252話 大人の飲み物
「それで、お兄さんはどうしたんですか?」
チラチラと視線を向けながら言う綾香は、まるで何か秘密話をしているかのようだ。その様子に口を開きかけるも、男のほうが早かった。
懐かしむように目を細めた初老の男は、頷くと言った。
「うん。正巳はね、自分の分まであげちゃったんだ。きっと、子猫がお腹を空かせてると思ったんだろうね……ふふ、折角のおやつだったのにね」
子猫を拾って来た時の話をしているらしい。はっきりとは思い出せないが、何となくそんな事もあった気がする。
思い出そうとして頭を捻ってみたが、結局頭痛がして来ただけだったので止めておいた。
「何の話をと思ったら、昔話をしてたのか。それにお前達、ここ最近ずっとこの部屋来てると思ったら……こんな事を聞いてたのか?」
そこに居たのは、綾香にユミル、ミューと今井さんだった。
ユミルは綾香が居る所何処にでも付いて行くのだから、ここにいる理由は単純だ。ミューに関しても前もって、しばらくお世話をさせて欲しいと相談を受けていたし、それを承諾してもいた。
問題なのは――
「あら、何かいけない事でもあるんですか~私達に聞かれちゃ恥ずかしい話とかですか~?」
口元をニヤケさせて言う綾香。
「ふふ、正巳君も男の子だよ。それはきっと、あんな事やこんな事で恥ずかしい話が沢山あるに違いないさ! それに、正巳君の幼少期を知っているのはお父様だけだからね!」
今井さんに至っては、含み笑いから始め、段々と高笑いになりつつある。
二人がここに居るのは、どうやら完全な"趣味"らしい。何と言ったものかと思ったが、すり寄って来たシーズに首を傾げた。
「どうした?」
ボス吉はともかく、シーズがすり寄って来るのはそうある事ではない。どうしたのかと思いながらも、軽く毛並みを撫でてやった。
その様子を見ていたのだろう。
正巳の育ての父にして唯一"親父"と呼ぶ男は、普通には聞き取れないほど小さく言った。それを聞き取れたのは、正巳以外にはマム位しか居なかっただろうが――
「ふむ、どうやら本当に懐いているみたいだね……」
その呟きには驚きが込められていた。
久し振りの再会をした時も、後について来た二匹を見て『飼っているのか、もう長いのか?』と驚いていた。
あれから三か月以上経った今、親父が何故改めて驚いているのかは分からない――が、もしかしたら記憶にないだけで、相当に酷い飼い方だったのかも知れない。
それこそ、懐かれもしないほどに……。
(……確認するのは止めておこう)
心の中で呟いた正巳は、気を取り直すと言った。
「それじゃあ、朝食にしようか」
「するなの!」
元気に返事をしたサナに続き、頷いたメンバーだったが、軽いメニューで済ませるメンバーと、しっかり食べるメンバーではっきり分かれていた。
運ばれて来た朝食の内、一番積み上げられた朝食を見た綾香が言う。
「あら、今日もハンバーガー?」
「そうなの、今日のはすぺしゃる全部乗せお肉祭りなの!」
若干引いている綾香の横で、唾を飲み込んだユミルが言う。
「ふふ、美味しそうですね」
「ユミル君は朝からステーキかい?」
今井さんが頬を引きつらせながら言う。きっと、夜更かし気味で胃の強くない今井さんにとって、朝からステーキと言うのは驚きでしかないのだろう。
「はい、"肉は力なり"ですので。ミューちゃんもお肉ですよね?」
「はい。あの、今朝は私もお肉に……」
「ああ、いや働く為には沢山食べないといけないからね! うん、良い事だよ!」
申し訳なさそうなミューに、慌てた今井さんがフォローしている。そんな様子を眺めながら、自分たちの朝ご飯を見て苦笑した。
「まぁ、其々好きな物が食べられる内は、自由にして下さい」
正巳がそう言うと、綾香が視線を向けて言った。
「おじ様は、紅茶だけでよろしいのですか?」
おじ様――正巳の父の事を綾香は"おじ様"と呼ぶ、当初"征士さん"と呼んでいたのだが、いつの間にかこの呼び方に定着していた。
綾香の言葉に微笑んだ征士は、頷くと言った。
「うん、私は朝はこれだけなんだ。癖みたいなものかな」
「クセですか?」
会話を聞きながら、昔言っていた事を思い出した。
「朝たくさん食べると、眠くなって講義に差し障る――だったか?」
「そうそう、それがすっかり癖になっちゃってね」
苦笑する父を見ながら、変わっていないんだなと少し嬉しくなった。
その後、談笑しながら朝食を終えた一同だったが……正巳はいつも通り、フレークに牛乳をかけたもので、綾香はイチゴジャムを乗せたヨーグルト。今井さんはフレンチトーストと珈琲だった。
朝食を食べ終えたのを確認すると、言った。
「大人の飲み物、飲むか?」
シーズを掴まえたサナは、その腕にギュッとモフモフを抱えながら頷いた。
「のむなの!」
「よし、準備してくるな。それと、少し力抑えてやれよ?」
サナが頷いたのを確認すると、席を立って歩き始めた。
「それにしても、サクヤちゃん残念だったですね」
「そうだね。ここの処、爺のやる気が凄い事になっているからねぇ~ほら、ユミル君も誘われていたじゃないか」
「はい、午後少しばかり顔を出すことになっています」
「あら、それじゃあ私は見学させてもらおうかしら」
「ふふふ、楽しそうじゃないか。それじゃあ僕はマムの最新躯体を――」
後ろに聞こえる会話は賑やかなものだったが、この後の事を想像した正巳は少し頭が痛くなった。恐らく、午後の何処かでサクヤによる強襲を受ける事になるのだろう……。
「まぁ、俺にはマムが付いてるからな」
返事を求めたわけではなかったが、返ってきた言葉に口元を緩めた。
「はい、マムがついています!」
マムの鼻歌を聞きながら、三人分のコーヒーを淹れる。見ると、マムが二人分の紅茶を淹れていたが、これは父征士と綾香の分だろう。
コーヒーを淹れている間に、三人分のミルクを温めると、コーヒーひとり分を二つのコップに分けた其々にミルクを注いだ。これで、ホットミルクコーヒー通称"大人の飲み物"の完成だ。
これで、二人分のコーヒーと二人分の"大人の飲み物"、それに一人と一匹の為のホットミルクの出来上がりだ。紅茶は、其々ダージリンとアッサムにしたらしい。
マムが用意してくれたトレーに乗せると、食後のドリンクを運んだ。
「はい、親父と綾香は紅茶。今井さんと俺はコーヒーで、ユミルはホットミルク。ほら、サナとミューには"大人の飲み物"だぞ~」
言いながら置いて行く。ユミルは、コーヒーでも紅茶でも飲めるらしいのだが、マム情報によるとその何方よりも"ホットミルク"が好きだという事だった。
「大人なの!」
「あの、お兄さん……ありがとうございます」
嬉しそうなサナとミューを見て頬を緩ませると、こちらを見上げて待つ二匹にも入れてやった。
ボス吉とシーズに用意したのは、ホットミルクだったが、其々の器に半分づつ入れると、温めていないミルクを同じだけ注いでやった。これで、飲むのに丁度よい温度になるだろう。
「あ、シーズ……お前相変わらず飲むのは下手だよな……」
ぴちゃぴちゃと音を立てて飲むシーズは、その半分以上を顔にかけていた。拭く物を持って来ようかとも思ったが、隣にいたボス吉が舐めて奇麗にしているのを見て、やめた。
二匹の事を見ながら座りなおすと、一息ついて言った。
「やっと一息付けるな。独立宣言して以降、色々あったが……色々ありすぎて昨日の事のような気もするし、ずっと前の事だった気もする。何にしても、一先ず区切りは付いたかな」
それは、激動の半年を振り返っての言葉だったが……
頷いた今井は、何を考えたのか冗談めかして言った。
「確かに大変だったけど、まだ始まりに過ぎなかったりしてね」
妙に説得力のある言葉に、若干空気が重くなった。恐らく、今井さんは自身で感じる予感を言葉にしただけなのだろう。実際、正巳自身これで終わるとは思っていない。
そんな、少しばかり重い空気となった中。変わらず、ゆったりと器を揺らし、華やかな香りを楽しんでいた征士が言った。
「ここの処、こちらで担当した人達は、その殆どが安定化して来たんだ。それでなんだけど、私が来てからの事を掻い摘んで教えてくれるかな?」
その言葉を聞いた正巳は、目を大きくすると呟いた。
「親父、それって……」
すると、正巳の表情を見たのだろう。頷くと言った。
「ああ、私も共に骨を埋める事にしたよ」
正巳は、父と再会した際『ここには、要請があって"一人の専門家"として来ている。それ以降の事は、自分の目で見て判断したい』――と言われていた。
共に居ると決めたという事は、少なくとも親父にとって、その価値を認めたという事になるだろう。ここまで、正しいかも分からない道を来たが……
「そうか」
無意識の内にはにかんでいた正巳は、周囲からの生暖かい視線を受け、口を開いた。それは、再開した日言おうとした言葉だったが――
息を短く吸い込むと言った。
「親父の面倒は、俺が死ぬまで見るよ」
新年、明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします!




