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5.いつか見た雲

5.いつか見た雲



出発の朝早く、彼は朝食前の最後の散歩という口実を自分に与えて部屋を出ると、材木座の海岸まで逸る心を抑えながら、しかし駆け出し気味に歩いて行った。午後三時から始まる会議とその前の打ち合わせを考えても、ここを出る時間にはまだ十分余裕があった。通り抜けた一階のフロント横では、週頭の出勤に備える背広姿の恰幅の良い姿がぽつぽつと見られ、彼らは革張りのソファに身を沈めてコーヒーや新聞に向かっていた。そして建物の前には既に黒塗りの車が何台か横付けされ、主人の合流を待ってもいた。


     * * * * * * *


数時間の浅い睡眠の後、彼がその心にはっきりと感じたのは、虚しい想いと深い後悔の念だった。そしてそれは眠気を払おうと浴びたシャワーの熱い湯でも消し去る事は出来なかった。

入社以来最も大きな仕事を遂に片付け、海辺での週末を終えたばかりだというのに。そしてその成果を持って今これから、自分に用意された舞台に向かおうというのに。増してそれだけではない、偶然の結果とはいえ、それまでになく自分にとって、自分の人生にとって深く充実した三日間と、取り分け最後の一日を過ごす事が出来ていたのに。しかし…。

総ては、環境に恵まれながらもその過去故に常に儚さを携えた一女性の存在を前にして、且つ間違いない、確固たる愛情を抱くに至った自分に気付きながら、結局は自らの浅はかな愚かさ、つまらない傲慢と自尊心、そして不確かなものへの恐れ故に、この、今となっては奇跡にも思える状況と時間の偶然が造り上げて来た、彼の人生に対するある提案、自分たちのこの地上での存在に関するたった一つの掛け替えのない真実の発見を拒否し、無に帰させてしまった事実を改めて理解し、自分を激しく嫌悪していたのだった。


自分は仕事のためにここにやって来たのだ。


深夜に別れて以来、自分の部屋の中で独り佇み、コンピューターの置かれたテーブルをぼんやりと見つめながら、彼は幾度となくそう考え、自分の気持ちを切り替えようと試みていた。あの寂しげな彼女の視線を、最後に何か言いたそうだった表情を頭の隅へと追いやろうとしながら…。そして甘く切ない一時の情事として仕舞い込もうとしながら…。しかし彼の上司、内林からのレポートに対する深い感謝と賛辞に満ちた新着メールを読んでも、再び想い出し、胸が締め付けられる思いにさせられるのは、ミキという、複雑であったに違いない二十数年間のその人生を生き、成長を経た娘が彼に見せたさり気ない心遣いや想い、ふとした瞬間の、その個の内に秘めた孤独、そして何かをじっと待ち続け求め続けている姿だった。それは同時に、常に相手に向けられた絶え間ない笑みや、敢えて自己を主張する事のない態度に頑なに護られていたものでもあった。


もしかしたら、現在の彼でも容易に与え、分かち合えるものを彼女は既に二人の中に見出し、そしてそれこそを望んでいたのかも知れない。ごく単純でごく純粋なそれを。


現在の世界などにはもう存在し得ないと自分勝手に考えていたもの、即ち他人との素の心の触れ合いに半信半疑で直に接し、思いがけずその心地良さを味わい知り、そしてそこから生まれ出たお互いに対する深い信頼と絶対的愛情の存在を一度ははっきりと確信までしながら、自分自身は何と利己的で愚かな振る舞いを彼女に取ってしまったのだろう。自分を、自分の存在への誇りを大切にする余りに、一方のそれが心を投げ出してまでも自分に語るものを不当に無視してしまったのだろう。

自らの人間性の余りの小ささ、精神的成長のなさを再び認識し、愕然としながら彼はそう考えていた…。


     * * * * * * *


僅かな滞在の間にも、梅雨の去った湘南には確実に夏がやって来ていた。そしてその空気は更に蒸し暑いものにもなっていた。月曜朝の海岸は既に強い日差しの中、週末の喧騒の残渣を消し去りながら静かに波の音だけを立てていた。


辿り着いた黒光りのする砂浜の先、眩い太陽の光線を受けて光り輝く波の上には、ただ一艘、見覚えのある鮮やかな模様の帆と、深い紺色のボディースーツに身を包んだサーファーを乗せたウインドサーフィンのボードが、滑る様に軽快にその動きを水平方向に進めていた。


ミキ…。彼女以外である筈はなかった。


突き刺す様な激しい胸の痛みが瞬時に、そして再度彼を襲った。彼は三日前と同じ様に砂浜に降り立つと波打ち際まで歩いて行き、朝日の中に浮かぶ、絵画を思わせるその美しい光景をじっと立ち尽くして見守り続けた。ひどく虚しい想いで。

彼の腕には、華奢な彼女の柔らかい肢体の、そして直に触れ合わせた、不思議と心休まるあの暖かい肌の感触が未だ残っていた。

何という仄かな、しかしいつまでも残り続ける熱なのだろう。宇宙の遥か彼方から送られて来る太陽光線の熱を今、こうして受けていても、自分自身の体の、心の内側からじんわりと、優しく立ち昇って来るそれなのだろう。深夜の店で聞かされた、感情を操る動物である人間として、一度感じては失ってはいけない、二度と手放してはいけないものとはこれこそなのかも知れない。そしてそれは実社会の、そこでしか通用しないだろう肩書きや権力といった仮初めのものを遥かに超えた価値を持つのに違いない。心の中に、ひいてはその人生に永遠に留められる財産として。何が起こるのかも知り得ない前方に対してもしっかりと見据えて行く力を与えて…。

彼はこの瞬間初めて、彼女が語っていた、現実において見る事を望む夢の真の姿をぼんやりと認めた気がした。

もし今、自らの手と体を一杯に伸ばして波の上を漂う彼女を捕える事が出来るのだったならば、彼は躊躇せずにそうしていたのだろう。そして自分の感情に任せるままに彼女の事をきつく抱きしめていたのに違いない。今度ばかりは自分の感情のみをぶつけるに任せて。彼女が驚くまでに。彼が自身でようやく気付く事の出来た、一人生における真実を彼女が共有するまでに。

だが一方で、もしそれが仮に現実となったその時、この現実の世界の中に独りで漂う、独りきりで漂い続ける、そして心の奥底にある満ち足りない想いを埋めてくれる何かを待ち望む彼女は、この週末の僅かな時間の様に再び彼に心を開き、彼に寄り添ってくれるのだろうか。その存在とその変化を理解しながら。そしてお互いの精神的な隔たりを乗り越えてでも。

もしかしたら果てしなく掛け替えのない、そして自分の一生にとっても恐ろしく大切な何かを、自らのあやふやな態度と一時の選択によって永遠に失ってしまった想いの彼を早朝の生暖かい潮風と国道の車の騒音が包んでいた。それはあたかも、それらからは決して逃れる事など許されないかの様にだった。彼の背を、目には見えない何かががっしりと掴んで放さないかの様にだった。


ふと気付くと、痙攣にも似た身体の振るえと共に、頬には涙が止め処なく伝っていた。他人の感情を、自身の能力を超えて理解する事によってもたらされた自己の奥底に対する認識は、間違いなく彼にとって生まれて初めての経験だった。

きらきらと輝きながら、瞳の中に幾重にも映るウィンドサーフィンの帆は、小さくさざなみ続ける水面を縫う様にしてその小刻みな動きを続けていた。そしてそれを操る姿は時折、広げた腕を揺らしたり身体を屈めたりしながら、遥か遠くまで拡がって行く太平洋の海原に常に視線を向けていた。


今、何を想い、何を見つめているのだろう。


彼女が浜辺の彼に気付く事は、遂に最後までなかった。


     * * * * * * *


午前十時、彼はJR東日本線、鎌倉駅のホームにいた。これから会社に向かっても十一時過ぎには余裕を持って着く筈だった。


内林は彼の出社を心待ちにしているのに違いない。ならば少なくともこれから向う事を伝えておいても良いのでは。彼の事を常に思いやってくれていたのは他ならぬこの部長でもあったのだから。


感謝と親愛の気持ちを深く感じながらも、しかし彼はそのまま程なくしてやって来た電車の先頭車両に乗り込んだ。そしてその隅に空間を見つけるとバッグを床に置いて立ち、大きなガラス窓に映し出される、北鎌倉までの緑深い、古を感じさせる姿をじっと見守り続けた。

彼の頭の中では、フラッシュバックの様にこの週末の様々な光景が巡っていた。そして誰かが自分の事を見守ってくれているという安堵感と、誰かを見過ごしているという罪悪感が混ざり合って胸の中はもやもやとしていた。出勤時間帯を既に大きく過ぎたこの時間の車内は、コンパートメントの席にも独り客がまばらに座っているまでに空いていた。

大船に近づくにつれて緑も徐々に少なくなり、それにとって変わる様に、灰色をした工場の建物郡や集合住宅などが平地を占め始めていた。それは彼がその中で生きて行かなくてはならない、今はそうする以外には何の手立ても見つけられない現実の社会の、何も語らない、語りかけてはくれない姿だった。

彼はお互いが最後まで連絡先を教え合わなかった事を改めて知った。口約束だけなのかも、でなければずっと変わらない本心であるのかも今となってはもう分からないが、次回また会う事を約束したにも拘らずにだった。しかしそれは同時に、彼にとっての次の機会の存在の可能性を彼に確信させてもいた。何故なら、再び二人の間に生まれるかも知れない、生まれるに違いないと信じる感情は、彼女を前にしては周到に用意されたものからは決してやって来ない事をはっきりと理解していたからだった。


ならばあの素晴らしかった街中での偶然の再会が今一度繰り返され、再び自分たちを結びつけるのだろうか。そしてその時彼女は一体、どの様な表情を自分に見せ、どの様な姿でいるのだろう。


いや、それよりも今度は自分自身であの店を、そう、平日の午後の早い時間にでも訪ねてみたい。もちろん、突然に。彼女がのんびりと準備に取り掛かり始めるのだろう頃に。出来ればそれは少し先になるけども、秋口以降が本当はいいのだけれど。無論、自分がそれまで待てるとは到底思えない…。

肌寒い外の光景と空気に身震いしながら彼女は窓の傍にいて、国道の過ぎ行く車や灰色の空に包まれた大好きな海を見やり、今夜は客が来るかどうか心配げに、そしてぼんやりと手を休めているに違いないだろうから。


でも何よりもそれ以前に、あの店はその時まで存在しているのだろうか。自分自身のみを置く場所をあたかも渡り鳥の様に自由に変えかねない彼女なのに。


そう思えば尚更、もっと早くに訪ねなくてはならないだろう。それまでに自分は、自分の生き方に対するスタンスや考えもはっきりと認識出来ている事を信じて。ある成長を掴んだ自分を彼女に見せられる事を信じて。そして再びお互いの視線が向き合い、その中に通じ合うものを一瞬でもお互いが感じ取った時、彼女はあの穏やかで柔らかい微笑を見せ、自分という存在を再度理解し、認め、再度受け入れてくれるのだろうか。その脆くもある心を一度は深く傷つけてしまった自分の事を。


青い帯を持った十五両編成の銀色の車体は大船を出ると、重そうにそのスピードを徐々に上げていた。横浜に向かいながら、新橋まではあと四十分足らずになっていた。彼は大きく息を吸い込むと、午後の会議の中での自分を想像しながら、仕上がったレポートの概要と、その総括について神経を集中させていった。厚いガラス窓を通して差し込む日差しは容赦なく強いものになっていた。



終わり


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