295話 水中レース【赤】
それまで絡みつくようだった水が周囲に漂い、まるで衣か何かを羽織っているように感じる。何度体験しても不思議なものだ。試しに手を動かしてみると、何の抵抗も無く動かす事が出来た。
恐らく、水の抵抗が少なくなったのが理由だろうが、何となく水を"かき分ける"と言うより"水が避けてくれる"と言う方がしっくりくる。
これは主観的感想に過ぎないが、言いたいのはそれだけ動きやすいと言う事だ。
軽くなった体を確認すると、前方へ意識を集中させる。
……既に三十、いや四十メートルは先にいる。青い誘導灯の先に小さな影が確認できるが、どうやら今井さんは、既に第二ポイントまで近づいているらしかった。
これ以上離されれば致命的だろう。
見えていた影が消えたのを確認すると、一度鼓動を整えた。ここから追い付き追い越すには、初速からある程度のスピードが要る。その為に――
足裏に感じる硬い感触に力を籠めると、両手を体にピタリと付けた。そして、その体がゆっくりと前屈みに倒れ始めた処で、足に籠めていた力を解放した。
直後感じるのは、水が割かれる感覚とその速度。
その瞬間を上から見ていればきっと、突如生まれた波とそれが発生した場所を明確に指す事が出来ただろう。急激な加速は、水中で纏った周囲の水をそのままに衝撃を生み出していた。
あっという間に直線を抜けると、突如深くなった下方へと向きを変える。
方向転換には、体全体を大きくしならせる事で対応した。これ自体は魚の用いる動きを模倣したものだったが、そもそも体の構造からして違うのだ。
これが生身の身体だったら、悲惨な事になっていただろう。丈夫になった体に感謝すると、今度は頭を下に足を大きく動かし始めた。
斜め下に今井の姿が見えるが、底まで行って折り返して来た処なのだろう。真っすぐ上がらず斜めに泳いでいるその姿に少し疑問を覚えるも、考えている時間はない。
そのまま潜って行くと、途中で小さく耳の中で音が鳴った。これは急激に深度が変わった印だ。普通であれば耳ぬきをするが、この体は環境に合わせて勝手に順応する。
赤い誘導灯が見えた所で、ふと横からの力を感じた。普通ではありえないレベルの流れの強さだが、どうやらこの辺りには大きな水の流れがあるらしい。
仕方が無いので、少し斜めに泳ぎながら進もうとする。が、ある程度進むと今度は、巻き上げる流れに呑まれてしまった。巻き上げられた先は、先程潜り始めてた水面近くで……。
なるほど、ここはそう言うエリアらしい。
少し時間ロスにはなるが、一度整理した方が良いだろう。視界の端で最後のコースへと向かう今井の姿を見送りながら、これまでの情報を整理した。
最初が"青"でこの先が"赤"、そして最後が"黄"……はじめ見た時は何も思わなかったが、普通に考えて何の意味も無く、この順でこの色を配置するとは考えにくい。
普通に考えて、最初が"青"ならば次は"黄"で最後が"赤"だろう。単なる、エリアごとに色分けした配色だとも考えられるが、そうだとしても説明の際わざわざ色に意識が向く様に、説明しなくとも良いだろう。――そう考えると、色々仮説が立てられる。
例えば、"色には意味がある"とか"説明したのは公平性を保つ為"とか……。
いや、公平性を保つのであればそこで説明を加えるべきなのだろうが、そこは何か理由があるとして、言わなくても良いのに説明したのはマムの誠実さと考えられる。
となると、この誘導灯の"色"は難易度と考えるのが自然だ。
最初の"青"は直線で次は今いるこの"赤"、深さがあり妨害もある。この先にあるのが"黄"だと考えると、一番の難関はここ"赤"だろう。
よし、これなら……。
既に最後のコースへと消えた今井にチラリと視線をやると、壁際に向かって泳ぎ始めた。
◇◆
「正巳君の様子はどうだい?」
そう聞いた今井は、先程すれ違った時に見た様子を思い出していた。
アレはそう、例えるならば"戦隊モノのヒーロー"だ。変質した髪に青みがかった肌、手足の指の間に張った膜……。どれも、とても精巧に出来た作り物に見えた。
当然、その正体については理解していたが、こうして肉眼で(正確には顔を覆ったマスクの拡大機能でだが)見るのは初めてだった。
その変異した――いや、変異してしまった体は、人体実験の結果生み出された実験の産物。自然に生まれる物ではない。そして同時に、あの体は一種の奇跡だ。
試しに、同じ結果を生み出す方法を検証してみたが、その結果は散々なものだった。全てマムの中の仮想世界で行った実験ではあるが、ゼロから同じ結果を生み出すのは、まず不可能だろう。
そもそも、その激痛と恐怖で精神が死んでしまう。
つまり何が言いたいのかと言うと、この大幅にリードしている中にあっても決して油断は出来ないと言う事だ。確認して知っている以外にも、何か隠れた力が存在する可能性がある。
今井の問いに、マムからの答えがあった。
『そうですね、現在壁に向かっているようですが、これは……少し急いだほうが良いかも知れません。この行動は流石に想定外です』
それに首を傾げながらも頷いた。正巳君の事だ、きっと何か思いついたのだろう。
視線を前に向けると、強くなり始めた流れに逆らって泳ぎ始めた。この最後のコースは、直線だがそれだけでは無い。逆向きの強烈な流れが支配している、"逆流の直線"なのだ。
「くっ、これはアシストレベルでは、少し足らないかも知れないね……」
これ以上は危険だが、このままでは万が一がある。安全の為に付けていた制限機能を解除すると、向かい来る波へと進み始めた。
◇◆
正巳と今井が競っている中、それを見る観衆の中にサナもいた。
本当であれば、自分も参加したい処だったが、流石にそこまで空気が読めない訳では無かった。それに、今の自分が参加したとしても本気の正巳には勝てないだろう。
――勝負するのは、もっと上達してから。
それにしても、さっきはすごかった。途中で止まったと思ったら急に泡が昇り始めて、次の瞬間再スタートした速さは、速いとかそう言うレベルを超えていた。
普通に走るより、ずっと速いのではないだろうか。
今は、水の流れをどうやって解決するのか考えているみたいだけど、きっとそれも直ぐに解決して追い付くに違いない。マムの実況を聞きながら、ふと思い出した。
……そう言えば、さっきの波で審判をしていた人が落ちていたけど、大丈夫なのかな。いや、審判をするくらいだ当然泳げるだろう。
そう思いながらも、何となく気になったサナは人混みの中から抜けると、コースに沿って歩き始めた。レースの結果と映像なら後で見れば良いだろう。
「そうなの、お兄ちゃんと一緒にみるなの!」
そう呟いて歩き始めたサナの後ろには、マムの実況が聞こえていた。
◇◆
『なんと、壁を掴んで無理やり潜っている~! これは誰も予想しなかったでしょう。なんとあの激流を、壁伝いに潜る事で無効にしているぞぉお! おおっと、海底に着いたようだが……』
それは、通信教育よろしくネット上の実況中継から学んだスキルだった。
複数のサンプルを基に学んだスキルだったが、きっとその基礎となる数に偏りがあったのが原因だったのだろう。何処となく、観戦者の闘争心を煽る実況になっていた。
後日その映像を確認した正巳は、まるで競馬みたいだなと感想を持つ事になるのだが、それを聞いたマムは褒められたと勘違いをして、より一層その独特な実況色が濃くなるのだった。
ふと、サナが人々の中から外れるのが見えた。
もしかしたら、ゴールした後で真っ先に労おうとしているのかも知れない。そう考えて、自分もマスターを迎えてパパからご褒美を貰いたい――と、機体の一つを向かわせる事にした。
しかし、気を付けなければならない。
この体は水中仕様になっていない。水底ではまだしも水中では無力だろう。いずれ自分の身体も水中で活動できるようにしたい……そんな事を考えながら、先を行くサナの後を追った。
すみません、プール回終われませんでした!
次話でプール回終わりですm(_ _)m




