の仮面を付けた男性だとわかった。
仮面と言っても派手な眼鏡のようなもので、上げた金の前髪の下の青い瞳だって見えていてほとんど意味をなさない。見る者が見れば誰だか知れてしまうような代物だ。
自身も仮面を付けたエレノアは息を呑み、唇ににこやかな笑みを湛えるその相手を見つめた。
(ジュリアン……、どうして……)
震え、よろけそうになる両脚を何とか堪え、エレノアは平静を装った。
まあ、顔面全てを覆うタイプの仮面を付けている彼女のどんな表情も、今は仮面の下なのだけれども。
今宵は仮面舞踏会。
生粋の貴族から成金の富豪まで色取り取りに着飾った男女が、今だけは仮面の奥に身分を隠し誘い誘われ出会う場所。
この夜だけは誰でもない誰かになれる、そんな胸躍る、ともすれば予想もしない展開さえ待つ豪華絢爛の夢の夜。
(ど、ど、どうしよう……。他にも沢山ドレスの人はいるのに、何でよりにもよって私に申し込んでくるの……? ま、まさか見抜かれて……る!?)
一歩後退しかけた背で、未婚を告げる下ろしたままのピンクブロンドがさらりと揺れる。反対に既婚者は普通髪を全部上げているものなのだ。
賑やかな雰囲気の中、エレノアはバクバクと五月蠅い自身の心臓の音を聞きながら慄きただただ突っ立っていた。
彼女自らの手で婚約破棄を通告した相手、元婚約者――ジュリアン・クレイトンの真ん前で。
先程までは、当初の予定通り完全壁の花に徹していたというのに……。
連れの少女が張り切ってどこかへ行ってしまい、死角同然の壁の柱の陰で一人時間を潰していたエレノアだったが小腹が空いたのだ。だから料理の並ぶ窓際のテーブルの方へ向かった。その途中での誘いだった。
(ふええ~空腹我慢してれば良かったよお~)
エレノアは改めて目の前の青年の手を見つめた。
染み一つない白手袋を付けたその指はすらりと長く、その手で極上のピアノを奏でるのだと知っている。
背の高いジュリアンは、今も仮面の奥の煌めく青い瞳をこちらに向けている。
真っ直ぐに。
まるで何かを見逃すまいとするような熱心な眼差しで。
咄嗟に言葉が出てこなかったエレノアが断りも承諾もしないので、場には沈黙が続いていた。
(気付かないふりすれば良かったよお)
振り返ってしまったのは痛恨の極みだ。
声を聞いた瞬間、渇くような懐かしさに突き動かされて迂闊にも振り返ってしまったのだ。
(私の馬鹿、誰とも踊る気なんてなかったくせに……なのに……)
正体がバレずにこの場を無難に切り抜けるには、彼の前で声を発してはならないと思った。
もしかしたら彼もエレノアの声を覚えているかもしれないのだ。
彼の声を忘れていなかった自分同様に。
(まあ既に忘れられてる可能性の方が高いけど、念には念をよね)
何故なら、彼に見つかるわけにはいかない。
自分のピンクブロンドはカツラも被らずそのままで来てしまったから仕方ないにしても、仮面を付けているので向こうは誰だかわかってはいないだろう。……たぶん。
(だってピンクブロンドなんてそこまで珍しいわけじゃないもの。だ、大丈夫よね?)
「もしかしてこういう場は不慣れ? だから踊るのを躊躇っているのかな。でも折角こんな綺麗なドレスを纏っているんだ、一曲だけでも踊った方が楽しいよ。次は確かワルツだったかな」
(えっ!)
もたもたとこの場に留まっていたからか、気付けば連れ去られるように手を引かれ、人の合間を縫ってダンスホールの中央近くまで連れ出される。
沈黙は金……なんかではなかった。むしろ真逆だった。正反対だった。猛烈に。
周りでは既に何組もの男女が待機していた。
エレノアたちが中央まで滑り出た途端図ったように曲は始まって周囲が動き出す。演奏に合わせてふわりと開く華やかなドレスたちはとても美しかった。
奏でられているのは彼の言葉通りのワルツ。
ジュリアンは「少し出遅れたね」と慌てるでもなくやや外連味を含ませて余裕に笑ってみせると、エレノアの腰を抱き寄せた。
(え! えっとえっとえっとえっとえっとええっとーーーーッ!!)
「緊張しなくても平気だよ。僕がちゃんとリードするから。君は僕の動きに合わせるだけで大丈夫。楽にして僕に身を任せて」
(ひええっ何かその台詞、その台詞~~っ!)
ちょっとエロいと内心では突っ込んだが、さすがに口には出せず一人で狼狽え赤くなる。それに、普段ならばどうにか断って抜け出していただろう。
――相手が彼じゃなければ。
そう、相手がジュリアンでなければこんなに混乱する必要もなかった。
(ええええーと最早この人誰って言うか、本当にジュリアンなの?)
導かれるように左右にくるくると回されたり向かい合って密着したりと案外ワルツは忙しい。
その間エレノアは超絶戸惑っていた。
自分が知っているジュリアンはこんなに女性慣れしていなかったはずだ。
例えば二年前、誕生日に花束とカードを贈ってくれた時、熟れたトマトのように真っ赤な顔でとても照れに照れて見ているこっちの方にまで赤面が伝染するような、それくらい初々しい人だった。
なのに今はどうだ。顔色一つ変えないし、男性相手に使っていいものか、匂い立つような色気すら感じる。
(人違い? ううんでもこの落ち着いたちょっと柔らかい声とか、癖のない明るい金髪とか、仮面の奥の深青の目の色とか、絶対ジュリアンよね)
変声期を終えた声がそうそう変わるわけもないし、間違えるわけがない。
エレノアは彼の事なら大抵知っていた。
聞いていると安心できるようなピアノは、彼の温かな人柄が滲み出たような音色を奏でるし、食べ物の好き嫌いも好きな動物もよく読んでいた本だって知っている。
幼い頃から共有した時間の中で、それ程に多くを互いに見せ合ってきた仲だったからだ。
ただ、ここ一年はエレノアの方から一切の連絡を断っていたけれど。
「ごめんちょっと強引だったかな……って今更だけど。でも楽しいと思わない?」
踊り出してしまったものは仕方がない。一曲だけでも付き合うのが解放への早道だろうと、ダンスが嫌いではないエレノアは声なく頷いた。
彼は形の良い薄い唇で微笑むとエレノアを自身に引き寄せ距離がぐっと近づく。
紳士の身嗜みとしての控えめな香水に馴染んだ懐かしい彼の匂いが濃くなった。
(付けてる香水、あの頃と変わってない)
エレノアが好きなジャスミンの香りだ。
芝生の上や木陰で、安眠を誘うというその香りの隣でお昼寝をするのが好きだった。
演奏に耳を傾け相手に呼吸を合わせ、仮面の奥でそっと目を閉じる。
(踊り方も、変わってないなあ)
パートナーを優しく包むような彼の踊り方にツキリと胸が痛む。
自分と離れている間他の女性にもそんな風にしていたのだろうか。
(……なんて、私が嫉妬するなんて図々しいわよね)
二人きりの時も大勢の時も何度も踊ったテンポ。
彼のリードに任せてはいるが自然と足が動くのは、まだ元婚約者である目の前の青年を忘れていない証拠かもしれない。
「驚いたな。とても踊りやすいよ。君とはダンスの相性がいいみたいだ」
流れる動作の合間に耳元で囁くように彼が言う。
息遣いがくすぐったくてエレノアはちょっと首を竦めた。
昔から耳元や首元には弱いのだ。
と、くすりと笑われた。
怪訝に見上げると、頭一つと少し背の高いジュリアンはエレノアを見つめ下ろしていた。
「そんなところまで似ているなんて……。このまま君の全てを暴きたくなるよ」
(えー……っと)
エレノアは内心の慄きを決して仕種には出さずに仮面の奥でだけ顔を引き攣らせた。
(や、やっぱり別人! こんな甘ったるい台詞をさらりと口にするなんて、会わない間に性格が変わっちゃったの!? 頭でもぶつけたとか? 実は双子だったなんて聞いてないし、色気はムンムンだし、どうしようこの人!)
ジュリアンはエレノアより二つ上の十八歳。
仮面越しの彼の眼差しの甘さに耐えかねて、エレノアは極力そちらを見ないように心掛けた。心臓に悪過ぎる。
曲が終わると素早く身を離した。
仮面の下だけじゃなく耳までが火照っているのを見られたくなかった。
やや俯き誤魔化すように呼吸を整えていると、相手がやや身を屈める。
「もう一曲どう?」
「――ッ」
仮面越しでもきっと万人をも懐柔するとんでもない微笑み。
(絶対無理! これ以上一緒にいたらボロが出ちゃう!)
エレノアは必死にブンブンと首を横に振る。
彼は小さく笑うと、周囲に比べると露出が多いとは言えないエレノアのドレスの肩に触れた。
「耳や首まで赤くなってるよ。その仮面の内側はさぞかしりんごみたいに真っ赤になってるんだろうね。……齧ったら甘いかな」
「――!?」
愕然とした。
(あああぁ~、記憶の中の控えめで純朴な微笑が薄れてく~……。この人もう本当に、誰……!)
必死の思いでもうおしまいと両手を前に押し出すも、その手さえ握られてレースの手袋をした指の付け根に口付けを落とされた。
目眩がしそうだった……いやする。あらゆるショックで。
「……なんてね。冷たい飲み物でもどう? バルコニーか庭で少し涼もうよ」
エレノア自身涼みたかったのと動揺の余り断る方法も思い付かなかったので、手を引かれるまま従った。
決して強引ではない力なのに振りほどけない魔力のようなものが今の彼にはあった。
完全にお手上げだ。
(どうしたらいいのこれ~。誰か助けてえぇ~)
エレノアは見えない仮面の奥でひそかに涙ぐんだ。