296話 水中レース【黄】
時間は掛かったがどうにかなった。
底まで壁づたいに潜るのは少し難だったが、潜ってしまえば後は楽だ。壁を蹴り横に距離を稼ぐと、赤の誘導灯を後ろに次のコースへと視線を向ける。
ここはプールの底で、次は上昇した先にある直線コース"黄"の誘導灯だ。
今井さんは、水の流れを利用するように計算された泳ぎをしていたようだが、正巳はその身体的特性でもって突破して来た。普通なら上昇するにも苦労する所なのだろう。
確かに、潜る際は強い流れに流されてしまった。だが、今度は浮力も力を伝える壁もといプールの底もある。多少影響はあるだろうが、まあ問題ないだろう。
水底から見上げる水面は、遠くそれでいて深い青色をしていた。
その水面へ目掛け屈めた足に力を籠めると、次の瞬間力を解放させた。直後感じた負荷を表現するならば、遥か上から降り注ぐ滝の水を一身に受けるイメージが近いだろう。
まるで滝行だった。
数秒の内に水面に達した正巳は、その勢いのまま飛び出した。
「……ほぅ?」
少し驚いたが、ここで確認できたのは丁度良かった。
そこから見えるのは、最後のコースである直線とそこを泳ぐ今井の姿だった。直線と言っても若干カーブしているが、どうやらそれだけでは無いらしい。
普通の直線であれば、既にゴールしていても可笑しくないだろう。それが、ああして入ってまだ十メートルほどの場所を泳いでいるとなれば、その解は容易に想像つく。
……なるほど逆流か。
水面上は波立って見えないが、きっとその下では相当な勢いで水が逆流しているのだろう。そう考えれば、この最後のコースが"黄"なのが説明つく。
再び着水する直前、視界の端にサナの姿が見えた。
気のせいかと思ったが、あの真っ白な髪と赤と黒のワンピース、まず間違いないだろう。お気に入りらしく最近よく着ているのを知ってはいたが、こうしてその識別に役立つとは思わなかった。
何故そこに居るのか少し気にはなったが、大方自分も近くで見たいとでも思ったのだろう。浮かべた疑問に結論を出すと、最後の直線へと意識を向けた。
少し距離は開いているが、なに問題はない。
開いたならば詰めるだけ、幸い最後は力づくでどうにかなりそうだ。緩ませていた体に気合を入れ直すと、ラストスパートをかけて全力で泳ぎ始めた。
そこから上がった水飛沫は、まるでジェット機が発射する際上げる水柱のようだった。
◇◆
まずい、意識が遠のく……。
口の中に残っていた空気が、込み上げて来た咳によって外に吐き出される。
きっと、酸素が足らなくなった事で生じた反応なのだろう。
どうにかしようと手足を動かすも、ただバタバタと動くだけでどうにもならない。
こんな事なら、茶化してやろう等と考えなければ良かった。
先程いたのは、深いエリアから距離があった筈だが……
恐らく、じたばたしている内に流されて来たのだろう。
遠のいて行く水面の光を眺めながら、視界がぼやけ始めるのを感じた。
薄れゆく意識の中、美しい天使が降りて来るのが見えたが……
きっと、本物の天使なのだろう。
透き通るような白い髪を揺らめかせながら近づく天使の姿を最後に、意識が落ちた。
◇◆
やはり気になる。最後のコースに入り、その距離を縮めつつあった正巳だったが、先程見た光景が脳裏に蘇り集中できなくなり始めていた。
先ほどサナは、どうしてあんな場所に居たのだろうか。水の中を覗き込もうとしている様にも見えたが、サナだってそんな場所に正巳達が居ないと言う事ぐらいは、分かっていた筈だ。
……クッ、今回は諦めるか。
折角巻き返せそうではあったが、何かあってからでは取り返しがつかない。杞憂で終わればそれまでだが、そうじゃなかった時の後悔とであれば、比べるまでも無いだろう。
戻ると決めた正巳は、水中に潜ると壁際まで寄り水底を蹴って跳び上がった。
詳しいルールは決めなかったが、水中で競う処を陸へと上がってしまったのだ。これで正巳の失格負けは確定だろう。先を行く影をチラリと見た後で背を向けた。
……さて、サナを見たのは、最初の直線コースの辺りだったと思ったが。その気配を探ると、思いの外近くに居るのを知って驚いた。
「何で赤のコースに?」
理由は分からなかったが、どうやら深さがある場所に居るらしい。
あの場所は特殊な流れがあるので、下に引き込まれている間逆らっても時間をロスする。逆に、流れに逆らわなければ自然と水面まで押し戻されるのだが……。
何かが起こっているのは確かだったが、こういう時こそ冷静にならなくてはいけない。二次被害を防ぐためにも、後を追って飛び込むのは悪手だ。
となると、先ずはこの厄介な流れを止める事からだろう。
きっと、正巳が水から上がったのを見ていたのだろう。遠くで観戦していた中から、こちらへと飛び出して来ていた中にマムもいた。それを確認して口を開いた。
「マム、この水を制御しているシステムを――……!?」
途中まで言った処で、底から上がって来る気配を感じた。
どうやらサナは、流れに身を任せるのが正解だと気が付いたらしい。それは良かったが、気になるのはもう一つの微かに感じる気配だった。
その弱々しい気配から予想するに、誰か子供が落ちてしまったのだろうか。
水面へと見えて来た影がハッキリするにつれ、その予想が違うらしい事が分かって来た。ぼんやりとした影の大きさから察するに、子供ではなく大人もしくはそれに近い年齢……
「つっ、いや嘘だろ……クソッ!」
その正体を理解した正巳は、その姿が水面に現れる前に飛び込んだ。
◇◆
水中でサナから、そのぐったりとした体を引き受けると、プールの淵に手を掛け力づくで体を引き上げた。片腕で、ではあったが大人一人程度であればわけ無かった。
疲弊した様子のサナも、どうにか自力で上がれたらしい。
「……呼吸なし、脈なし、溺水と判断し処置を実行する」
状況から人工呼吸が必要だと判断した正巳は、気道を確保すると鼻をつまみ半開きになった口を覆う様にして塞ぎ、息を吹き込んだ。
ゆっくりと胸元が上がり、口を離すと下がるのが分かる。そのままもう一セット繰り返すと、不意にビクンと反応があり水を吐き出した。
その水を顔を横にして吐き出させると、反応を確認する。
「……呼吸なし、脈なし、処置再開」
水を吐き出したのでどうかと思ったが、ダメだった。
そこで、今度は胸元に手を当てて胸部圧迫を行う事にする。知識にある通り両手を胸元に当てた正巳だったが、その力の入り気味な手を見て不安を覚えた。
「すまない、誰か代わってくれないか?」
今の自分では、力加減を間違えて助ける処か殺してしまう。そう考えての判断だった。しかし、どうやらそもそも"心肺蘇生"の方法を知らない人が大半だったらしい。
どうしようかと思った正巳だったが、そこで手を挙げた人が一人いた。
「私がやります!」
名乗り出て来たのは綾香だった。
「大丈夫なのか?」
知識はあるのかと聞くと、若干緊張気味ながらに頷いて言う。
「はい、保健体育の授業で!」
「……授業か。よし、頼む!」
正直に言えば不安はあったが、それはそれだ。授業で習ったのであれば、その知識としては正巳と大して変わり無いだろう。それに何より悩んでいる暇などない。
場所を空けると、両手を重ねた綾香が座る。
先輩の胸に手を乗せた綾香が息を吐き、それと同時に腕を降ろした。
一定間隔で降ろされる腕と、それに応じるように息を吸ったり吐いたりする口。それを見ていると、意識が戻ったのではないかと錯覚さえする。
その後、ニ十回を過ぎた所で再び、咳き込むような反応と共に水が吐き出された。
明日9時、続きを投稿予定です。




