294話 水中レース【青】
スタートの合図と同時に、前方へ跳んだ。
施設を壊す訳には行かないので、全力全開でと言う訳では無い。が、十分な力でもって蹴り出された体は、一秒にも満たない瞬間宙を舞っていた。
これはスタートダッシュとしての距離稼ぎだったが……同時にまた、その副産物としての情報も得ていた。それは、背後で棒立ちしたままの今井の姿だった。
単に立っていただけであれば、特に目を留める事も無かっただろう。
しかしその姿は、無視するにしては少々刺激的過ぎた。
滑らかなうろこ状のスーツが更に変形している。変化としては二段階目だったが、その変化は表面上のモノではなく、スーツそのものの変化だった。
首元までしかなかったスーツが、徐々に侵食するようにして頭を覆って行く。目にした時点で既に半分ほど覆われていたが、そこから全部が覆われるまでは一瞬だった。
全身スーツに覆われたその姿はまるで怪人だ。見た目が不気味なのもそうだったが、その性能についてもまた底知れないものを感じた。
その不気味なスーツを目に、ふと何故スタート前に変わっておかなかったのかなと、不思議に思った。前もって変形しておけば、スタートで遅れる事も無かっただろうに。
いや、もしかすると、このちょっとした時間ロスは敢えてであって、こちらを油断させる為の何かの策なのかも知れない。策でなくとも、それだけの自信があっての"ハンデ"である可能性だってある。
当初、精々がダイビングスーツの上位互換程度だと思っていたが、その認識は正した方が良いかも知れない。せめて、終わった後みっともない言い訳をせずに済む程度には、油断せずに。
着水と同時に、その姿が水の向こうに消えるのを見送った。
瞳が水に触れると一瞬視界がぼやけるが、それも直ぐにクリアになる。瞳と水との間に膜が張ったのだろう。時々激痛が走る事もあるが、基本的には本当に便利な体になったと思う。
前に伸ばした両手に力を籠めると、お椀状にした手の平を外側にして、水を左右に分けるように掻いた。すると、グイっと体が前に進むのを感じる。
ひと掻きでロケットの様に飛び出した正巳は、その伸びが止まる前に右肩を斜め後ろへ引くと、ひじを縮めてその手の甲を外に向けて構えた。
それは、さながら鋭い突きを放つようだった。
捻りを加えて右腕を突き出すと、今度は逆の左腕を構えながら右腕を一気に掻いた。掻くと同時に、逆の腕を突き出すのも忘れない。
その動作こそ鋭かったが、動きとしては一般的な"クロール"の動きだ。これには理由があって、その理由と言うのは、初めの三十メートルが直線なのが関係していた。
……なに、難しい事ではない。単にクロールが一番オーソドックスで、一番スピードの出る泳ぎ方だからと言うだけだ。
初めの二十メートル程を水中で進むと、確認の意も含めて水面に浮上した。視界の端で余波が大きな波を作っているのが見えたが、見える限りの位置に今井の姿は無かった。
まだ先行している――そう考えてホッとした正巳だったが、ふと気配を感じて下を見た。
「ブフォッッツ!?」
そこには二つの"目"があった。
その仰向けで泳ぐ"異形"に思わず動揺して吹き出すと、気のせいかその口元が笑った気がする。呆気に取られている正巳を笑うようにして、異形のスーツもとい今井はスーッと音もなく追い越して行った。
甘く見ていた訳では無かったが、どうやら向こうは想像以上だったらしい。最初のポイントに辿り着こうとしている今井を見て、出し惜しみしている場合ではないらしいと知って決断した。
空中へと顔を出し息を大きく吸い込むと、そのまま潜る。
……全力で行く。
吸い込んだ空気を肺に送り込むと、それに圧を加えるように全身へ力を込めた。
体が内側から沸騰し、変わるのが分かる。
……これで全力、直ぐに追いつく!
その周囲には小さな気泡が吹き出し、真っ白な視界へと変わっていた。
◇◆
……上手い事いった。
どうやら、初めのスタートダッシュを決めなかったのを不思議に思ったらしい。人間離れした跳躍を見せた後で、その視線を向けて来るのが分かる。
きっと、この変化を見た後でこう考えるはずだ。
――アレは何かヤバそうだ。
そうなればもうこちらのモノだ。力の入った正巳君は、きっと全力のパフォーマンスで先行しようとする。それ自体が、自分の力を抑える行為だとも知らず……。
そしてそれだけでなく、同時に"隙"も生むだろう。
一つ目の隙は、こちらへ向いた"意識"。
本来意識は、自身と目的地へと向けるべきものだ。しかし、自分が先行していて、背後に気になる何かがあれば意識は後ろへ向く。これが一つ目の隙になる。
そして二つ目の隙は、脳裏に残った"印象"。
一瞬の強烈な印象は、短時間ではあるが直ぐに取り出される仮の記憶領域に入る。そしてその記憶された印象をうまく利用すれば、少しの動揺を引き出す事ぐらいは容易に出来るだろう。
これが上手くハマれば、呆気に取られている間に"青"、"赤"と回り、どうにか"黄"を越えて逃げ切れるはずだ。正巳君であれば、きっと途中で"初めから選択を間違えていた"と気付くだろう。
が、それでもこのスーツであれば……。
視界が完全にマスクに覆われたのを確認し、静かに水に入った。
……視界良好、呼吸問題なし、動き難さも感じない。
試しに手足を動かしてみると、その始めにスーツの補助が働くのが分かった。このスーツは、筋肉の動きと信号を読み取って、その動きを補助するように設計してある。
テストは済ませていたので分かってはいたが、こうして設計通り動いているのを確認できると、やはり嬉しいものがある。少しばかりその場で確認していると、マムの声が聞こえて来た。
『マスター、パパは既に二十メートル地点まで進んでいます。このままでは――』
きっと、"正巳君へのお願いは二人で山分けだよ"と提案したのが効いたのだろう。今回手を組んていたマムが、心配そうに聞いて来る。
それに対して頷くと、「分かってるさ」と返して目標を定めた。
――目標、前方を行く男性の真下。
すると、先程とは違い先に制御補助が動くのを感じる。これは、微弱な信号を応用させた技術だが、上手い事実用化できているみたいだ。
そのままなぞるように動かせば、一番効率的で流れに沿った移動が出来るはずだ。アシスト通りに体を動かすと、何の抵抗も無く手が動き、足が動き、身体が運ばれた。
そのまま夢中になって動かすと、気が付いた時には目的の場所まで着いていた。
――正巳君の真下。
こう言ってはアレだが、正巳君は良い体をしている。引き締まった体に程よく張った筋肉。初めて会った頃と比べると、随分とがっしりしたなと思う。
その体に魅入っていた今井は、不意に下を見た正巳と視線が合ったのを感じて赤面した。どうやら、向こうは驚いたらしかったが今井にとって、そんな処では無かった。
……恥ずかしい!
その恥ずかしさを紛らわす為、逃げるようにアシストをなぞった。
あっという間に距離を離した今井だったが、その鼓動の高鳴りを中々抑える事が出来ず、後方――先程正巳に追いついた辺りで発生した"気泡の塊"には、気付かなかった。
◇◆
直線の"青"を過ぎた後に待つのは、深海の"赤"だった。
深さ十メートル、建物にして約三階分の深さのそこは、複数の流れの渦巻く海竜の住処だった。この海竜もとい海流を制する事が出来なければ、その先に進む事すらできない。
普通であれば命がけだったが、それはこの二人にとっては関係のない話だった。
と言うのも、方や水中でも呼吸の出来るスーツを着ており、もう方や生体機能として水中での呼吸を可能に変態していた。
その競争の様子は、映像を通して人々の見守る処だった。
一部、極秘情報を含む部分に関しては、リアルタイムで映像加工が施されてはいたが……それにしても、人々を泳ぐ事へと駆り立てるには十分すぎる内容であり、刺激だった。
その様子を見ながら、その発案者であり計画者であったマムは、満面の笑みを浮かべていた。
「ふふ、これでパパのサポートをしながらマスターの願いも叶えて、ついでにマムのお願いまで聞いて貰えます。流石にパパでも、あの海流を越えるには時間が掛かるでしょうし……何なら、飾りの"審判"は要らなかったかもですね」
実は、その飾りの審判にもいざと言う時の役割があったのだが、それ自体この計画の穴を埋める為のものでしかなかった。
それは、どうしても勝負に勝ち"お願い"を聞いて貰いたかったマムの策で、本当の最終手段だった。そもそも、審判とは名ばかりで"違反"と判断する基準すら伝えていないのだ。
審判も何も、何も判断のしようがないだろう。
プールの淵に立って観戦している審判と、その楽しそうな表情を見ていたマムだったが、「まぁ彼らにとっても特等席での見学ですからね」と呟くと、再びその焦点を戻した。
そこには、気泡を体から発した後の正巳の姿があった。
一見、何の変わりもないかのような姿だったが……その指と指、そしてその筋肉の性質には大きな変化が起きていた。指の間に張られた膜を広げた正巳は、水を掴むとそのバネのような筋肉で一気に掻いた。
次話でプールの話は終わりです。




