4.答えのない問い
4.答えのない問い
彼らが再び建物の外に出た時には既に深夜になっていて、日付も間もなく変わろうかとしていた。宿泊する施設に彼が戻る前に、最後に少しでも一緒に散歩をしようと二人で決めたのだった。
お互い満ち足りた笑みを浮かべ、寄り添う様にして鎌倉駅へと向かう道を歩いていた。海岸沿いを行かずに、明かりの殆んどなくなった街中を縫って抜ける車道の端を歩いていたのは、このごく日常的な暗闇の中で、小さなきっかけで距離を狭めた相手の存在を出来る限り近くに感じていたかったからかも知れなかった。ほんの時たま横を通り過ぎる車のヘッドライトは無関心気に二人を一瞬の間照らし、そして再び闇の中に残していた。
* * * * * * *
心なしか湿った午後の強い陽光に終始包まれた中、二人はようやく彼女が住むマンションに辿り着いていた。思えば昼前に小町通り脇の古本屋で再会して以来、ずっと歩き続けだった。それでも疲れは確かにどちらも感じていなかった。感じ様筈がなかった。重い胸苦しさから、次いで深い喜びを感じるに至った心の変遷は余りに大きく、心奪われるものだったから。そして終始一緒に並んで歩く事がいかにその心を鎮めていたか理解していたから…。
日中の明かりの下で見ると、やって来た細道は両側を、深い緑に包まれた由緒ありそうな邸宅の数々に囲まれ、この建物だけが突き出る様に上階を持っているのがはっきりと分かった。しかし出来る限り周りの景観を壊さない様に配慮したのに違いない、エントランスへ導くコンコースや左手の地下駐車場への入り口脇などにふんだんに樹々が配され、一見して豪奢な造りになっていた。いわゆる高級マンションと呼ばれるの類のものだった。
今となっては少しでも早く二人きりになりたい…。しかし彼らは建物を前にしてもエントランスには直接向かわず、買い物袋を抱えたまま少しの間路上で立ち止まって向かい合っていた。そして黙ったままお互いを真剣な眼差しで見やっていた。そう、どこか躊躇いがちに、そしてどこか遠慮がちに相手の意思を確認する様に。周囲は木々の鳥のさえずりを伴う休日の長閑さを携えながら深い静けさに包まれ、海辺近くの音が異次元のものとなって二人の耳に遠く届いていた。
お互いの相手に対する気持ちはこれまでと全く変わらない。やがてそれぞれが相手の瞳の中にあるものを確認すると、どこか安心した様子で頷き合い、次いで無言のまま並んでようやくコンコースを進んで行った。そして彼女が個人認証機を通過して扉が開くのを待ってから彼らはエントランスホールに入り、エレベーターに乗り込んで最上階へと向かった。
三階の一番奥に位置する彼女の部屋は、家族よりはむしろ若者向けに自由な取り扱いを可能にした生活空間、ロフトにも似たものだった。奥一面を緑色の大きなカーテンが覆っていて光を遮り、薄暗かったが、フローリングされたその広い空間は、左側の壁中央から中ほどまで衝立の様に置かれた格子状の棚によって仕切られる形で二分されていて、全てが整然と格納されていた。それは一見何もない印象を覚えるものだったが、生活に必要なものは必要な分のみ、最低限備えられてある様子だった。それはむしろ質素と言えなくもないもので、彼にはそれが一瞬ひどく意外な気もしたが、以前よりは良く知る彼女を思えば想像出来なくもなくなっていた。
入り口でサンダルを脱いだ彼女は、部屋手前側の中央にある麻布のソファへと歩いて行き、買い物袋をその上に置いた。そして入り口に立つ彼にもそうする様にジェスチャーで示した。交わされる言葉は常になかったが、暖かい笑みと空気が絶える事もなかった。彼は頷くと中に入り、彼女の指示に従った。
部屋の中は、ラベンダーだろうか、清々しい花の香りが仄かに漂っていた。右側の壁沿いにはカウンターテーブルの付いたシステムキッチンがあり、バスルームやクローゼットのだろう扉がそれに続いていた。白い金属製の棚には正方形の升目の所々に私物やら本などが整理されて置かれ、小物が飾られた所からは寝室になるのだろう奥のスペースが覗いていて、背の低いベッドやナイトテーブルなどが見えていた。
彼女は彼が荷物を置くのを見届けると部屋の一番奥まで歩いて行った。そしてまるで布の掛けられた一枚の絵画を彼に向かって開示するかの様に、引き紐を使ってカーテンを端から端まで一気に開け放った。間を置かずして眩いばかりの西陽が部屋の隅々にまで差し込み、その小奇麗な空間をくっきりと浮かび上がらせた。床の白木がきらきらと輝き始め、彼の目を鋭く刺してもいた。大きなガラス窓の向こうにはかなり広そうなバルコニーがあり、木製のロッキングチェアと揃いの小テーブルが対になって置かれてあるのが見えたが、カーテンに続いて窓までも両側に開かれると、今度は耳慣れた生活の音や車のそれが遠いものとなって彼の耳に届いた。それは都会では聞く事はないだろう、どこまでものんびりとしたものだった。目の先には少し霞んだ青空の下、太平洋の海原が果てしなく拡がっていた。二日前の朝、彼が砂浜から眺めていたのと同じものだったが、今は彼女の確かな存在を傍らに感じているからに違いない、より生き生きとした、より根源的な美しさもったものに思われた。
彼女は両腕を後ろに回して窓の左端にもたれ、ソファの横に所在なげに立つ彼の事をじっと見つめていた。その視線はこれまでよりもずっと強く、激しい感情を伴ったものだった。と同時に、それに対する彼の反応を再度、どこかおずおずと窺っている様子でもあった。突然現れた大人びた仕草に彼は少し物怖じしながら、しかし目の先の姿の余りの美しさに息を呑み、ぎこちない笑みで彼女を見つめ返していた。
二人の間には依然、沈黙が漂っていたが、重苦しいものではなかった。共犯にも似た悪戯っぽい表情が一方で絶える事はなかったから。やがて、彼女は彼の手を、その存在を求めるかの様に、ひらを上にして右手を差し出しながら呼び寄せる仕草を見せた。そして彼がそれに応えて棚の横を抜けてやって来ると、自分自身もゆっくりと前方へ歩み出した。
左側の壁を背にして置かれたダブルサイズのベッドの前で彼らは向かい合って立った。彼女は柔らかな視線の中、今度は両手を優しく拡げ、彼にそっと抱き付き、その胸に身体を預けた。二人にとっての初めての抱擁だった。次いで小さな笑みを見せながら顔を彼に近づけ、唇を相手のそれに、そっと触れ合わせる様に重ねた。彼はその一連の動きの緩やかさに対して、止め処もない欲望が溢れ出そうになるが故の拷問にもじっと耐えながら、その華奢な肢体の、そしてずっと思い続けていたと告白せざるを得ない、唇の感触を、言葉にならない、なり得ようのない満たされた感情と共に味わった。二つの身体は次いでごく自然に、ベージュ色のオーバーシーツが皺一つなく掛けられたベッドの上に倒れ込んだ。
しかしその行動は、互いの肉体的な接触による感情の高まりを更なるものにするためにではなかった。自分でも驚きながら、彼は彼女に従うままにベッドの上に寛ぐ姿勢で横たわった。無論、身体を寄せ合い、抱き合ったまま。そして腕を取り合ったまま…。それから一体どの位の時間を費やしたのだろう、二人並んで頭をベッドの端に預け、外気が運んで来る湘南の湿気を持った熱気を、目の先に映る果てしない単色の光景を、そして下方から聞こえて来る車輌の音、更には遠くの黄色い叫び声など、盛夏を正に迎えようとしているこの地の今現在の瞬間が生み出す色々を、体に、そして心に感じ、脳裏に焼き付けていた。終始身体を合わせ、お互いの腕で相手を包み込む様にしてじっとそうしていたのだった。
それからようやく、どちらもが僅かなぎこちなさを伴った初めての愛の時間が訪れていた。もう夕刻を迎えようかとしていて、日が徐々に傾き始めていた。その光線の中、二人はどちらからともなく自然に相手の衣服をゆっくりと取り去り始め、次いで身体を重ね、素肌を合わせたのだった。それぞれの腕と唇はやがて堰を切ったかの様に相手を求め始め、全身の動きは相手に肉体を通した愛の喜びを与えようと落ち着きを失っていた。
その一連の行為は、この三日間が育んだ、相手をあるがままに理解し、受け入れ、今は心の底から愛しく想う感情と、時折、その抑え様のなくなった理性が爆発した荒々しさが交ったものだった。そしてその中で二人は遂に心の安らぎを知り、自分自身が何を求め、何によって満たされ得るのかを理解してもいた。言葉だけでは決して足りない、人間という複雑な存在の持続にとって根本的な、本質的な何かだった。
湧き上がる感情に余りに身を任せ過ぎただろうか?
何も身につけずに並んで横たわったままのベッドの上で二人はそう考えもしたが、しかしその後に続いた、手軽だが愛情の感じられる彼女の料理、それをより豊かなものにしてくれたフルーリー、そして彼女に絶えず注がれる彼の優しい眼差しを通して、穏やかで、しかし陽気な空気が空間には立ち現れ、また数々の何気ない会話の中で彼らは、相手に対する殆んど慈しみにも似た想いを見つけ出していた。
* * * * * * *
日曜日という事もあるのだろう、交通の全くなくなった鎌倉街道の歩道を、二人は八幡宮を目指して歩いて行った。深夜になったこの時間、海を背にした側は幻想的なまでに素晴らしい光景を見せていて、静寂に包まれた無人の街中に投げ出された印象で彼らを魅了していた。
駅前の交差点の少し先には、闇に黒ずんだ段葛が両側に獅子像を従え、赤い鳥居の後ろから続く背の低い木々に囲まれて真っ直ぐに伸びていた。そしてその細い枝の合間からは僅かに上方、ぼんやりとした黄色い明かりに照らし出され、朱色を基調とした鶴岡八幡宮の本殿が霞む様に浮かび上がって見えていた。宙を漂うかの様なその余りに幽玄な姿は彼らに、それが歴史に記された幾多の出来事や想いを従え、この地球上から永遠で未知なる世界へと飛び去って行く様に思わせてもいた。
夏祭りのためのものなのか、提灯が幾つも吊るされた高台の長い路を通り抜けて大鳥居をくぐり、橋を渡ると、彼らは小石と石畳が拡がる境内に入って行った。辺りの深い緑ゆえに、闇は更に重いものとなっていたが、本殿へと導く石造りの階段の手前にある舞殿には照明が燈され、その荘重な佇まいが上方と対を成す様に、しっかりと地に足をつける形で目の先に見えていた。下方から照らされているせいかも知れない、現在いる距離からでも二つの建物の姿はどこか常におぼろげだった。
そのまま暫く歩き進んで行くと、左右を横切る、流鏑馬のための道を越えた先は行き止まりになっていた。夜間の通行を規制するのが目的なのだろう、白く塗られた木製の柵が他と両肩を合わせながら両端まで並べられてあったが、それは背の低い、至って簡素なものだった。舞殿の丁度右横には事務所や休憩所の建物があったが、認められる明かりはなかった。二人は柵の手前まで行くと、寄り添って立ったまま暫くの間、その場所から先の建築物を見守った。ほぼ一千年に亘るその歴史と、自分たちの祖先のこの国の歴史における確かな存在への深い感嘆と共感が終始彼らを包んでいた。
突然、ふと思い付いた様に一人頷くと、彼女は身軽に柵を跨いで乗り越え、先に続く石畳の上を歩き始めた。その突飛で無謀な行動に彼は驚いて辺りを見回し、しかし務めて囁く様に彼女の背に向かって言った。
「ミキ、だめだよ。誰かに見つかったらどうするんだい」
彼女は立ち止まって振り返り、彼を見やると明るい笑みを見せて言った。
「初めて名前で呼んでくれたのね。うれしいわ」
「早く戻っておいでよ」
「あなたも来てみなさいよ」
その口調はあたかも、行く手を阻むものの存在など気にも留めていない様子だった。
「深夜にこの場所に立ち入る事が出来ないのが分からない訳じゃないだろう?」
「なにも悪さをしようって言うんじゃないわ」
「でも…」
「ねえ、早くいらっしゃい」
彼女はくるりと向きを返すと、再び先方の明かりの元へと歩き始めた。どうやら何を言っても聞き入れるとはもはや思えなかった。彼は覚悟を決め、仕方なく同じ様にして木柵を乗り越えると彼女の後を追った。十メートル程先方に浮かぶ均整の良く取れた小さい影は、僅かな石段を登ると更に少し進み、舞殿の前で立ち止まった。
厳かな空気を辺りに漂わせた舞台の手前、その袖の様に一段低くなった場所の傍らに立ち、彼女はじっとこの祭儀用の空間を見つめていた。そして彼の存在を近くに感じると呟く様に言った。
「かつて彼女はこの場所で、胸を締め付けられる想いの中で、自らの役務を果たそうとここで舞ったのね。己の絶望と、そして心に想う人の奇跡を一方で信じながら」
「まだ迅速な移動手段もない、そして連絡すら取り様もない時代にね」
「私たちはそれを思えば、ひどく幸せだと考えなくてはいけないのね」
彼女は静かに彼にもたれかかると、やがて体の向きを変えて顔を近づけ、そっと唇を合わせた。それから再び前を見やりながら静かに話し始めた。
「私ね、東京に出て来るまでは神戸にあるバレエ団にいたの。プリマまでは行かなかったけど、定期公演ではソロでも結構踊ったのよ」
「プロだったの?」
「研究生扱いだったけど、少しでももらえるものはあったわ」
「習い始めたのは子供の時から?」
「ええ。小学生になる頃にはもう始めていたわね。もちろん、地元でね。母がある日突然決めてきたのよ。自分がずっと心に持っていた夢だったんですって。私をいつか舞台に、舞台の中央に立たせる事がね…」
そう言うと彼女は一瞬、考える様子を見せた。その先を話していいのか躊躇っている様子に彼には思えた。既に肌の接触を通して彼女を知った現在の彼は、彼女についてより深く知りたかったが、それを無理強いする事は当然出来なかった。たとえ彼女がこれまでで初めてその幼少に関する事を彼に語り始めていたとしても。不可思議なその存在の一因をようやく彼の前に明らかにさせようとし始めていても…。今はその続きを望む事だけが彼に出来る事だった。そしてその願いはどこからか受け入れられ、やがて彼女は言葉を続けた。その口調は自己の道のりを再確認する様な、努めて客観的に見やるそれだった。
「今思えば、夫と別れたばかりの当時のあの人にとって、私は彼女自身の存在へのたった一つの証しだったのかも知れないわ。捨て去られた家族の明らかな証拠品とでもして。彼女は一人の男によって失わされたその人生を再び自身のものにしようと確かに夢中になっていた。必要以上の労働をすでに形振り構わず自分に課しながらね。そしてとにかく私が常に幸福を感じられ、辛い想い出を引きずらない様望んでいた。そう、たとえそれが物質のみの表面的な物になっても…。もちろん私は私で、出来る限りそれに答えようとしたわ。特にバレエに関しては、決して軽くはなかった経済的な負担への負い目もあってね。幼い頭で私は、私たちが置かれた状況を常に必死に理解しようとしていた…。そしてその様な生活が続き、私自身は順調に経験を重ねて行ったの。故郷を出て、都市にあるバレエ団に参加出来るまでにね。母の喜び様は言うまでもなかった。
でも二十歳になったある日、私は踊りたくて踊っているんじゃない自分に突然気付いたの。その頃はすでに神戸にいて研究生になっていて、公演でもそれなりの役を貰っていた。そして毎日が楽しくもあった。でも嫌になったの。本当に突然にね。それは決して練習の苦しさからではなかった。だってもしそうだったら、それにはずっと耐えて行ける自信があったもの。それよりも、自分の心の中に常にある、多分子供の頃からずっとあった、ぽっかりとした空間を埋めてくれる何か、自分の知らない何かを見つけ出す欲求と必要性を強くを感じたの。踊りだけの生活から一度離れてでもね。たとえその決断が、この分野での活動にとって致命的な意味を持とうとも…。そして気付いたら私は、東京行きの新幹線に乗ってた」
「お母さんとは?」
「少し経ってから電話で話したわ。私の急な失踪をバレエ団からすでに知らされていてひどく慌ててた。そして私の勝手な行動と退団に怒り、落胆してもいたけど、私が彼女の人生の代替には決してなれない事実に、その時はっきりと気付いたみたいだった。で、それからはもう何も言わなくなったわ」
「君が踊っている姿を見てみたかったな」
彼女は彼を見つめると、静かな笑みを浮かべて言葉を続けた。
「知ってる? 心を自由に解き放って、目の前にある世界の空気や音に身を任せるのって、すごく気持ちがいいのよ。そしてそれは現実の社会でも全く同じ事なの。私はそれをこっちに来て初めて学んだわ。そう、店のママのおかげでね。もう踊る事はやめてしまったけど、今なら昔よりもずっと上手に踊れそうな気すらもするの」
「なら、また始めてみたら? 今なら時間も、精神的余裕もあるんだろうし…」
「冗談でしょ。そんなに甘い世界なんてどこにもないものなのよ。でも、そんな過去よりももっと大切なのは、今ここにいる私自身が、この世界にある色々な物事が自分に語ろうとしている事をたとえ少しずつでも理解出来る様になって、それに対してはっきりとした考えを持てて、そしてその経験を一種の糧としながら生きて行き、ある時いつしか成長したと感じる事じゃないのかしら。たとえどんなに時間が掛かろうともね。少なくともそれが私には、私という一存在にとっては一番大事じゃないかなと思うの」
「そう思えるのは多分、君が夜の世界で様々な人を見てきたからじゃないのかな。目の前の生活に振り回されてばかりの僕なんかには到底そこまで思いつきすらもしない事だよ」
「もちろん、自分だけの経験や考えを人に押し付ける事は決して出来ないわ。人はそれぞれに、その考え、人生があるのだし。でももしそういったスタンスを私たちそれぞれの人生の中に持てれば、誰しももっと気を楽にして、他人の存在をより愛情をもって受け入れる事が出来て毎日を送れるきっかけになると思うの。そしてそこに人間としてこの世に生きる意味を見つけ出せるとも…」
二つの輝く瞳は依然、彼をじっと見守っていた。愛らしい表情はそれまでの口調と同様に、絶えず穏やかで柔らかかった。彼はふと今日の午後の時間、彼女を自らの欲望だけで、力ずくで征服していた想いに理由もなく囚われ、ひどく恥ずかしく感じた。そして自分自身の、常に表面ばかりに気を取られて社会の中に身を置いている軽薄さを認識し、どこか惨めに思われてもいた。二人を、二人の心の奥底までを息を潜めて探っている様にも思われる辺りの深遠なまでの沈黙のせいかも知れなかった。
気付くと彼女は身を屈めてサンダルを脱ぎ、舞殿の下手にある木の階段を登り始めていた。次いで軽やかな足取りと共に舞台へと進んで行こうとしていた。彼は再び慌てて言った。
「ミキ、これ以上勝手な事をしたら、今度こそ捕まってしまうよ。不法侵入罪って言葉知ってるだろ?」
思わず叫びかけていた。
「戻って来なよ」
しかし彼女は彼に向って振り返ると、至極落ち着いた口調で答えて言った。きりりと締まったその表情には、ある固い決意が既にその奥に浮かんでいるのが彼にははっきりと分かった。
「別に壊して回ろうって言うんじゃないんだから。私はこの場所とその歴史に対して尊敬の念も抱いているし、自分の中にも同じ血が流れている事を誇らしく思ってもいるもの。ただ私なりに、ここでかつていたたまれない想いに身を焦がしながら、便りすらもままならない中で愛する人を想い続けてその一生を過ごして行った一女性へ、恵まれすぎた現在の一女性として同情と親愛の気持ちを示したいだけなの」
「でも…」
「その想いを感じる権利は、誰にでも平等にあっていい筈だと思うわ」
少しして、建物が外側に向けて放つ明かりの内側で黒くぼんやりと浮かび上がる、一人の女性の、舞台中央に佇む姿があった。彼はおずおずと彼女に尋ねた。
「何を考えてるの?」
背を彼に向けたまま、彼女は応えて言った。
「ここに彼女は存在したのね。確かに存在して、周囲の無理解の中、静かに自己の想いでこの空間を満たしたのね」
黒い影が姿勢を正し、舞台と垂直方向に一本の真っ直ぐな線を描いた。それは彼が知る実際の彼女よりずっと大きなものに彼には思われた。次いで片手が上方に向かってすっと掲げられ、ポーズが取られた。そしてその体がゆっくりと左右に移動を始めた。
それは緩やかなステップの合間に現れる、アラベスクとアダージョの交錯だった。彼女の動きにぶれが見られる事は全くなく、それは明らかにプロのみが見せ得るものだった。その優雅な姿と鋭い動きの連続に呆気にとられた彼は、魅入られた様に見守り始めていたが、そこからはごく穏やかな、叙情的な音楽が立ち昇るのがはっきりと感じられていた。何よりも彼女自身が辺りのしんとした空気の中に潜む、しかし耳には届かない音楽を聴き取り、反射的に体を動かしている様子だった。と同時にそれは、古典的なテクニックや基本云々を遥かに越えた、ある想いの表現への純粋な欲求とその無意識の反応でもあった。つい先程まで感じていた罪悪感の代わりに、彼は彼女と同じく、嘗てここに存在した人々の様々な感情や想いを自分自身の中で理解したい、理解してみたい想いに囚われ、彼女の一挙手一投足に自身の心をいつしか同化させていた。言葉にしようのない、豊かで暖かな感情が自分の奥底から湧き上がって来るのが自分でも良く分かった。そしてそれを感じられる自分が無性に幸福に感じられた。
それは僅か一、二分間の出来事だった。彼女はそれまでの動きをふと止めると、再び何かを感じ取ろうとするかの様に、舞台中央に佇んだ。そして少しして彼女の声が舞台から聞こえた。逆光に表情のはっきりしないその顔は確かに彼に向けられていた。
「ねえ、今の私なら十分にあなたの面倒も見てあげられると思うの。であなたは、自分が自分の人生において本当にしたい事を見つけ出すまで私の家にいれば?」
「えっ、君が僕の面倒を見る? 僕なんかを? 冗談だろ?」
「あら私は本気よ。そしてあなたを愛していると思うわ」
「それは僕も同じさ」
彼女の表情は依然分からなかった。一方、彼自身は、その言葉に対する驚きと動揺で心の一部が激しく痛み出すのを感じていた。それはこれまでの自分の全てを否定される様な悔しさと、それでも自身の存在への確固たる理由を依然見つけられないままでいる焦りが混ざり合い、彼を混乱させながらそうさせているのがはっきりと分かった。この怒りにも似た感情は本来、彼女に向けるべきものではない。しかし今はそれをどこに向ければいいのか彼には分からなかった。あらゆる物事において明らかに自分より優っている彼女の存在を、そしてその言葉を前にしては、たとえそれが彼女の奥底から湧き上がる彼に対する純粋な愛情によるものであっても、受け入れるのは彼にとってひどい屈辱に思われていた。
落ち着きを決して失わないはっきりした口調で言葉を続けたのは彼女だった。
「私ね、あなたが今ある生活の中で私と同じ葛藤を持ち、私と同じ答えを求めていると、はっきりと感じられるの…。」
「同じ答えを?」
「そう。もしかしたらあなた自身も気付かないままに。だからこそ私はあなたの事がとても気になったんだと思う…。でもあなたは確かに理解出来ているはずだわ。私たち一人ひとりには自分自身の人生を求める権利があり、それを求め続ける義務があり、そしてその中でこそ自分の存在の本当の理由を見つけ出せる事にね」
「それは否定しないよ。人間社会というものをより知る様になった僕も今はそれを望んではいるけど、でも同時に、どうすればいいのか分からずに時間を過ごしているのも現在の僕でもあるんだ。いつか話した様にね」
「私はあなたに自身が望む人生を見つけてほしいの。そしてその中で、そう、今日の昼間の時間に見せてくれた心で私の心を支え、傍にずっといてほしいの。あなたと同じ様に絶えず彷徨っている私の事をずっと愛してほしいの」
「ミキ、君を愛する事なら僕は喜んでいくらでもするよ。僕は君が僕に与えてくれるものが何であるのかをおぼろげにも知っている。ただ、今現在の僕は、これまで続いて来た道を歩むしか見えずにいるんだ。それが与えてくれる恩恵を受けながらね。だから君の目には、僕が確固とした自分を持っていないと映るかもしれない。でも…」
「なにもそんなことは言っていないわ!」
「同じことさ、僕にとっては。どうあれ僕は、会社の中での自分が、社会のたとえ端っこでも属して身を置いている自分が全てなんだ。そしてその事実だけはどうあっても変わる事はないと思うんだ。たとえどんなに嫌で抜け出したいと願っていてもね」
「じゃあ、思い切って抜け出そうとは考えないの?」
「いいかい、一介のサラリーマンにとって、その様な大それた決断は簡単に出来るものじゃないんだ」
「私が手伝ってあげられないこと?」
「それが問題じゃないんだ。一つの社会に属する事を言っているんだ。それが何を意味しているのかは、君も老いを気にし始めた時にきっと理解する筈だよ」
「ならば、それがあなたには本当に大切な事なの?」
「少なくとも僕自身の人生にとってはね。面倒を見なくてはならなくなるだろう両親の事もあるし」
「そう…」
明らかに落胆を示す彼女の短い返答に、彼は再度困惑と憤慨を覚えた。自分の言葉が社会規範に則った正しいものであると信じながらだった。
一時の沈黙に続いて彼女がぽつりと言った。それは彼の心の一方を、その奥底を大きく揺すぶった。
「怖いのね…。見知らぬ新しい世界の中に独りで身を置いてみることが…」
「確かにそうかも知れない。自分でも悲しいと思うけど、でもそれが僕なんだ」
「残念だわ」
明かりの中へ再び姿を現した彼女は伏し目がちに彼の元に近寄ろうとしていた。泣いている…、彼は咄嗟にそう理解した。
まるで言い訳の様に彼は慌てて言葉を継いだ。
「ミキ、僕は君の事を嫌いだって言ってるんじゃない。全くその逆さ! 僕は君の生き方を本当に尊敬するし、君の事は本当に大切に思っている。出来ればいつも一緒にいたいとも今は考えているんだ。ただ僕自身に関して言えば、今更自分なりに得た何もかもを脇に追いやって生きて行く事なんてとてもじゃないけど出来ないのも本当なんだ。そう、全く君の言う通りさ。この冷たい世間を前にして手ぶらになるのがとてつもなく怖いんだ…」
「あなたの言う事はよく分かるわ。私の言葉、気にしないで。人にはそれぞれの生き方があるんだし、それを変えてまで誰かの犠牲になるのは、きっと後悔だけをその人の中に残す事になるんだから…」
彼は彼女をきつく抱きしめた。
「僕は君を愛しているんだ。間違いなくこれまでの誰よりも」
「うれしいわ」
「でも同時に、僕にとっての君はずっと遠い世界の人の様にも思えてしまうんだ。到底手の届かない存在として。そして嫉妬にも似た気持ちと共にね。自分自身が、この人生がひどく惨めに思えて情けなくなってもしまうんだ」
彼女は彼の腕の中でじっと彼を見つめていた。一条の透明な筋跡が二つの瞳の端から続くのが今ははっきりと分かった。
自分は一体、彼女に、そして己の人生に何を求めているのだろう? ようやくあれほど望んだ存在を手に、心に得ていると言うのに。彼女の豊かさがどこにあるのかも知っているのに。一体何が不満だというのだろう?
彼はそれらを自問しながら懇願する口調で彼女に言った。
「出来ればまた会いたいんだ。そしてたとえ時間が掛かっても二人だけの時間を通して君の事を理解して行きたいんだ。自分が君に相応しいと思えるまでに。君がその時間を僕に与えてくれるならば…」
「分かったわ」
彼女はようやく小さな笑みを見せると、そっと彼の唇に自分のものを重ねた。そしてそれからお互いの頬をすり合わせたまま暫くそうしていた。涙で少しがさついた彼女の頬は、夏が訪れているとはいえ、深夜のひんやりとした空気に冷たくもあった。
少しして彼女がぽつりと言った。
「不思議ね、私たちを取り囲む生活に必要なものや便利なものは日に日に目新しくなって行くのに、人の心は五百年以上も前と変わる事なく彷徨い続けなくてはいけないなんて。誰も未だに確かな答えを見つけ出せないままに」
「ごめん、僕がこんな人間であるばっかりに…」
「そんな言い方だけはしないで!」
きっとした視線が彼に向けられた。それは何かに必死で耐えているものにも彼には思われた。
「悲しくなってしまうから…」
二人はそれから黙ったまま、オレンジ色のライトが注がれる中でじっと抱き合っていた。
* * * * * * *
彼女は彼の泊まる施設の前まで彼に付き添って歩いて行った。彼の見送りを断り、彼を見届ける事を望んだのだった。
大町を抜けて歩いて行く半時間程の間に、二人の間に交わされた会話は殆んどなかった。僅かに近辺の寺などについて話した位だった。そして深い闇の中を、しかしながら来た時と全く変わらず、身体をぴったりと寄せ合って歩いていた。それはあたかも二つの生命の現時点での確かな存在を確認し合うかの様にだった。彼は八幡宮の広大な敷地を離れてからの彼女の反応が心苦しいまでに気なっていたが、彼女が時折彼に顔を向けて投げ掛ける笑みは、それまでと全く変わらない、どこまでも柔らかく、暖かかいものだった。そしてそれ故に彼自身は彼女の事がそれまで以上に愛しかった。
今はこんな自分だけど、自分のものになって欲しい…。
彼はそう口にして彼女に告げたかった。それが彼の心の中にある真実でもあったから。ただ、自分がたとえ何か一つの事でも優位性をもって彼女に面体する事が出来てさえいれば…。しかしそれは現在の時点ではやはり不可能に彼には思われていた。
対する彼女は、先程見せた姿を恥じてなのか、何度となく彼の胸に頭を預け、まるでその中にこもる様にいた。
* * * * * * *
竹の柵に囲まれた宿泊施設のエントランスの前に辿り着くと、二人は向かい合って立った。ぎこちなさの中、彼女が初めに言葉を発した。
「鎌倉に来た時には必ず店に寄ってね」
「ああ、もちろんそうするよ」
「あなたとの時間は素敵だったわ。短かったけど、すごく幸せだった」
「本当に?」
「ええ、本当に…」
彼女の淡いまでの笑みに、彼はふと自分の瞳が潤むのを感じた。彼女が今、精一杯の見栄を張っているのが彼にははっきりと分かっていたから。でもそうしながら、彼女は既に自分の事を忘れ去ろうとし始めているのだろうか?
何故自分は、それでも彼女を愛していると、彼女の存在が欲しいと言えないのだろう?
次に会う約束を口にする彼を制するためになのだろうか、彼女が間を置かずに言葉を続けた。
「明日はがんばるのよ。きっとうまく行く筈なんだから」
「ああ、有り難う」
二人のどちらもが、意味がなくても構わない会話をこのままずっと続けていたかったのに違いなかった。そしてそれからどうしたいのかも分かっている筈だった…。
しかし彼らは次いでお互いに肩を上げると笑みを見せ合った。どこか仕方なげな仕草で。そしてそれはあの深夜の別れと同じ光景でもあった。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
「今日は本当にありがとう。心から楽しめたよ」
「それはわたしもだわ!」
この夜は彼が彼女に背を向け、建物の中に入って行った。フロントは既に業務を終えたのか、薄暗い明かりだけ燈されていて、警備も兼ねているのだろう制服姿の男が座っていた。そして彼の姿を認めると、エントランスの自動ドアを遠隔操作で開けて迎え入れ、無愛想に、どこか迷惑気に部屋の番号を訪ね、その鍵を手渡した。
彼女は姿をずらしながらそう光景を見守り、彼の姿がエレベーターに消えるまでずっと道に立ち尽くしたまま見守っていた。深夜も優に二時を回ろうとしていた。