庭物語 -グレイト・ディクスター Great Dixter
9月も下旬になるとイギリスの太陽は急に柔らかくなります。黄昏時は青い花がしっとりと深く映えるのですが、冬に向かう淋しさを拭い去ることができません。意欲に燃えて夏季休暇に英国入りした外国人留学生たちが、日照時間の縮まるにつれ鬱症状に悩まされるのも肯けます。日本の5月病ならぬイギリスの10月病。
自宅の庭で上品なクレマチスや風にゆれるアスターを愛でていた千晴は突然に思い立ちました。
「色彩療法が必要だわ。ディクスターに行かなくちゃ」
グレイト・ディクスターは「冒険心旺盛なガーデナー」と自称していた、亡きクリストファー・ロイド卿の造った庭です。色の不調和を恐れないと豪語していました。それも温室で大量生産されたハデで下品な花壇苗を使ってではなく、球根類、低木類、宿根草、つる性植物、カラー・リーフ、全てを駆使して織り上げたタペストリーなのです。
どの季節にいっても見どころがちゃんと用意してあって、でも晩秋は他の庭園が冬支度に入るので、ここの明るい色彩に特に惹きつけられます。赤、オレンジ、黄色の花々が秋の光を増幅して放射する、遠赤外線のずっしりとした温もり。それを千晴は勝手に色彩浴と名づけているのです。
翌日2時、開園と同時に入場して、決して広くない園内を飽きることなくぐるぐる歩き回りました。20世紀の初めにアーツ・アンド・クラフツ・ムーブメントの有名建築士、エドウィン・ラッチェンス卿が増築したかわいい田舎家と家をとりまく庭の骨格。そこへロイド卿が生涯をかけて選りすぐった植物たちが斬新な組合せで植え付けられています。
卿亡き今もヘッド・ガーデナーのファーガスが園芸の冒険を続けていて、眺めは決して古びません。
ロイド卿が84歳でなくなる前、千晴はボーダー花壇を散歩する彼の後ろ姿を見たことがあります。60m近くあるでしょうか、長く反物のように続く花壇の前のまっすぐの小道を、杖をつき、少し左に傾ぎながらゆっくりと足を運んでおられました。
そのときは春でチューリップが花壇の中に小川のような流れを作り、今は黄金のルドベキアとピンクのカンナが眩しいくらいです。
千晴はロイド卿の姿を今の景色に再現しようとたたずんで、花壇を見通しました。
そこへどこから来たのか、背の高い中年男性が遠くの視界に現れました。ボーダー花壇を横切って、生垣の向こうの花木園に行こうとしています。大きなカメラを抱えた写真マニアでない限り、男性ひとりの庭園巡りは珍しいと言わねばなりません。その姿の何かが千晴の記憶にひっかかりました。
「ドム、ドムじゃないの? 園芸学校で同級だった。黒かった髪も灰色がかって、肉付きもよくなったようだけど、長い指で接木ナイフを器用に扱っていた優等生のドミニクでは? もしかして帰ろうとしている? 花木園を抜けて出口に向かってる? 追いかけなくちゃ、追いかけて確かめよう。声はかけなくてもいい。こっちから行けば中庭のモザイクを抜けられる、サンクンガーデンを過ぎれば出口へ向かう野草園で出会える!」
千晴はボーダー花壇を逆方向に駆け出しました。モザイクガーデンに入るレンガのアーチの下にはラッチェンスが好んで使った円形の階段があります。それを1、2、3と駆け上がると、陰から出てきた人にぶつかりかけました。
「きゃっ」、「失礼」
顔をあげるとそれは確かめようとした件の男性でした。そして淡いブラウンの瞳は紛れもない、ドミニクのものです。
荒くたいガーデナーの卵たちの間で、教師の質問に対して「アイ・ベグ・ユア・パードン?」と丁寧に訊き返すのは彼だけでした。
「千晴なの?」
「ドムだよね?」
「よかった、あっちの苗木売り場のほうへ行ってしまったかと思った」
「出口へ向かったんだと思ったわ」
「どこかに座ろう。サンクンガーデンのベンチがいいいかな」
サンクンガーデンは花壇や池を見下ろすように造る庭なので、真ん中の八角形の池のほとりのベンチに座ると色とりどりの花々がふたりをぐるりと取り囲んでいるかのようです。揃って池を眺めながら、自然、視線はうつむき加減です。
「ケント州でガーデナーになったと元担任には聞いていたんだ。出会うとは思っていなかったけど」
「うん、去年ね、ガーデナー辞めたの。肉体労働がつらくなってね。今は日本の読者向けに庭園ガイドを書いているの」
「そりゃいい」
「あなたは?」
「オレはナーセリーをやってる。最初は生垣用の苗木からスタートしたんだが、今は果樹の売上がすごくて」
「家庭菜園ブームだものね、ちょっと土地があればリンゴも木苺も植えたいわよね」
「ああ、お蔭様でビジネスは順調にいってる。イギリス特有のリンゴの古い品種を欲しがる顧客が結構いてね、それで、ブログデール果樹園のナショナル・コレクションを見に来たんだ」
「ああ、あそこに行けば果樹はなんでも揃うわ。近くに住んでるとありがたみがないっていうか、ゆっくり訪れたこともないけど」
「よかったよ。晩生のリンゴがまだたわわに実ってて、きれいだった」
「そうだ、園芸学校にくる前、シェフだったでしょ、今もお料理してる?」
「変なこと憶えてるんだな。アップルパイや、サマープディングのオレのレシピ、結構人気があるんだぜ。苗木にパンフレットつけたりしてサービスしてるよ」
「そうよね。ただブームだから成功してるわけじゃないんだ。女性客に人気があるんでしょ」
「そんなおちゃらけ言えるようになったんだな。千晴のことでオレも憶えてることがあるよ。小さい庭に適した庭木を5つ提案しろっていうグループ課題でね、珍しく同じグループだったんだ。千晴がハナカイドウを挙げてオレは病虫害が多過ぎると反対した」
「そんなことがあったかしら?」
「千晴が何と言ったと思う? まだ英語も今ほど達者でなくて、発言には引っ込み思案だった君がだよ」
「憶えてないってば」
「『リンゴだってモモだって、チェリーだってバラ科よ、バラ科である限り似たような病虫害は避けられないわ。それともバラ科無しに庭が造れると思う?』って言ったんだ。と言ったんだとオレは理解したと言ったほうが正しいかな」
「あ、言ったかもしれない。ずっとそう思ってたもの。バラもリンゴも好きだから」
「やっぱり。ナーセリーで薬剤散布をしなきゃならないときに、よく思い出すんだ。無農薬でいきたいけれど、売り物の苗木となると、どうしても使わなくちゃならないこともあって」
「私を言い訳に使ってるのね」
「でもブログデールでまた知恵を仕入れてきたよ。無農薬にもう一歩近づける」
「よかった。私はもうプロではないから、病虫害も自然の一部、一緒に育てましょっていうアプローチだから」
「それがいい。とにかく一度、オレのナーセリー見に来てくれよ。今日これからオレの車に乗ってきてくれても構わない」
「このままってわけにはいかないわ。学生時代でもあるまいし。もしかしてモデル・ガーデン公開してる?」
「ああ、果樹をいれたこんな庭はいかがですかってのがあるよ」
「じゃ、日を改めて、それを取材に行くわ」
「折角会えたのに」とドミニクは心の中でつぶやきました。40過ぎての再会に心はドギマギしているのに、表には現れてきません。
「千晴もそうなのか、それとも全く関心がないのか。夫はいるのか、家族構成は」と聞き出せないままに、彼女も敢えて尋ねません。
「学生時代にラブレターをくれたのはそっちだぞ」この一言がドムの心の中で燻っています。
日没が近づいて、秋のディクスターは閉園となります。レスター州に帰るドミニクとケントに残る千晴。ふたりの距離が縮まるのかどうか、晩秋の恋はゆっくり進んでいきます。
開園、閉園時間が今では変わっています。
ご来園時にはサイト等でご確認ください。
九年前に書いたものですが、今でも変わらず素晴らしいお庭です。
文中の果樹園の綴りは Brogdale です。