5話 決算目録
「これは……?」
先輩の持つ情報端末には”データ”が表示されていた。
上から下まで並ぶ項目とそれに対応する数字、数字、数字……省略されることなく並ぶ7桁~8桁の数。数字に耐性が無い人が見ると眩暈を起こすような数字の海である。一部に項目名として文字が含まれているが、その大半が数字である。
「……これは、決算目録ですか?」
決算目録とは、この会社独自の目録で決済システムだ。決算をする前に洗い出した決算関連の数字が、全て記載されている。この目録は、ただの目録としてだけでなく、決済時に目録の数値を参照して、機械的に支払先に入金されるようにプログラムされている。
「分かるか」
「ええ、研修で先輩に叩き込まれましたから」
思い出しても、2度とやりたくない専門用語と経理処理の研修。あの研修のお陰で、今経理課に転属になっても仕事をこなせる自信がある。
「ああ、あの頃経理配属になって間もなかったからな……」
「なにが関係して……」
「俺も自分の仕事を覚えるのに忙しくて、研修の指導準備が大変なときは、な?」
「え、あの鬼の様な経理関連の指導は、自分の勉強の為……」
あの思い出すと禿げそうになる研修は、先輩の復習の一環だったらしい。
「ひどすぎる……」
……きつい筈だ。
思わず、自分の座る椅子と机の間から覗く床に逃避する。
”そんなの嘘だろ”……と。
何が辛かったかと言うと、これまで修学して来た以外の分野での研修だった。
何せ、実務レベルでの研修なのだ。
特に、ただ記憶するだけの勉強が大の苦手だった俺にとっては、専門用語の暗記と経理処理の単調な仕事は地獄だった。
その単調な作業地獄から逃れる為、研修後の配属は営業を選んだ。
その後何だかんだあって、今年度の部署異動で企画部に異動してきたのだ。
少しばかり悪夢が蘇りそうになったが、頭を軽く振ると目の前に居る先輩へと視線を戻した。先輩は、少しばかり悪かったと思っている様で、頭をポリポリと掻いている。
「……まあ、それは過ぎた事なので良いですが」
人は前に進まなくてはいけないのだ。
……決して目を背けているわけでは無い。
「あ、ああ」
キレられはしなくとも、一言二言、言われると思っていたのかも知れない。
少し間の抜けた表情を浮かべている。
「これは決算目録ですが、何か?」
一応数値を確認するが問題点は無いように見える。
「ああ、一見な」
そう言って先輩が、ある1か所を指さす。
「シンガポール支援活動部署?」
無数のNPO団体、支援団体の中に初めて見る名前があった。
「そうだ、それに……数字を見てみろ」
7.8(%)、560,800,000(yen)、とあるが、これは配分率と寄付金額だ。
他の団体の数値を見ると、軒並みこの数値の半分以下である。
「……他団体の倍以上を寄付していると云うのは、余程大きな団体なんですか?」
一瞬口を強く結び目線が右上に泳ぐが、直ぐに俺の方を向いた。
「”シンガポール支援活動部署”だ」
……確かにそう書いてあるが……部署?
「それって……」
普通では有り得ない考えが、頭の中に浮かぶ。
「そうだ。この"京生貿易"シンガポール支社の一部署だ」
「……ありえない」
思わず呟いた言葉と同時に、口元に手を当てた。
……そう、ありえない。
そもそも、先月行ったチャリティイベントは国内最大級で、国内の大企業からの支援も受けて行っている。何より、イベントで得た利益はその全てを”外部”の慈善事業団体へと寄付される事になっているし、それを一つの公約としている。
それが、グループ内部に資金を流していたとなれば、大きな問題として取り上げられることは間違いないだろう。会社全体の収益や運営にも影響するだろうし、何よりも企業イメージが悪くなることは避けられない。
……年間数十億円を企業イメージの構築――ブランディングに資金を投入する大企業として、あってはならない事だろう。
正巳の動揺が伝わったのだろう。
先輩が、頷きながら口を開いた。
「そう、これは”ヤバイ”。正巳は、知りはしたが関わるな。問合せの合った先方には、正巳の分析が間違っていたと連絡を入れるのが良いだろう。『例年通りの寄付額でした』と」
……確かに今取れる対応は、先輩の言う通りの方法しか無いだろう。
俺の分析が間違っていたと伝えれば、先方から俺が怒られはするだろうが、混乱は起きない。対応の用意ができていない状態で不用意に行動すれば、混乱と共にそれこそ、会社が傾く。
それに――
「例年通り、ですか……」
……例年通り。
ここ数年、寄付先で特別増えた団体も無く、イベントの収益額も多少の増減はあるにしても大きな変化はない。つまり、何年もの間チャリティイベントでの収益の一部が、シンガポールにある支社の一部署に流れていたと云う事だ。
正巳の言葉を受けて、先輩が肩を落としながら息を吐いた。
「そういう事だ――……はぁぁ」
心底疲れたといった様子で、ため息を付いている。
「これはいつ頃からの事ですか?」
「少なくとも6年分は確認できている」
6年……。
となると――
「シンガポール支社はいつ頃できたんですか?」
何時、支社が設置されたかが重要だ。
この設置時期によって、何のために設置された支社なのかがはっきりする。
「7年前だが、人が配属されてから7年経たないな。これは、経理課の人件費関連でのデータで裏を取ってあるから間違いない」
「なるほど、1年間はペーパーカンパニーですか」
一年間は"下準備"で、次の年から"実行"か……念の入れ方としては及第点だろう。しかしこれで、シンガポール支社が『資金を流す為に用意された』可能性が上がった。
「毎年決済していて、誰も気が付かなかったんですか?」
毎年やっているイベントなだけあって、経理を担当していた人が気が付かないと云う事は、有り得無いはずだ。しかし、今まで問題になる事は無かった。
……明らかに変だ。
しかし先輩の説明は、正巳の予想の外れる所となった。
「ああ、経理と言っても、集計の処理実行ボタンを押すだけだからな。基本、中身を精査して確認する奴なんていない」
なるほど、わざわざ仕事を自分から増やす奴なんていない――……ん?
「先輩は、変態ですか……」
わざわざ、仕事を増やす奴なんていない。
もしいるとしたら、それは"変態"だろう。
「何をっ?! って、違うぞ? ただ、上司から直接任された案件だったし、それに可愛い後輩君が担当してた案件だったから、手は抜けないと思ってな」
少しばかり頬を赤くして言った先輩を見て、思わず笑ってしまった。
「はははっ、それで仕事増えて死にそうになってるんじゃ世話ないですよ!」
恐らく、元々は残業するような仕事では無かったのだろう。
『ボタンを押すだけ』と言うくらいだ。
簡単な仕事の筈が、きっちりと普通以上に仕事をしたせいで、"気が付かない方が幸せだった事"に気が付いてしまった、と。
恐らくは、気が付いた事に関連して色々と調べていたのだろう。
……その結果の"徹夜"となると、全てがクリアだ。
正巳が、『世話ないですよ!』と言ったのに対して、手で額を擦った後に一度天井を向いてから、何処か面白そうにして口を開いた。
「そうだな、はっはっは!」
朝エレベーターホールで会って以来初めて見る、先輩らしい笑顔だった。
「まったく……」
半分呆れながら、それでも流石先輩だと思いながら一緒に笑ってしまった。