380話 シャフイル山の戦い【十一】
別働二隊、サカマキ・ジロウ隊からも、無事に基地の占拠が済んだと連絡が入った。連絡を受け、戦闘終了を宣言しようと通信基地へ向かい始めた正巳だったが、程なく入った通信に嫌な予感を覚えていた。
「アニキ!!」
「どうした?」
「それが──っ、囲め! 正面に構えず常に斜めに位置取れ! クッ、早いな。攻撃を受けるなよ!!」
通信が繋がるや聞こえて来たのは、激しく指示を飛ばす声とそれに応ずる声。報告では戦闘は終了したと言う話だったが、状況が変わったのだろうか。マムがいる以上、伏兵が潜んでいたと言う事態は考えにくいのだが……。
状況を把握しようとしばらく聞いていたが、何となく人間を相手にしていると言うよりは、どこか獣か何かを相手取っているように感じた。もしかすると、この地域に生息するという四足獣が現れたのかも知れない。
獣相手であれば、多少手こずりはしてもどうにかするだろう。
──そう考えて落ち着くのを待ったが、どうにも収まる気配がなかった。
「そこ、出過ぎるな! っ、はあぁ!!」
『ドガッツ!!』
衝撃音の直後、肺の空気が根こそぎ吐き出される音がする。
「グッ、ガハッ──」
「ガウゥゥゥ……ガアッ!」
聞こえてきた”声”に思わず構えたが、それが通信先の事だと思い出し息を吐き出す。かなり近く感じたが、通信越しでこれなのだ。間違いなく向こうでは近いだろう。
首元に手を伸ばすと、鳥肌が立っていた。
「マム、状況を頼む。それと船を動かせ!」
いまだ繋がった先からはうめき声と唸り声、隊員たちの声が聞こえていたが……状況からして悠長にしている場合ではないだろう。慎重な様子で「良いのですか?」と聞いてくるマムに頷く。
本来であれば、通信施設からの”終了宣言”後動かす予定だったが、既に戦争は終わっているのだ。もしこれでケチを付けてくるのであれば、それはその時対応すれば良いだろう。
「わかりました」
そう答えたマムが状況を説明し始めた。すでに向かっていると言う拠点にして”船”は、五分もせず到着すると言う事だった。途中アキラの声も聞こえて来たが、余裕がある様子は微塵もなかった。
「観測したのは”爆発”の直後からです。唸り声のような咆哮と共に、短く小さな衝撃が何度か続いた後、それは現れました。通信基地の近くに埋もれていた洞窟があったのですが、どうやらその中に眠っていた生物がいたようなのです」
続けて語られた特徴を聞いた正巳は、似た特徴を持つ生き物がいる事を思い出していた。
──その体は厚い毛皮に覆われ、その背格好はさながら毛皮を被った大男。手足は大きく爪は鋭い。口にはすり鉢状の奥歯を持ち、鋭い犬歯も見える。その歩みは雪の上でも止まらず吹雪に紛れて聞こえない。
極北の大地に住むという伝説の生物。その名は、イエティ──
◆◇◆◇◆◇
遠くで声が聞こえる。
何となく気になる声だが、いったい何処から聞こえてくるのだろう。
確認しようと身体を動かすも、思うように動かなかった。
さっきまで何をしてたんだっけ……。
段々とぼんやりして行く意識に、思考がバラけてゆく。
いよいよ何かを考える事さえ難しくなった所で、鮮やかな光景が浮かんできた。
それは、何処か懐かしくも、胸の苦しくなるものだった。
──温もり、涙、後悔、絶望。
流れて行く光景の中、幾度となく手を伸ばすもその手は届かない。
もうダメだと顔を背けそうになった所で、背後から伸びた手があった。
振り返るとそこに居たのは一人の男。
胸がホッとなで落ちるのを感じた。
その後現れた光景には、一人の男の子の姿があった。
──弱かった男の子。
景色が流れ場面が変わった。
そこにはもう絶望の影はなかった。
──ああ、思ったよりも良い人生だった。
そう思ったその瞬間、現れた姿があった。
その影はじっとこちらを見つめた後、一言だけ呟いて消えた。
──思い出した。
そうだ、俺は任されて来たんだった。
思い出すと同時に体の感覚が戻って来た。
左半身に違和感があるが、それはある意味当然のことだった。何せ左の胸筋から肩にかけて、巨大な頭をしたバケモノが噛み付いているのだ。違和感ぐらいなくては逆におかしいだろう。
……頭部だけ見ても、通常の人間の倍以上はありそうだ。
状況があまりに非現実的で笑えてくる。
きっと本来であれば、何かを考える事すら難しいほどの”痛み”を感じている状況だろう。それがこうして悠長に状況を俯瞰出来ているのは、もはや激痛がその許容量を超え、痛みを痛みとして処理出来ていないからかも知れない。
「大丈夫かアキラ!」
声が聞こえてきて、どうやら耳も聞こえるみたいだと安堵する。目と耳が機能しているだけで状況はだいぶ把握できるのだ。見えるのと見えないのとでは全く違うように、聞こえるのと聞こえないのとでも全く違う。
声に反応してか、噛み付いたままバケモノが体を振った。
「ぐっはぁっ!!」
その振動で口から泡のような血が噴き出る。
「やめろ刺激するな!」
「しかしそれではアキラが!」
どうやら、自分が捕まっているせいで、攻めあぐねているらしい。
「やるなら息の根を止めるくらいじゃないと、却ってアキラが危ない!」
「しかし、そんな火力……」
焦る隊員を前に、初め興奮気味だったバケモノだったが、ある瞬間からその動きが止まった。
その様子を確認していなかったのだろう。
再び包囲に入った隊員を横目に、バケモノは何処か上の空のようだった。その視線を、山々連なる山脈の方へと向けているのを確認すると、動くことを前もって確認していた右手で腰のあたりを探った。
……あった。
どうやら、保険として挿していた短刀が、落ちずに残ってくれていたようだ。
柄を握ると筋繊維が裂ける音が聞こえるが、きっと、僅かな動きでも身体の負担はとんでもなく大きいのだろう。下手すれば、これっきり腕が上がらなくなる可能性だってあるが、それでも……。
アキラの動きに気づいた仲間が、いつでも対応できるようにとジリジリと動き始める。先ほどまでであれば、きっとこの時点でバケモノが反応していたはずだ。
鞘から短刀を抜くと、そのままの勢いで思い切り振り上げた。
「グボァアァアアアア!!」
その様子からして、短刀の切先がその目玉を抉るその瞬間まで、こちらに意識がなかったのだろう。ほとんど抵抗すらなく、まるで豆腐か何かに刃を通した感覚があってのち、鼓膜を突き破る咆哮があった。
その衝撃で、捕まっていたアキラも吹き飛ばされるが、構えていた仲間によって無事受け止められていた。
「歯を食いしばれ!」
そう声をかけられたのを受け、小さく頷くと直後激痛が走った。
じわりと浮かんでくる涙に滲んで、治療薬が刺さっているのが見える。誰かが「”再生”はあり得ないくらいに痛い」と話していた記憶があるが、確かにとんでもない痛みだ。
例えるのも難しいが、言うなれば小さい針で細胞の一つ一つをチクチクとされ、且つそのまま縫い合わされている。そんな感覚に近い気がする。
気を失いかけるほどの激痛に意識が遠くなるが、そんな中ふと、何処かで編み物を編むのを横で見ていた事があったなと思い出す。きっと、これも脳裏に僅かに残されていた過去の光景だったのだろう。
仲間に抱えられ、距離を取る中見えたのは、もうすっかり治ったのか怒声を上げながら真っ直ぐに突っ込んで行く男の姿だった。普段どちらかと言えば冷静な戦闘スタイルである男だったが、なんだかんだとやはり親子らしかった。
「……っ、ジロウ兄もやっぱり、ハク爺の子供なんだな……ハハハ、そっくりだな」
視線の先では、咆哮によって目を覚ましたらしきジロウが、つい先ほどまで意識がなかったとは思えないほどの動きを見せていた。左手にはナイフを構え右手に短銃を持つ。その連撃から繰り出されるのは、確実な布石の一手。
目を閉じる前アキラが見たのは、膝をついたバケモノと、その振り上げられた腕を交わしつつ懐に入ろうとするジロウの姿だった。




