108話 ユミル [決断]
「申し訳ありません」
滑走路の傍らで、正巳達の乗る"機影"を見送る影が有った。その後ろ姿は何処か寂しげで、静かに呟いた一言もその心境を表したものだった。
頭を下げた女は、少しの間そのままでいたが、やがて顔を上げると背を向けた。
「仇も危険もすべて私が……」
二度目の呟きは、もはや憂う事など残していない、覚悟の籠った呟きだった。通常、開く事の無いはずのゲートを通った女は、動かない片腕をそのままに足早に歩き始めた。
向かう先には、大型の車両が停まっていた。
それに乗り込んだ女は、早速ハンドルを切ると走り始めた。
◇◆
揺れる車両の中、昨日の事を思い出していた。
無事に正巳と再会できた時の事、それと引き換えに多くの仲間を失った事。
そして、帰還する際に知らされた情報の事。
仲間を失った事は、既に受け止めていた。
……仲間たちは、正巳を守る為に死んで行った。
通常、命を懸けて任務を遂行する事は稀であり、基本的に何方かを選択しなくてはいけない場合は、依頼主では無く個々の命を優先するように。と云うのが組織の掟だ。
しかし、この掟にも例外がある。
幾つかの条件は有るが、今回はその中の一つに当てはまっていた。端的に言って、任務が『自身の命よりも重い』と判断した場合だ。
勿論、その判断基準は個々に委ねられている。
ホテルの呼び名は様々だが、"世界大使館"と言うのはその中でも有名だろう。この部分だけを聞くと、あたかも一歩社会と距離を取っているように感じるかも知れない。
しかしそうではない。ホテルとしての目的があるのだ。その目的とは『世界のバランスを保つ事で、より多くの安静を得る事』だ。
より多くの幸福を目指しているのがこの"ホテル・エル・セレト"なのだ。幸福とは、それぞれの国や文化において定義や感じ方が異なる。
その為、基本的には全ての国と中立の立場にいる事になるのだ。
そして、ホテルの職員にとっての『より多くの幸福』は、其々の判断に任されてはいるが、仮にホテルが判断を下した時は絶対だ。もし決定された事に従えないのであれば、ホテルを去る事になる。
――そして、ユミルはどうしてもホテルの決定に従う事が出来なかった。
ホテルの決定は、『仲間の仇討ちの禁止』と『神楽一行への自発的な支援の禁止』だった。もし、これが前者のみであれば、ユミルも呑む事が出来ただろう。
しかし、どうしても後者を受け入れる事は出来なかった。
仲間たちが命を懸けたのは、正巳に"その価値が有る"と信じたからだ。それが、ここで正巳が死にでもすれば全てが無駄になる。
仲間の死を無駄にしない為に、正巳達を死なせる訳には行かなかった。
それに、仲間の仇を討つのは絶対に譲れない誓いだった。
結局急いで出て来る事になった訳だが……本当であれば、もう少し余裕を持って出発したかった。それこそ、もう少し休めば少しは腕が回復したかもしれない。
疲れだって十分に取れていない。
が、それも仕方がない事だ。いろいろと猶予のない状況だったのだ。それは、孤児院の跡地で火葬した後、車両に乗り込もうとした時だった。
何の前触れもなく、装備していたレシーバーに連絡が入った。
『神楽一行の命が危ない』
怪しい事この上なかったが、不思議と冷静だった。
――確認した上で判断は下そう。
『根拠となる情報』
『命を狙う者の正体』
『残された時間』
それら聞き返した問いに対して、答えは明快だった。
『過去の事件との関連性』
『組織と実行犯』
『初めの猶予は一週間』
全ての答えが納得するには十分だった。
問題なのは、猶予が一週間しかないと言う事。つまり、今すぐ出て対処する必要があると言う事だった。対処する必要があると言っても、これを行う事自体にハードルがあった。
それは、上からの命令に反すると言う事だった。
従わないと言う行動はそのまま処分へ直結する。
悩みはしたが、すぐに答えは出た。
――ホテルを辞める。
そもそもホテルを辞めてしまえば、この縛りから解放される。解放されれば、表向きは何をしようと問題ないと言う事になる。ただ、それでは辞めれば万事良しかと言うとそうでもない。
ホテルを辞めた瞬間から、ホテルの権威による保護の一切が無くなるのだ。
仮にホテルを辞めれば、その時点で特殊権威『ホテル内においてその従業員は全ての面で保護される。もし、ホテル内において、その生命が脅かされる事態になった場合、全能力を持ってそれに対処する』という、守りの外に出てしまう事になる。
ホテルの"力"は、単純な武力だけでなく様々な外交的な力も含んでいる。
単純な武力で言えば"核"の傘も挙がるが、それにも増して列強諸国……アメリカ、ロシア、中国と友好な協力関係にある面の方がより力としては大きいだろう。
もし、ホテルに手を出せば、列強諸国をも相手取らなくてはならなくなるのだ。
少なくとも、抑止力としては十分な効力がある。
だからこそ、ホテル内は"安全"なのだ。そして、そんな"安全"なホテルだったが、誰と名乗らぬ者からの情報を受けた後、ユミルは『辞表』を出していた。
これで、何かあっても抑止力の恩恵を受ける事が出来ない事になる。
ここまでして偽の情報だったら大変だが、その点は心配していなかった。情報提供者は名乗りはしなかったが、その正体についてはほぼ確信があった。
少なくとも、軍用車に外部からハッキング出来る存在はそう多くない。
そして、ここまでに関わる情報から導き出された"提供主"について言えるのは、「決して正巳に不利益となる事はしない」と言う事だった。
そこに自分の様な部外者は含まれておらず、使い捨てに過ぎないかも知れない。しかし、目的が一致している以上これ以上ない信頼できる相手だろう。
――そんな事を思い出しながら、ユミルは予め"退職金"代わりに譲って貰った少し変わった車両を走らせていた。
勿論向かう先は、情報にあった場所『九州地方』である。
向かう先に"死の気配"を感じ、体に力が入るのを覚えていたが……ふと視線を逸らした時、そこに流れていた動画に心なしか頬を緩めていた。
その映像は、"情報"と共に送られたものだったが、そこには楽しそうにして尻尾を撫でている正巳の姿が映し出されていた。
「きっと大丈夫」
小さく呟いたユミルは、自動走行する車両の中、長いブロンドの髪を揺らしていた。そこには、かつて"孤独"だった少女の面影はなかった。




