293話 魚化の服(フィッシュスーツ)
屋内プールは、三週間後にはほぼ完成していた。
マムの話によると、残るは"安全装置"の調整くらいらしい。つまり、実際普通にプールとして使うだけ(深い場所を利用しない)であれば、問題なく利用できる状態だった。
これに伴い、全体での水泳教室を前にした補佐メンバー対象の事前講習が行なわれる事になった。補助する側が水に慣れていなくては、話にならないと言う理由からだ。
「――それでは先ず、水に慣れる処から始めましょう」
声を上げ指揮を執るのはユミルだった。初め、正巳が行なおうと思っていたのだが……緊張するとか、出来れば一緒に受けて欲しいとか言った声があり、仕方なく引き下がったのだ。
因みに、他の泳げるメンバー(主に傭兵出身者でハク爺含めた面々)は、交代で指導補助に当たる事になっていた。ほぼ全員が水陸空対応の傭兵団だったが、それにも一部の例外はあったらしい。
先日、ハク爺を通して水泳指導の協力をお願いした処、その日の夕方ごろサクヤの訪問があったのだ。話を聞くに「水の中での体の使い方が分からない」と言う事だった。
普段とは違った、少しばかり恥ずかしそうな様子で「他の人には言わないで欲しい」と言うサクヤに、思わず分かったと頷いた正巳だった。
ここには来ていないが、この講習が終わった後で秘密の特訓をする事になっている。厳しくして欲しいとの話だったので、ちゃんとその要望に沿った厳しいメニューを作っておいた。
周囲で水中に顔を付け始めた子供達を見ながら、その合間を縫うようにして泳ぐサナに苦笑した。一緒に付いて来ると言うものだから連れて来たが、やはり少し退屈らしい。
「あの、お兄さん水中での息継ぎはどうしたら良いんですか?」
よそ見をしていた正巳だったが、手を引く綾香にそうだったと謝る。
「悪い、そうだったな。ええと、水中での呼吸か……そうだな。こう一秒止めて小さく二秒吐いて、また一秒止めてを繰り返すイメージだな。それで、空気が足らなくなったら補給する感じだ」
それになるほどと頷いた綾香は、早速息を吸い込んで試していた。その横では、ミューが首を傾げていたので「顔は水に付けられるか?」と聞くと、少し困った様子で首を振っていた。
どうやら、ミューは少し水に苦手意識があるみたいだ。
「それじゃあ一緒に試してみるか。ほら、手を握って……」
言いながら両の掌を差し出すと、目をキョロキョロとさせた後でキュッと握っていた。それを確認すると、カウントしながら水の中に入った。
水に入った後で目を開けると、いつも通りの視界がある。
揺らめく光と一枚膜を通したような世界。その前には、目をギュッと瞑ったミューがいた。空気を精いっぱい吸い込んだのであろう頬は、ぷくっと膨らんでいて可愛い。
手を放してその頬をツンツンと突きたくなったが、それを抑えると握った手を少し離して握る"合図"を送った。すると、それに反応して恐る恐る目を開くのが見えた。
初めぼんやりしていたのだろうが、じきに焦点があったのだろう。こちらを見て目を大きくして喜んだ後で、キョロキョロと周囲を見回していた。
きっと、これが初めて見る水中世界の景色なのだろう。そのまま好きなようにさせていたが、突如慌てたミューが勢いよく水面に上がった。どうやら、息が持たなかったらしい。
「大丈夫か?」
せき込むミューの背を軽く叩きながら落ち着くのを待つと、呼吸を落ち着かせた後でキラキラとした目を向けて来て言った。
「凄いです、ミュー水の中で目を開けられました!」
それに笑いながら返す。
「そうだな、次はちゃんと呼吸もしないとな」
すると、それに「そうすればもっと長い時間水の中に居られますか?」と聞いて来たので、頷いておいた。その様子を隣で見ていたのだろう。負けていられないと綾香が言った。
「お兄さん、次はどうすれば前に進むかを教えて下さい!」
それに、先ずは息継ぎをマスターしたらだと落ち着かせると、水中でパニックにならない為、必要な事を交えながら教える事にした。
その後、三十分程度練習した後で何やらざわざわとし始めた。
いったい何があったのかと思ったが、どうやらその原因は、全身黒いタイツのような物を着て現れた今井さんにあるらしかった。近づくと、こちらに気付いた今井さんが歩いて来た。
「やあ、正巳君一つ勝負をしないかい?」
何事かと思ったが、どうやらその"黒タイツ"もとい"新型ナノスーツ"の性能テストをしたいらしかった。軽く確認をすると、どうやらこのスーツは内蔵された極小装置で身体の操作サポートと、呼吸補助、水温に応じた調温機能などが付いているらしい。
エネルギーをどうしているのかと思ったが、どうやらバッテリーを付けている訳では無いらしい。
「水中で少しでも泳げば、その水流の移動エネルギーを使って自己発電するんだ。故障しない限り使えるはずだからね、凄くエコ設計なのさ!」
最早、説明を聞いてもよく分からない。
ここで断っても、結局何処かで応じる事になるのだろう。これまでの経験から諦める事を学んでいた正巳は、ため息を吐きながらも頷いた。
「分かりました。ただ、何があっても無茶だけはしないで下さいね」
正巳の答えに、周囲の子共や大人含めた面々が歓声を上げた。
こうして、何故か今井製のマシンとの対決が決まっていた訳だったが、その歓声が流石に聞こえたのか、自由に泳ぎ回っていたサナがやって来た。
チラリと見ていたが、サナの泳ぎは最早誰も教える必要のない域にあった。
それこそ、密かに練習していたか前世は魚だったのではと疑いたくなるレベルだったが、その泳ぎは独得過ぎてとても真似できるような類のものでは無かった。
どうしたのかと聞いて来るサナに事の次第を伝えると、面白そうだと目を輝かせていた。
「サナも参加するなの?」
こちらから求めた訳でもないのに、自分も参加するのかと聞いて来る。これはサナなりの"参加させろアピール"だったが、流石にそれを許す事は出来なかった。
何しろ、このプールは今いる浅瀬はまだしも、深い部分の"安全装置"がまだ出来ていない。万が一の時、それに対応出来かつ責任を取れる者でなくてはいけない。
どう言ったものかと思ったが、役割に加えて一つ約束をする事で我慢して貰う事にした。
「サナには、いざと言う時の救助役をして欲しいんだ。それと、もしこの重要な任務を受けてくれるなら、その報酬として今井さんが着るこのスーツもサナ用に作って貰う。それでどうだ?」
すると、それに苦笑した今井さんも頷いた。
「そうだねぇ、まぁ子供サイズの分も試作しないとと思っていたからね」
予想通り乗って来た。それを聞いていたサナは、少し考えた後で頷いた。
「分かったなの!」
納得してくれたらしい。
これで一先ず、余計な心配は要らないだろう。
◇◆
その後、コースを確認した後で勝負が始まろうとしていた。
水から上がった一同とその上方には、映し出されたマップ映像があった。どうやら、この浅瀬エリアから始まって深いエリアを回る"一周コース"らしい。
「それぞれコーナーとなる部分には、予め三つの目印となる灯りを設置しておいたんだ。コース毎に分かれているから、直ぐに分かるとは思うけど……"青"、"赤"、"黄"の順で回って来るのが基本だね。その方法は、設備を壊す以外なら何でもありで行くよ」
それに頷く。
「ええ、問題ありません。青、赤、黄ですね」
マップを確認しながら言うと、少し溜めた後で今井が言った。
「それでね、折角だからね、そのちょっとした提案があってだね……」
歯切れ悪く口ごもる今井にどうしたのかと思ったが、何となく察しがいった。言い出し難いらしい様子の今井に代わり、一息ついた正巳は口を開くと言った。
「じゃあ、この勝負で勝った方が負けた方に、何か好きな事をお願いするって事でどうでしょうか。折角の勝負ですし、何か張り合うものが無いと盛り上がりませんからね」
すると、それに少しはにかんだ今井が頷いた。
「そうだね、正巳君がそう言うならそうしようか」
そうして深呼吸した今井が、既に水中にいた正巳に続いて降りて来た。
その様子を何の気なしに見ていた正巳だったが、そのスーツの表面がゾワリと蠢いた瞬間を見逃さなかった。それは、変化と呼ぶには少々生物的すぎた。
まるで、それ自体に意思でもあるかのような印象さえ受ける。
それまで何でもないツルっとしていたその表面が、水に入った瞬間変わった。その形は何処かで見た事があり――そう、それは魚の鱗を思わせる、ひし形をした体表への"変形"だった。
「……なるほど、これは面白くなりそうだ」
その呟きは意識外のごく自然な呟きだった。
横でそれを聞いていた今井は、その自信満々な様子に一瞬不安げな表情を浮かべたが、直ぐに頭を振ると対抗するように呟いた。
「大丈夫、これは僕とマムの技術の結晶。いくら正巳君でも、魚より早くなんて泳げない筈さ」
その後、審判に選ばれた数名が配置に着いたのを確認して、マムがその手を挙げた。
「位置について、よーい……」
配置に着いた審判の中には、やじ馬に来たハク爺やアキラ、ジロウが含まれていた。
その数名の中には自ら手を挙げた上原もいた訳だが、きっとその後起こる事を知っていれば決してこの選択はしなかっただろう。
よく通る声でもって、競争の火ぶたが切られた。
深海まで泳いで行けるスーツが欲しい……。




