3.限りない平行線が微かに触れ合う時
3.限りない平行線が微かに触れ合う時
日曜日正午近く、彼は滑川の交差点から一の鳥居、そして段葛のある二の鳥居へとほぼ真っ直ぐに伸びて行く街道の横を、JR鎌倉駅へと向かって歩いていた。
夏は確かにやって来ているのに違いない。ぎらぎらとした太陽の光線が白いアスファルトの幅広い歩道を強く照らし返していた。そして汗ばむ程の中、日曜だからなのか、日曜にも拘らずなのか、駅に近づくにつれて見えてくる商店街には年配の主婦らしい姿がぽつりぽつりと見かけられた。
三ヶ月余りを費やして取り組んで来ていた仕事を今し方終えたにも拘らず、彼の心には晴れやかな気持ちと重いそれが相半ばしていた。無論、一つの大きな目的をやり遂げた達成感は爽快さも伴い、感じるに心地良いものだったが、一方で、約束とは言えないのかも知れない約束を守れなかった心苦しさが頭の中を占めてもいた。金曜の深夜に彼女、ミキと交わしたそれに他ならなかった。昨夕、最終の見直しをしている時にある資料の数字の置き間違いを見つけ出し、慌てて調べ直しながら修正を施す間に時間は刻々と過ぎ去ってしまったのだった。次いでやっとの思いで終え、店を訪れる事を考えた時には既に明け方近くになろうとしていた…。
* * * * * * *
今、彼の心の中では彼女の存在が果てしなく大きなものになっていた。それは間違いない、偶然がもたらしたこの彼女との接触を通して、彼が自分の中に見つけ出す事の出来たある一つの真実ゆえにだった。そしてそれを彼が久しく知りたいと望んでいたがゆえにでもあった。
彼が求めて続けていたもの、それは取りも直さず、虚飾を捨て去った生身の人間同士が、隠し立てのない姿をそれぞれ相手に見せながらどう心を通わせ、そのやり取りを通してどう自分を理解し、次いで相手を受け止め、理解し、一つの精神的な絆を結んで行けるのかという事だった。学生時代にはごく当然だった、自己を中心に据えた世界のみに生きる事から卒業して以来、自分が身を置く、詰まる所、殆んどそれしか知らないのではないだろうか、仕事を通した社会上の付き合いや、その残りの時間になる、しかしその慌ただしさゆえにどこかうんざりとさせられる都会での日常生活においては決して巡り合う事の出来なかった何かだった。この出会いがありきたりの恋愛以上の何かであるのは、いかにその手の事において決して長けていない彼でも全く疑い様がなかった。そしてそれを知るがゆえに、彼は自分の昨夜の軽率さによってある一本の希望の糸を誤って断ち切ってしまった思いにかられ、落胆し、呆然としていたのだった。朝方、それでも彼はひょっとしてと思い、短い睡眠の後に飛び起きると材木座海岸へ行ってみた。胸に感じる虚しい想いと淡い期待を共に抱きながら。ダイバースーツに身を包んだあの姿を再び見つけ出す事を願って。しかしそこにはあの朝よりもずっと多くの帆が色とりどりに波の上を軽快に滑っていたものの、彼女のそれは遂に見付け出す事が出来なかった。
今夜、早くにでも店を訪ねてみればいい事だ。彼はそう考えて自分を納得させようとしたが、一昨日の朝や深夜の時間、そして彼女の住むマンション前での二人の間を掠めた微妙な空気が、彼に一刻の猶予もままならない、過ぎて行く時間がとてつもなく今は大事なものである印象を与えていた。彼女に自分の存在を示したい。決して彼女を忘れていた訳ではないと伝えたくて…。しかし家を訪れてみる決心だけは、自尊心からなのか、羞恥心からなのか、どうしてもつかずにいた。そして今し方海岸際の歩道から伺い見た彼女の店は、当然の事、しんとして灯る明かりもなく、明らかに誰もいない様子だった…。
* * * * * * *
彼にとって鎌倉は本当に久方振りのものだった。恐らく五年以上も前に訪れたのが最後なのに違いない。当時付き合っていた女性に連れられるままに、JR東日本駅の高い天井の駅舎を出てから近辺の寺の幾つかを歩いて観て廻ったのだったが、今となってはそれがどこにあり、どこであったのかはもう記憶になかった。ただ、唯一見覚えのある、駅前のロータリー横から若宮大路と平行して伸びる小町通りは、この時期でも驚くほどの観光客で溢れていた。外国からの訪問者も多い様子で、どうやら古都の観光地に季節はないらしかった。
懐かしさに駆られ、そして無意識の内に人の流れに飲み込まれて商店街を歩き出してみた彼だったが、前後左右に忙しく行き交う老若男女の動きと、以前に比べて急激に増えた感のある今風の消費商品ばかりを扱う店並みに、短い睡眠の後という事もあり、次第に辟易としてしまっていた。同時に、浜辺で、海辺のホテルのカフェテリアで、そして二人だけになった彼女の店の中で彼の事をじっと見つめていた彼女、ミキの表情が絶えず思い出され、無性に静けさが欲しくなってもいた。彼は横道を見つけると、幸いとばかりに、人波から逃れる様にしてJR横須賀線の線路が先に見える向きに折れて行った。そしてそこでは、立ち止まる空間をやっとの事見つけ出し、買い求めた食べ物に向かう若者や親子連れを除けば人気は全く感じられず、湘南の落ち着いた休日の街並みが再び顔を覗かせていた。
救われた気分で彼は、初めに目に飛び込んだ古本屋に気が向くままにふらりと立ち寄ってみた。何か気晴らしになりそうなものはないだろうか探してみようと考えてだった。
思えばそれは近年、持つ事を全く忘れ去っていた感情だった。彼自身は文学が左程好きな訳ではなかったが、自らも苦労して文章を書き上げた反動なのに違いない、表現されたものに触れる欲求が自らの内から起こっていた。彼は店先に出された平台の前に立つと、そこに詰め込む様に並べられた書籍の数々の上に視線を落とし、どの系統のものがあるのかざっと見渡してみた。嘗ての学生だった頃が想い出されていた。もっとも当時は主に専門書を目的としてだったが…。とにかく彼は興味を引く題のものを手当たり次第に手に取り、目を通し始めた。
狭い店内には客はおろか、主人すらもいる気配がなかった。背に感じる強い日差しと少し離れて耳にする人々のざわめき、それと全く対照的な辺りののんびりとした空気、そして何よりも赤茶けた文庫本のページが、避暑地の休日の時間の中にいる現在の自分自身を彼に再び思い出させ、どうあれ気を落ち着かせていた。彼は大学院での一年目に恩師に強く勧められ、純文学、取り分け近代自然主義ものを知ったが、それは彼の人生では初めてであったろう、自身以外の世界への関心と興味を呼び起こすきっかけとなっていた。そして今になって思えば、その時以来、人間社会の中における自分の存在、自分に関わる他人の存在の意味を気にする様になっていた。
客引きのための店頭に出された棚という事もあるのだろう、哲学や思想に関連した書籍は多く見つける事が出来なかったが、彼はそれでも書物を前にする喜びを、そこに記された想いを読み取る喜びを不思議な懐かしさと共に感じていた。
優に半時間は経っていただろう、感情をことごとくそぎ落とした印象のデュラスの文章を夢中になって追っていた彼のすぐ横に一人の姿が現れた。知る限り、彼の後では初めての客だった。ごく若い女性らしく、何気なく目の端で見た白いパンツルックが目に眩しかった。そして彼と触れ合わんばかりの真横に立ち、棚の中を探し始めていた。彼は心持ち身体をずらして場所を譲りながら、新客を気に掛ける事もなく依然、手に持つ本に向かい続けていたが、少ししてその視線が下方の台にではなく、店のガラス窓に映る自分自身にじっと向けられているのにふと気付いた。
不意の出来事にひどく慌て、しかし訝しげに顔を上げると、反射光の中でお互いの視線が合わさり、次いでその表情が次第にはっきりと見えてきた。そしてそれと共に大きな驚きが彼を襲った。他ならない、彼女の姿を見い出したからだった。
そこにはミキが立っていた。それも自分のすぐ真横に…。襟を大きく広げた薄手の綿のブラウスは陽光に煌くターコイズ色で、海を常に想わせる彼女に良く似合い、湘南の娘そのものだった。
「こんにちは」
伺う様な笑みを前にして、言葉にならない様々な感情と、安堵にも似た大きな喜びが彼を瞬時に包むのが分かった。対して彼女は、そのはっきりとした変化を目にしても不満げな、どこか寂しげな瞳で彼の事を見守っていた。
「やあ」
「昨日はついに来てくれなかったのね」
「本当にごめん。顔を出したかったんだけど、ちょっとした手違いが見つかって、仕上げが長引いちゃったんだ」
「本当にそれだけ?」
「ああもちろんさ。結局朝の四時過ぎまで掛かったんだ。そんな時間じゃさすがにもう閉めてるだろ?」
「まあね」
「だから朝、海岸まで君を探しに行ってもみたんだ」
曇っていた彼女の表情に突然、明るい輝きが差し込むのが彼にははっきりと判った。
「えっ、本当?」
「でも君はいなかったろ?」
「じゃあ無理してでも行くべきだったのね」
「そうだね」
「意地悪。気分が重くてとてもそんなじゃなかったのに…」
不安そうでもあったその視線は、今は柔らかいものに変わっていた。彼自身はそれを知ると、彼女の彼に向けられた想いが、そして自分の彼女への感情が、紛れもない、愛情という名の下に存在していると確信した。気恥ずかしさと、自身の存在感への不安を交錯させながらだった。
小麦色の美しい首筋の上にくっきりと浮かび上がって見える細いネックレスの鎖の銀色に激しく心を乱されながらも、彼は努めて平静を装い、彼女に尋ねた。
「買い物なの?」
「散歩と半々」
「車で?」
「冗談でしょ。もちろん歩きよ。何で?」
「いや、休日の君なら車を乗り回していそうに思ったからさ」
「知ってる? 必要時でなければ、ここでは車は結構不便なのよ。それに私自身はそんなに乗らないの」
「意外だね」
「どちらかというと、のんびり歩いてる方が好きな性質でもあるし」
「ふうん」
彼女は彼の瞳の奥を探る様に見やりながら静かに言葉を続けた。
「私ね、今夜は店を閉めようかなと考えてたの。だって愛美さんは休みだし、独りでやっても時期が時期だから、下手に混んじゃうと困るし…」
「昨日の事もあるから、今夜は早めに行ってみようと考えてたんだ。君に謝らなくてはいけなかったしね。じゃあ、もしここで逢ってなかったら…」
「もうずっと会えなかったかも…」
一瞬の沈黙があった。お互いじっと見つめ合っていた。少しして彼女がぽつりと言った。
「でもそれなら、開けといたかも知れないわ」
「頼むからもうこれ以上胸を苦しくさせないでくれよ」
「お仕事は終わったの?」
ふと話題を変える調子だった。
「えっ? ああ、終わったよ。やっとね」
「どんな気持ち?」
「何とか漕ぎ着けたって所だけど、満足感はあるよ。充実した気持ちと一緒にね」
それから彼は息を飲み込むと、彼女の瞳を再び見据えながらはっきりとした口調で言葉を続けた。それは彼の現在がどうあれ、彼女に伝えたかった言葉に他ならなかった。
「でも一方で君の事をずっと考えてもいたんだ。どうしているだろうって」
「嬉しいわ」
素直な喜びの表情が、その小柄な体から瞬時に湧き上がるのを彼は目にした。そして自分自身の奥底からも自然と笑みが現れた。彼女が彼に言った。
「少し歩かない?」
「いいよ」
いつもの愛らしい笑みを浮かべると、彼女は突然彼の腕を取り、引っ張る様にして古本屋の店先を離れた。そして通りの中央へと歩き出た。その軽やかな動きと姿は、純粋で無垢な、恋愛とその苦悩を共に感じ、同時に楽しんでもいる女子学生を彼に思わせもした。
「携帯の番号を聞いておくんだったわ」
「それは僕も思ったよ。でも、だったらどうしてた?」
「来てくれるまで電話を掛け続けていたかも」
「じゃあ、それこそ今頃はまだ机に向かっていたんだろうな。必死の形相で」
明るい笑い声が起こった。彼女は彼にもたれる仕草を見せながら甘える様に言った。
「しなくてはいけなかった事が終わったのなら、今日は一日私に付き合ってくれるのよね?」
「ああ、もちろんさ」
「私、わがままじゃないわよね?」
「いいや、全く。僕も君とそうしたかったんだ」
「じゃあ、どうしたい?」
「君の好きな様でいいよ」
彼女は一瞬、悪戯っぽい表情を見せた。それから何か思い付いた様子ですぐさま目を輝かせて言った。
「分かったわ。今から素敵な場所に連れてってあげる」
二人は細道を抜けると、踏切へと向かって並んで歩き出した。溢れる想いがそうさせるのか、交わす言葉が途切れる事はなくなっていた。そしてその楽しげな後姿は、他人には幸せそうな一組のカップルとしか映らないのに違いなかった。
一時間後、彼らは長谷寺の境内を訪れていた。
鬱蒼とした緑に包まれた小山の中腹に突き出る様に位置する本尊の前の展望台からは、山と海辺に囲まれた鎌倉の町全体と、その向こう側に位置する逗子、葉山方面が同時に一望出来ていた。素晴らしい天候のせいもあるのかも知れない、様々な観光客が普段に増して多くいる様子だったが、それらに混じって彼女は海原を遠方に従えた柵の前に立ち、一心に一面の光景を見やっていた。
やがて後ろに立つ彼に振り返り、面白そうに微笑みかけながら彼女は言った。
「私とこんな場所にやって来るなんて、まさかも思わなかったんでしょ?」
「どうかな。少なくともここまで歩きとは思わなかったけど」
「あら、健康な人間の散歩にはちょうどの距離じゃなくて?」
「多分ね」
彼の気のなさそうな返答に彼女は思わず小さな笑みを漏らした。立ち止まる事の殆んどなかった数キロの道のりの後でも彼女は至って涼しげな顔を見せていて、今は心から気分良さそうに湘南の一大パノラマとその静かな自然に身を任せていた。そして辺りと全く違和感なく同化している姿を彼はじっと見守り続けていた。
「どうあれ、この一帯の空気と静けさは君にとても似合うものだと思うよ」
「あら、そう?」
彼女はどこか嬉しそうだった。
「私ね、鎌倉ではこの場所が一番好きなの。ここに越して来て初めての散歩の途中に何気なく訪ねて、心洗われる想いを感じたの。で、それから数日間は毎日通い詰めもしたわ」
「確かに素晴らしい場所と風景だけど、何故だい?」
「分からない。でも豊かな木々に護られた本堂と、それが悠然と見渡す町全体が一つになって溶け合っていて、私自身は何か小さな世界に身を置いて、そこを漂う気持ちでいたの。思えば何時間もここにいてぼうっとしていたわ」
「故郷とかを考えながら?」
「少しはね。でもそれよりも、私が以前に身を置いていた、それから訪ねた事のある場所の全てを思い出していた様に思うの。その時々の自分自身を思い出しながらね」
真昼の陽光に目映く輝く海原を再び見守り続ける彼女の視線は透明なまでに穏やかで、また透明なまでに鋭くもあった。それはあたかも、目の前に立ち現れている不明確で巨大な「何か」を自らの存在をもって受け止め、相対している風情だった。
一体どういう人生を、そしてどういう時間を経て彼女は現在を迎えているのだろう。
決して服装のせいだけではない、人々に混じっていても明らかに洗練された、垢抜けた印象を与えながらごく自然に柵に身を投げているその姿を前にして彼はそう自問していた。そして何かの拍子にふと漂わせる寂しげな空気や表情が、その過去が決して明るさや輝きばかりに満ちたものではない事を静かに語っているのを漠然と感じてもいた。と同時に、彼は彼女の傍にいて、現在の年齢に至るまで波風なく、いやむしろそれを敢えて避けながら過ごして来ているとも思われる自らを恥ずかしく感じていた。思えばあの朝浜辺に並んで座り、何気ない会話を始めた時から既にそうだったのかも知れない。それは彼自身の人生が、前もって敷かれたレールの上を全く規則正しいスピードで、且つ一つ一つの地点を定刻通りに過ぎながら進んで行く列車に喩え得るからに他ならなかった。
それはそれで誇るべき事である筈だ。
実社会の中で出会う様々な人々を前にして、それまでの彼は、時に一抹の優越感すらも感じながらそう信じて生きて来ていた。そしてその流れに従っていさえすれば、先には確かな終着点が彼を待っているのだとも。たとえ今時点で既にその全容が容易に見えていようとも。大切なのは、この不確かな時代の不確かな人生に出来る限りの安定と保証を確保しておくこと…。
しかしこの場所に佇む様に存在している目の前の彼女、突然彼の心の中にその位置を占め、次いでその不可思議な存在感をもって彼に真の人間とは、そしてその存在を続ける意味と喜びが何であるのかを絶えず問い掛けて来る心乱す一生命体を知り、自分の現在が果たして本当に意義ある時間を伴って経てきたものであるのか、あったのだろうか不安にさせられてもいた。
順風満帆な人生も所詮は一つの人生に過ぎない。そして波乱や苦悩に満ちた人生もまた一つの人生なのだ。それが一つの生命に唯一の選択となって起こり得る事として考えた時、そのどちらもが掛け替えのない、価値あるものなのではないのだろうか?
そう思うと彼は、自分より少ない年齢の内に経験した色々の多さで勝るに違いない彼女の事が羨ましくもあり、その奥底に秘める豊かさ故に、劣等感に近いものを突如感じてもいた。
「どうしたのよ。突然黙りこくって。考える様子でいて」
振り返った彼女の問い質す様な声が耳に響いた。彼は少し慌てながら、黙ったまま彼女に微笑み返した。
「大方仕事の事考えていたんでしょう、違う?」
「いや、それはもうようやく済んだんだから」
「じゃあ何よ、彼女?」
「そんなのいやしないさ」
「あら、それって寂しくない?」
彼女は明るい表情を見せながら笑い出した。ここまで陽気な姿を見るのは彼には初めてな気がした。そしてそれが自分といる事で起こっているのであって欲しいと願いながら、同時にそれをすぐ間近で見守る事の出来る喜びを感じていた。
柵から離れると、彼女は彼に近寄りながら言った。
「ねえ、お腹空いたでしょ? もう午後になってるわ」
「そういえばそうだね」
「何よそれ。まるで気のない様子ね」
「いいや、決してそういうわけじゃ…」
「どうかしら」
展望台を常に背にしながら両腕を背の後ろに回し、彼女は彼を悪戯っぽく覗き込む様に見つめた。次いで音節をわざと区切らせながら勿体ぶった口調で彼に尋ねて言った。
「じゃあ、あなたに場所を選ばせてあ・げ・る。海辺のレストランと私の部屋、どっちがいい?」
恣意のない純粋な笑顔と単刀直入なその問い掛けを前にして、彼は胸の高鳴りと苦しみを再び感じ始めた。そしてそれは今まで以上に激しいものになっていた。視線の強さから感じるに、彼女にとってはその選択のどちらにも意味がある様子だった。
「今日は時間も余裕もあるんでしょ?」
「ああ」
「それともどっちもいやかしら?」
彼女は彼の一瞬の沈黙に瞳を大きく拡げ、彼を再度覗き込む様に見やった。彼は慌てて答えた。
「そんな事は決してないよ! 全くその反対さ。ただ余りに素敵な誘いに面喰っているんだ」
「本当に?」
「誓って」
「なら取り敢えずここを出ましょうよ」
間違いない、安堵にも似た笑顔を見せた彼女は、言葉と共にすぐさま彼の腕を取り、本堂を拝観しようとする人々の間を縫って先にある階段へと向かった。前方に見える鎌倉の町の中心部に面した石造りのそれは段の幅が狭い上にかなり急で、注意して下って行かなくてはならなかった。しかし彼女は彼の腕にすがりながらも軽やかに、飛び跳ねる様に進んでいた。そして二人が一つそれを下る度にまた一つ、のんびりとした古都の街の全体像が水平線に重なり合っていた。降り切った場所に拡がる、小庭園にも似た美しい空間では、洞窟の入り口や小さな池の周りを子供たちが駆け回ったり、立ち止まってはその中を興味深そうに覗いたりしていた。どうやら家族連れも多い様子だった。
風情ある木の門をくぐって出ると、出入り口右横には午後最初の便なのだろうか、観光バスが横付けされ、様々な人が降り立ってグループを作っていた。その光景を右手に見やって歩き出しながら彼が彼女に言った。
「やっぱり有数の観光地だけの事はあるね」
「確かにね。でもどうあれ、私はこの小ぢんまりとした世界が好きだわ。まるで何かから護られる様に、海と山々に囲まれたこの鎌倉という場所がね」
「だから嘗ては幕府もあったんだろう?」
「そうね。でもそれ以上に、八幡宮を始めとした多くのお寺がまるで海に面して、海を意識するかの様に佇んでいる事に何か特別な意味があると思われて仕方ないの…」
「たとえば?」
「たとえば…、それぞれの人の心の内に秘められた想いが海の拡がりの中で優しく包まれ、ゆっくりと癒されて行く様な。そしてその無垢になった姿が再び私たちの住むべき場所に戻って来るのをじっと待ち続けている様な…」
彼はその言葉に驚いた様に彼女をじっと見つめると、やがて静かに言った。
「君の家に行ってもいいかい?」
柔らかい、そして満足げな笑みが沈黙の中の頷きと共に答えとなって返って来た。それから彼の腕を強く握りながら彼女は続けて言った。
「じゃあ一回鎌倉駅まで戻って買い物に付き合ってね」
「いいよ」
江ノ島電鉄、長谷駅前を横切る街道と交錯する信号を渡ると、二人は和田塚近辺を抜けて鎌倉へと続く道路に沿って歩き始めた。それは溢れるばかりの観光客とそのざわめきとは全く対照的な静けさに囲まれたこの場所にやって来るのに通って来た道でもあった。そしてその沿いにはマンションなどに混じって所々に、地元を感じさせる個人店舗が点々と建ち並んでいた。骨董品や和菓子のそれ、洋風なアンティークショップなどだった。また時折、乗客を一杯に乗せたレトロ風な路線バスが高徳院大仏前を目指して二人の横を通り過ぎてもいた。
十五分程度、道が導くままに歩き続け鎌倉駅に近づくと、彼らは小さな踏切が少し先に見える六地蔵のY字の交差点で左に曲がり、御成小学校の古い木造校舎が左手に見える道路を進んだ。そして駅前から真っ直ぐ伸びる道と交わる十字路の交差点を渡り、駐車場を前にして横たわる様に建つスーパーマーケットに入って行った。
半時間後、店から出て来た二人は、出口から続く緩やかなスロープを下りながらもう堪え切れない様に噴出していた。各々の両手は持ち切れない数の茶色い紙袋で塞がっていた。彼女は簡単な食材やデリフード、ワインなどと共に、菓子やパンなど、目に付いたものを手当たり次第にカートに投げ込み、彼を仰天させていた。
「まるでストレス解消の買い物だよ! 少なくとも二週間分の食料がこの手の中にある」
駅前商店街を通って下馬の踏切まで戻って来ながら、彼は可笑しそうに言った。午後の強い陽光のせいで、額には再び汗がにじみ出していた。
「かもね。だれかさんのせいで」
「じゃあ、僕のせいだって言うのかい?」
彼女は両腕一杯で紙袋を抱えて持ち、その中に埋もれる様子でいて、目にしてひどく可愛らしかった。彼は彼女を強く抱きしめてみたいという、男として余りに純粋な欲望が今は抑え難いまでに沸き上っているのを理解していたが、努めてそれを押し隠そうとしていた。一方、彼の右横を常に歩く彼女は彼を絶えず見やりながら、その柔らかな笑顔を絶やす事がなかった。
「冗談よ。私、考えながら買い物するのは好きじゃないと思うの。いつも店に入って、これだって感じたものだけを選んですぐに出てきちゃうから。だから、女友達なんかと連れ立って歩くにはひどく不都合な相手かもね」
「まあ、男にとっては理想的な買い物相手なのかも知れないけどさ」
「あら本当にそうかしら? もうずっと前の事だけど、銀座にいた時、お得意さんがどうしてもって言うから自分の誕生祝いのネックレスを選びに近くの店まで一緒に行ったのよ。で私が三分もしないうちに選び出したら、その人、何故だかひどくがっかりしてたわ」
彼はその口調に思わず声を上げて笑い出した。きょとりとした視線が彼に向けられていた。
「それは当然さ! 彼は迷いながら選ぶ君の姿を少しでも長く見守っていたかったんだから」
「でも仕事中に抜け出してだったし、周りの娘の視線もあったから…。あの人には悪いと思ったけど、とてもそんな悠長に構えてられなかったのも本当なのよ」
「でもそれって夢の様な日々だな」
彼女は彼を一瞬睨む様に見やると、すぐさま応えて言った。
「それはね、内情を知らない人が言える事なの。私にはもうたくさんだわ」
「戻ってみようって考えた事はないの?」
「全然。不思議とね。ママとは今でも時々会って話をしたりするのにね」
若宮大路から続く歩道を二人は由比ガ浜に向かって進んで行った。その足取りはそれまでと全く同様だった。ただ彼女は、海が徐々に近付くに従ってそれまで以上に顔を前方に向けていた。いつものどこか遠くを眺める視線がそこに現れていた。彼はふと気付いた様に言った。
「思えば、今日はずっと同じ道を行き来しているよ」
「そうなの?」
「でも行きと帰りにこれだけ異なった心と想いでいるのは初めてだけど…」
「それが大事じゃなくて?」
「うん、多分ね。とにかく今は、もやもやとした雲が消え去った気分なんだ。この空みたいにね」
彼に顔を再び向けてその晴れやかな表情の存在を確認すると、彼女はそっと微笑んで言った。
「私って結局、自分に合った生活しか望まない性質なのかも知れないわ。あの日々にはもう何の未練もないし。それよりもここで静かに、そして好きにしている方が何倍も幸せだって考えてしまうのよ。今のこの時間の様にね。もちろん、あの頃の生活の恩恵があってこそ出来ているのは間違いないんだけど」
「それも君が掴んだ幸運だと考えるべきなんだろうね」
「かもね。なら出来れば、あなたにもいつかはそうであって欲しいの」
「うん…」
午後の三時近くになった由比ガ浜は、依然、大学生が中心なのだろう、主に若者たちで埋め尽くされていた。国道に背を向ける様にして建ち並ぶ海の家からは陽気なラテン系のリズムや今流行の曲が高らかに流され、辺りの活気と共に、言葉のままの海水浴場となっていた。そしてそれは彼がこの滞在中、早朝の時間に見たものとは全く対を成すものでもあった。
「どうやら湘南の夏がやって来たみたいだね」
「その様子ね」
二人は浜辺沿いの車道横を歩いていた。少し行った先の材木座海岸には家族連れの姿がより多く見え、幼い子供たちが砂遊びやボール投げにはしゃぎながら興じていた。
「日中の海は嫌いなのかい?」
「えっ、どうしてよ?」
彼の不意の、そして予期しない問い掛けに彼女は驚いた表情で横を見やった。その言葉が意外そうな様子だった。
「なんでそんな事聞くの?」
「いや、別に。ただ、いつもの海を見やる視線とは何か違うからさ」
「あら、そう?」
複雑な笑みが浮かんでいた。やがて少し肩を上げると彼女は続けて言った。
「どうなのかしら。でも私には、人気の少ない海辺の方が馴染みあるのは確かかもね。そしてそれがいつも見慣れているものでもあったし。故郷やここでも。そう、ここでもすでに何度かの四季を通してね」
彼は彼女の故郷について尋ねてみようかと思い、結局止めた。理由は分からなかったが、そうする事が現在の彼女に何か重いものを投げ掛ける気がふとしたのだった。
実際の所、彼女はこれまで隠す事なくその過去を点々と語ってはいたが、故郷や家族については不思議と殆んど触れていなかった。避けている様子ではなさそうだったが、自分についての話題として取り上げる気がなかったのも確かだった。
ならもしその不可思議で漠とした存在の秘密がどこかにあるとすれば、そこになるのだろうか? そしてその思い出、又は過去にしばしば苦しめられながら現在の日々を送っているのか?
しかしどうあれ、今ある幸せを彼女が彼女なりに理解し、感じられて過ごせていられるならば、それはそれでいいのではないか?
浮かんで来る幾多の問い掛けに彼自身はそう考え、そう結論付けていた。それは目にする彼女の表情に絶えず浮かぶ、明確な意識の存在を伴った無垢な明るさゆえにだった。そしてその彼女は今の時間、彼のすぐ横で、波打ち際で遊ぶ子供たちの姿を、まるでその中に入って一緒に遊んでいるかの様に、楽しげに見やっていた。
一昨日の深夜と同様に海辺から離れて細道を幾つか行くと、やがて彼女の住むマンションに辿り着いた。そして最上階の彼女の部屋を訪れると、二人は示し合わせたかの様に食事の事など忘れて買い物袋をソファーに投げ出し、窓とカーテンを一杯に開け放った中、水平線まで続く太平洋の海原を目の前にしながらベッドの上に身を投げた。そして長い時間、目に映る光景を並んで横たわったままじっと見守り続けていた。