325話 ノワール号 【四】
帰還してから一ヶ月。久しぶりの大地に頬を擦り付けた感動が、報告やら何やらの慌ただしい日々の中にあって徐々に薄れ始めていた頃。
軍の医療病院、その中でもその存在自体が秘匿された"極秘施設"とその中でも、取り分け重要なデータと機器の詰まった部屋にその姿はあった。
目の前には、特殊なガラス板で仕切られた真っ白な部屋がある。
「順調ですか?」
開いたドアから音もなく入って来た人物にそう聞くと、頷く気配がある。
「容態が安定したと聞きましたが」
恐らく、会話する気など毛頭無いのだろう。壁に並んでいたモニターと、そこに映し出されているデータを確認しながら、小さく鼻を鳴らすのが見える。
「……そうですか、それなら良かったです」
この男がつまらなそうな時は、大抵問題ない時なのだ。
そのまま用事を済ませて帰るかと思っていたが、どうやら予想が外れたらしい。ため息を吐いた男が、顔を上げると歩いて来て言った。
「こんな単純な手術で私が失敗すると思っているのかね。いや、答えなくても良い。分かってる。そう、失敗するはずはないんだ。あぁ、なんて張り合いの無い。つまらない実験なんだ」
それに思わず口が出そうになるが、グッと抑えた。
きっと、ラットンであれば笑顔で聞き流す処だろう。……いや、こと妹の事になると熱くなるあいつの事だ、もしかしたら意外な一面が見られるかも知れない。
想像してフッと笑んだグラスだったが、その様子を横目に男が言った。
「それで、君は良かったのか?」
唐突な問いだが、何を言いたいのかは分かる。
「ええ、私は別に今回で退役する訳ではないですし……いや、もしさせてくれるのであれば喜んでそうしますがね。この仕事を続ける以上、沢山貰っても使い切れませんから」
提示された"報酬"は、質素に暮らせば一生暮らしていけるほどの額だった。軍属である自分もその対象であった事に驚いたが、今思えば俺の考えなど、上の者には全て筒抜けだったのだろう。
「さぁさっさと出て行きたまえ。ここに居る間、この娘は僕の実験体なのだから。それと、言い忘れていたけどね。キース少佐がもの凄く怒っていたようだよ」
それに頭を下げると、黙って歩き始めた。
余程の事がない限り彼女は助かるだろう。何せ、民間に比べ二十年は進んでいると言われる、軍属研究医療の最先端技術をその身に受けたのだ。
気がかりなのは、部下の残した家族が意図せずして、軍と関係を持ってしまった事だが……。
「安心しろ」
ボソッと呟いたグラスは、思考を切り替えるとキース少佐の怒りの原因について考えを巡らせ始めたのだった。少佐は潜水艦の艦長だが、遅咲きだった為その分焦りが前面に出ているのだ。
「……誰かと同じだな」
少し前の自分を思い出したグラスは、小さく呟くと目先の面倒を片付ける事にした。
◇◆
後ろでドアが閉まる音がする。
それを確認した男は、首を右に一度左に二度鳴らすと言った。
「見ているのだろう?」
その言葉に、背後の壁がそれまでの様相を変えた。
「おやおや、この部屋にはこんな仕掛けもあったんだねぇ」
どうやら今までずっと見られていたらしい。すりガラスのように変わった壁と、その向こうには人型をした影がある。背丈は子供ほどだが、聞こえて来た声は無機質なものだった。
『使えそうか』
それに少し考える素振りをして答える。
「うーん、そうだねぇ。戦場を経験して人は変わるけど、彼の場合は良い方に変わったみたいだねぇ。部下思いで、きっと頼れる上官になるんじゃないかなぁ」
わざとテンション高めに言ってみるも、反応は無かった。
「ははは、悪かったって。そう怒らないでくれ給え。君たちのお陰で、ここでこうして研究できている事には感謝しているんだよ。僕の兄がいればまた違ったんだけどね、君たちが無くしてしまったからさ。少しばかり意外性と言うか、不可分の域が足らなかったのさ」
『……それは済まない事をした』
「おや、これはこれはレアだねぇ。君たちがよもや"謝る"なんて! あの大統領でさえ膝をつくのが君たちだと言うのに。そうだね、これは値千金。僕にとってのハイライトかもねぇ!」
『……』
「ふふふ、少し調子に乗り過ぎたかも知れないが、そうだね。問いには答えよう」
『それで?』
「答えは限りなくイエスだ。ただ、条件付きのだけどね」
『と言うのは?』
「まず、これの操作が思考を元にしている以上、必要なのは"心身の強さ"と言う事は説明した通りなんだ。そして、それは訓練して得るか思いを持っているか、その判断が必須だ」
『それは聞いた』
「うん、少尉と組ませた一般人がそうだったからね。それで、問題なのは彼女にそれが無いと言う事なんだ。兄が生きていれば別だったかも知れないんだけどね」
『心が問題と言う事か』
「そう、もし仮に彼女に施すとして、心の安定しない彼女が暴走した時それを抑える人がいないんだ。グラスたちは"脳"だけだったけど、次の段階になると体そのもの"細胞"にすら手を入れる事になるからね」
『……』
「ははは、そう悩む事も無いさ。何せ、その枷となりそうな恰好な代わりが居るじゃないか。行動を共にし、多少なり同じラットンに対する思い出を持つんだ。これ以上はいないだろう?」
『失敗は許さない』
その言葉を最後に、すりガラス状になっていた壁が元に戻った。その後、少しばかりじっと見つめていたが、反応の一切が無くなったのを確認すると呟いた。
「何が"失敗は許さない"だ。君たちこそ壊滅状態らしいじゃないか……」
軍の情報、その大半にアクセス権限を持っているのだ。
そこには、アジア大陸を中心に無数に存在する"無分類組織"とその大半が数年前から対外的な攻撃にさらされ、実質壊滅している事が書かれていた。
以前、ふとした事で軍がその組織へ支援している証拠を握った。
恐らくこれは、あってはならないミスだったのだろう。現在その"切り札"は安全な場所に隠しているが、自分の身が危なくなった時に使うつもりだ。
笑みを浮かべた男は、その"切り札"が現在どうなっているか知る由も無かった。
そう、――とっくの昔に失っていると言う事など。
◇◆
「……酷い目に合ったな」
呼び出されて向かった先にいたのは、激怒に身を震わせる少佐だった。どうやら、ひと月前に持って帰った成果物とその解析結果を聞き、激怒したらしい。
その原因は、持って帰ったのが"ゴミ箱"だった事。
「ふははははは、まさかだな!」
とばっちりに遭ったにもかかわらず機嫌が良いのは、あの怒りに震える顔を思い出しての事だった。そう、そもそもあの怒りは本来自分達が感じるべきもので、ただの送迎をした者が持つべきものではない。それもこれも、きっとあの男が、全ての手柄を自分の物にしようとしていたからだろう。
廊下を抜けたグラスだったが、どうやら待っていた者に見られていたらしい。
「随分とご機嫌だね、良い事でもあったのかな?」
ニコニコと近づいて来るのはミーシャだ。
「そういう君はこれから出発か?」
「そうだよ、最後の挨拶をね。しに来たんだ」
「まあそういう事だな」
「うむ、筋肉を育てなくてはな!」
後ろにいた二人も、そう言いながら歩いて来る。
「ジェレミーはいないのか?」
そう言って聞くと、顔を見合わせて「見てないね」と答えがあった。
「そうか、もしかしたらもう"日本"に向かったのかもな」
それに其々「そうかも知れないな」と笑っていた。その後、しばらく話していたグラスだったが、聞かれると思ったラットンとその"妹"の事については、話題に出る事は無かった。
「それじゃあな」
「ああ、もう会う事は無いだろうけどな」
「ハッ、清々するぜ!」
「うむまた会おうな。その時までには筋肉――」
「はいはい、それじゃあ行くよ」
最後まで騒がしかったが、別れとなると少し寂しいものがあった。
「もう戻って来るなよ……」
その言葉が耳から消えない内に、足音が近づいて来るのを感じていた。
――【エピローグ】――
手を振り見送っていたグラスだったが、近づく気配に振り返った。
「やあ、君に話が合ってね」
「博士が私にですか?」
そう言って顔を見ると、気のせいか一瞬笑みが見えた気がした。瞬きした次の瞬間、その笑みは消えていたのできっと気のせいだったのだろう。
いやな予感がしながら答えを待っていると、何かごそごそとした後で言った。
「ふぅ、来れて止まったかな。うんうん、さてそれじゃあ本題だ。君の友人、いや元部下の妹くん。彼の容態が芳しくないんだ」
その様子に眉をひそめながらも聞く。
「どういう事ですか?」
「いやねぇ、このままだとまず助からないって事さ」
その言葉に我を忘れそうになる。
「はっ? 助かると言ったじゃ――……」
しかし、その一瞬でこの男が握っている命が頭に浮かんだ。
「いえ、それで条件は何ですか?」
どうにかそれを抑えると聞いた。
「ふふ、君は本当に良いねぇ。うんうん、それで本題だけどね、妹くんを、妹ちゃんを助ける為には他の部分も強くしなきゃいけないんだ。でもね、その為のね……分かるだろう?」
手でお金のマークをして見せるのに、思わず唾吐きそうになるが舌を噛んで抑えた。
「それでは俺の給金を回して下さい」
「それだけでは足らなくてねぇ」
「そうは言っても……」
「ふふ、おや? 君たちも良いのかい?」
そう言った博士に、どういう事かと首を傾げるも振り返って言葉を失った。
「お前らなんでここに」
目を向けると、そこには先ほど出て行った筈のラウル、ミーシャ、ストーンがいた。何処となく虚ろなその顔に眉をひそめるも、ラウルが口を開く。
「そんなの当り前だろうが、この世に必要だからだ」
それに続いてミーシャも言う。
「そうよ、そうすれば良い暮らしが出来るもの」
ストーンも続く。
「ああ、筋肉の探求と強さを求めるにはこれ以上ないからな」
……おかしい。明らかにおかしい。
「お前ら、正気になれ!」
そう言って近づこうとすると、肩を掴まれる。
「何を言っているんだい? 彼らは正気だし、それが彼らの願いだったじゃないか。それに君だって昇進――いや、仲間は大切だろう?」
視界が歪み気が遠くなりかけるも、どうにか耐えた。
その様子を見ていた博士が言った。
「ふむ、君はどうやら心が強いらしいな。でもね、それは今は不要だよ」
その言葉を最後に意識が遠くなった。
◇◆
ようやく大人しくなった男を前に、小さくため息を吐く。
「まったく、心が強いと言うのも考え物だね。制御から外れたら困った事になる。これは、このセイフティ以外にも、何か手段を用意しておいた方が良いかも知れないねぇ……」
そう呟いてから、待機していた内ガタイの良い男に、倒れた男を運ぶように指示した。
「……ふむ? 確か六人班だった筈だけどね、後の一人はどこ行ったのかな?」
情報に合った特徴と照らし合わせるに、今いないのは栗毛をした天然パーマの男だろう。誰か人に探させようかと思った処で、端から出て来る影があった。
「こ、これはどういう状況で――……」
声を上げた男に、隠し持っていたリモコンを押すと静かになった。
「ふむ、やけに感度が良いが、それほど心が弱く"力"に依存していると言う事か?」
呟いてみるも反応が無い。
当然と言えばそうなのだが、ここまで来ると少し味気ない。
「お前も付いて来い」
何となく違和感を感じたものの、素直に従う様子に満足すると歩き始めた。
その背中をじっと見つめる視線の正体も知らぬままに。
閑話と言いつつ長くなってしまいました。次話から本編に戻りますので、よろしくお願いします。普段よりの不断なるご高配に感謝して。




