表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/5

2.深夜に彷徨う心

   2. 深夜に彷徨う心


 その日の夜、宿泊先での夕食を終えた彼は、一旦部屋に戻るとシャワーを浴び、服を着替えてから建物を出た。陽は既に落ち切っていたが、正午に戻って来て以来初めての外出だった。

 真夏の様な一日だったのかもしれない、エントランスの自動ドアを開けた途端に感じた外気は、長時間の快適な室内空調に慣れた体には殊更重く、ひどく蒸し暑く感じられた。それでも彼はその中を、気が向くままにぶらぶらと小坪から逗子マリーナ方面へと歩いて行った。海辺の観光地とはいえそれを前面に押し出している街ではないので、家々の間を抜けて走る曲がりくねった細い道路の多くは明かりに乏しかったが、それに対して、辺りの生活の静けさには常にしっとりとした空気が漂い、思考作業に疲れ切った彼の頭にはひどく心地良かった。そしてそれは同時に、その心と身体を包み込む様に、かつ癒すかの様にだった。懸案のレポートは、遂に文章ファイル作成を終え、全体の最終見直しに取り掛かり始めていたので気分はとても軽かった。


 大きなガラス窓とバルコニーを持つマリーナの白い建物群に所々明かりが燈る中を通り抜けて辿り着いた、灰色のコンクリート造りの防波堤の周りには全く人気がなかった。この時間、ここまで散歩に訪れる人はいない様子だった。彼はその場所に両腕を乗せて身を預けると、まとわりつく海の湿気を感じながら太平洋の海原を暫くの間じっと眺め続けた。別段何かを想っていた訳ではなかったが、今日まで最大限に貯め込んだ仕事上の疲れを解き放つことは望んでいた。

 目の先に拡がる紺色の海原は、深い闇の中、大崎に隠された逗子や葉山近辺の、そして彼が現在いる場所を背にした由比ガ浜から稲村ガ崎、江ノ島へと続く目映いばかりの光源から地形的に隔離されているせいかも知れない、雲の合間から覗く月のそれと、ぼんやりと浮かぶ左手前の漁港からの、そして少し寂しくも映る三浦半島の先端沿いにほんの点々と燈るそれらだけを受け、その表面を透明に輝かせながら静かに揺れていた。一定のリズムを持って耳に届く波打ち際の小さなさざめきと共に、その光景はどこまでも美しかったが、何かひどく不気味でもあった。それは、人里がすぐ近くにあるにも拘らず、彼に、見知らぬ宇宙の広い一空間にたった一人放り出された様な、取り残された様な印象を与えてもいた。いつか江ノ島の上方から見た、湘南の浜沿いを軽妙に縫って延びて行く黄金色に輝く光の帯の煌びやかさとは全く異なるものだった。近くにあるのだろう、商業施設から微かに聞こえて来る陽気なアメリカン・スタイルのリズム感ある音楽が唯一、彼のこの世界での存在を彼自身に教えていた。


* * * * * * *


 文章の中で何らかの想いを記した訳ではなかったが、彼は今回のレポート作成業務を通じて、社会に出て以来、いや恐らく学生だった頃からを通しても初めてなのに違いない、自分自身を、そしてその考える所を、臆する事なくはっきりと表せた気がしていた。間違いない、彼にとって極めて大きな挑戦だった。


 自分を表現するのが不得意な少年…。

 物事をひたすら詰め込む様に学び続けることが勉学であると幼少の頃から教えられ、それに素直に従って来ていた彼にとって、人前に立って自分の想いを示すことは常に難しい行動だった。小学生の時から既に勉学の合間にコンピューターをいじり、多くの時間をゲームなどに費やしていたのも一因するのかも知れない、他の人間の異なる考えにはさして興味を持つことが出来ず、問われた物事に関してのみ正確に答えるのが得意な少年として彼は育っていた。そうは言っても、勤勉さと実直さは決して失うことはなく、それ故に教師たちにはむしろ可愛がられもしたが、ある段階でその内に蓄えた色々を根源とし、且つ己の意思、思想を持って新しい何か、乃至は固有の考えを生み出すなどという作業は、進学を続ける間、どう試みても自身の想像と能力を遥かに超えるものだった。大学生時代には、その業績を知るが故に、恩師たちに尊敬と憧れを絶えず抱きながら電気工学を熱心に学び続けたが、自身の責任で行う研究発表、それを通した問題提起などは結局一度もせず、その様な大それた事は自分には全く縁がないと考えてもいたのだった。それでも極めて優秀な成績で卒業してからは、現在の会社に入社し、そこでは上から求められる結果を短時間に導き出すのを何よりの第一の目的として、尽きることのない研究に、しかし忠実に没頭していた。


 自分を押し出す欲がない?

 その様な彼がいつからか、生理的に何よりも嫌っていたのは、自分を余りに押し出す人間の存在だったのかもしれない。その行為は周囲の空気を無神経に汚し、他人の行動や想いを残酷なまでに虐げる様に思われていたのだった。そして、勉学や業務を通して交友を持ったアメリカ人学生や、いわゆる一流大学出の同業者の態度を目にしてからは特にその想いを強めていた。

 彼らは時として、その知識や社会的言動の責任を考えれば大いに疑問を抱かずにはいられないのに、余りに自信に溢れ、自己中心的な態度で周りに臨み、他人の意見に対してはしばしば鷹揚なまでに、残酷なまでに排他的である様に彼の目には映っていた。

 無意識の内に抱いた違和感と嫌悪感…。ただ実際に社会に身を置き、その十年に満たない経験の内に彼が知りもしたのは、その内容は大きく異なるとはいえ、それと同様の態度や光景を生活空間の中でも始終目にしなくてはならない事実であり、それが彼にとっては意外な驚きでもあった。物理という学問を選び、一つの事象にじっくりと向き合うのを本業に選んだ彼には、この様な人間の人となりに関する問題は大して縁のないテーマなのかも知れない。自身もずっとそう考えて来ていたのも事実だった。どうあれ、様々な人が限られた領域の中で生きて行くためには、己を主張する必要がしばしば求められるのはある意味では仕方のないことである。むしろ必要でもある。かくして自身も、必要に駆られてその様に日々の中で行動している筈だ。しかし自分が属する会社でさえも、自己の能力を顧みない、思わず目を背けたくなる様な感情的な対立と言葉の応酬、裏で密かに他人を蹴落とそうとする試みなどが頻繁に繰り返され、そしてたとえそれらが彼らの属する会社や社会に対する強い想いから発せられているのだろうではあっても、「主張」の本来の意味を大きく外れた、周囲を前にして無神経で過激でもあるそれが当然の様にまかり通っているのは、直接の影響を受けている訳でもないにも拘らず、彼にとって耐え難いものに感じられていた。その様な態度を通して、自分自身も誰かから常に監視されている気がして仕方なかったのだった。そしてその想いを更なるものにしていたのは、それらの態度や行動が、必ずしも自分が好意を抱かない、抱けない人間だけでなく、ごく親しい、友人とも考えていた者の間にもしばしば見られてしまう事実でもあった。

 人は当然のこと、様々である。様々でなくてはいけない筈でもある。それに対して、譲歩も見せ合わない、見せ合うことの出来ない一方的な判断や独断的な選り好みが一体何になるというだろう。そして日常の生活のごく小さな社会でも同様の事が見られると思われてしまう昨今において、自分自身も知らず知らずのうちに自身の知識や頭でのみ周りを判断し、他人から見れば同様に思われる振る舞いや態度を取っているのではないだろうか。いやそれ以前に、そうしながら現在に至っているのではないのだろうか…。

 特にこの近年、言葉に出来ないある種の後悔の念、他人に表し様のない圧迫感、閉塞感に覆われていた彼にとって、それ故に、今回の仕事が彼に与え、語るものは、自身が思う以上に大きい様に感じられていた。


* * * * * *


 十一時を回った頃、彼はようやく彼女の店を訪れてみることに決めた。この時間まで行きたい気持ちを抑えて見知らぬ土地をふらついていたのは、客の引けた中、また二人きりで話が出来ればとの期待を抱いていたからなのではないだろうか。そう自問していた。そして、時として子供のそれにも似た屈託のない笑顔や仕草が同居する彼女の、不可思議な大人としての美しさ、優雅さが一体、どこから生まれて来ているのか考えていた。自分には全く未知な存在であるのを認識しながらだった。


 真っ暗なトンネルを抜け出ると、深い紺色の闇が再び現れた。しかし今度は左手に材木座の海岸を抱き、その先には由比ガ浜、稲村ガ崎が続いていた。そしてその岸辺側には、道路に沿ってこの時間でも明かりが煌々と灯っていた。それは黒いサテン地の上に並べられた真珠の様にも見え、きらきらと光り輝いていた。

 国道を横切り、道なりに少し行った先にある建物の表扉横にある木枠の小窓から覗いてみた内側は、彼のささやかな希望に反して、週末、最後の平日ということもあったのだろう、未だかなりの賑わいをみせていた。そして陽気な話し声と笑い声が時折外にまで漏れて来てもいた。軽い失望の混じった躊躇ためらいもあり、彼はどうしようか一瞬迷ったが、朝の約束を反古にするのも後ろめたかったので、あのどこか甘い感情に満ちた時間を思い出しながら、意を決して扉を引き開け、中に入って行った。その音は一瞬、赤ら顔の客たち全員の注意を引いた。

 「いらっしゃい。今晩は」

 彼女の挨拶は、ごく短い、しかし暖かなものだった。

 今夜は白地に紺色の線が入ったマリン柄のTシャツを身に付けていた。それは洒落た水兵帽と共に、他所行きの装いの年端の行かない少年を思わせもし、ひどく愛くるしかった。そして先客である年配グループのテーブルの横に立って彼らと談笑していたが、彼の姿を認めると、一瞬、驚いた様な、ひどく真剣な表情で彼を見つめ、それから優しい、どこか嬉しげな笑顔を浮かべていた。カウンターを指し示しながら彼女は彼に言った。

 「そこでよろしいかしら?」

 黙ったままの笑みで答えると、彼は、古木を切り出してニスを塗った焦げ茶色のカウンターテーブルに向かい、その端に座った。この手の店に慣れてないのもあるのだろう、どこかぎこちない動きだったが、今ある店内の雰囲気の良さと共に、居心地の悪さなど既に感じ様もなかった。様々な色と形の壜が並べられた目の前の棚の上部中央には、からくり仕掛けなのだろう、木製の古時計が掛かっていた。そしてそれは、残り少なくなったこの日の時間を微かな音で刻み続けていた。

 客たちは既に自分たちの話に再び没頭し始めていた。カウンターの反対側の端にある、ドリンクや料理を出すための小さなカウンターの奥では、昨夜もいた女性が、注文を受けた飲み物を作りながらもう一つのテーブル席に陣取る若い男たちのグループと楽しげに会話していた。愛想の良い笑顔で彼にも挨拶を送る彼女は、女主人よりも少し年が上そうだったが、二人の息は、店内の暖かさからも感じられるままに、ぴたりと合っている様子だった。

 「ジントニックでいいのかしら? それともギムレット?」

 背中から再び声がした。昨夜は数種類の飲み物を頼んでいたにも拘らず、彼女は彼の好みを把握している様子だった。隣に座った同期の人間としていた飲み物の好みについての何気ない会話までも彼女は耳にしていたのだろうか…。

  ジントニックがいいかな」

 「もう少ししたら空いてくると思うわ」

 彼にそっとそう言うと、彼女はカウンターに注文を伝え、それまでいたテーブルの傍へと戻って行った。そして男たちと再び会話を始めた。酔いのせいかも知れない、明るく楽しげな年配者の太い声は時として騒々しいまでに高くなったが、それを優しくたしなめる彼女の声はどこまでも落ち着いた、しかし相手に厭味を感じさせることのない穏やかなものだった。男は気付く度に辺りを見回し、恐縮した様にすぐさま声音を落としていた。

 店に入った時から、いや、隠すさずに言うならば、宿泊施設の部屋での午後一杯の時間からこの瞬間に至るまで、その夜の彼女が彼に見せるだろう態度は彼にとって大いに気になるものだった。そして今し方接したそれは、一瞬の当惑でも確かにあった。朝の誘いは、やはりどこでも聞かれる、「親しい客」への「外交的な言葉」だったのだろうか。彼はふと思ったが、しかしそれに反して感じるのは、時折彼女がさり気なく彼に投げ掛ける、受けてひどく心地の良い、柔らかな微笑と視線だった。新鮮なライムの果汁が混ざり合い、その香りが仄かに立ち上る飲み物を彼はゆっくりと楽しんだ。そして店内の落ち着いた、趣味の良い調度品の数々を眺めながら、頭の中では、殆んど終わりまで達しつつあるレポートの最後の仕上げを暫くの間考えていた。


 「さすがに週末は暇ではないわね」

 深夜の一時を少し回った頃、彼女は彼の隣にやって来ると、誰に言うともなしにそう呟きながら椅子に身を投げる様にして座り込んだ。ひどく疲れた表情が浮かんでいた。早朝の無理な運動のせいもあるのだろうか。彼はその姿を笑みで受けながら答えて言った。

 「でも、いつも忙しそうな印象があるんだけどな」

 「あら、昨日、今夜はたまたまよ。いつもはもっと暇なんだから。ねえ、愛美さん?」

 「はいはい、そういう事にしておきましょう」

 慣れた手つきで片付けを続けながら、カウンターの中からもう一人の彼女が顔を見せ、笑みを漏らしてそれに応えた。そして彼を見やると、ウインクをみせて言った。

 「実を言うとね、ママ目当てのお客さんだけでも十分商売になるのよ」

 「ママはやめてって言ってるじゃない。年寄り臭くて本当にいやなんだから!」

 三人の明るい笑い声が瞬時に店の中一杯に広がった。客は既に皆引け、彼らだけになっていた。

彼女は最後に残っていた一行が立ち去ると、この時とばかりに素早く表に出て看板を裏返してい

た。

 「週末はうまく時間を見計らわないと朝までコースになっちゃうのよ。さあ、愛美さんも終わりにしましょうよ。明日もあるんだし」

 「ええ、これだけ済ませたら」

 「じゃあ、僕もそろそろ行こうかな」

 「あら、もう帰っちゃうの。やっと時間が出来たのに」

 彼女は驚いた様子で左横の彼を見やった。その言葉が意外であるかのにだった。押さえ様のない喜びを胸一杯に感じながら、しかし彼は言った。

 「でも、もう終わりでしょう?」

 「あなたはいいのよ、特別待遇。一人ぼっちの私の相手してくれた朝のお礼。急ぐのでなければゆっくりしてって」

 凡そ抵抗し難い笑みが目の前にあった。

 「ママ…、じゃなかったわね。ミキさん、私は行くわね」

 拭き取り用のタオルを洗い物の上に掛けると、愛美はそそくさと帰る準備を始めた。

 「あら、何か飲んでかないの?」

 「いいわ、遠慮しとく。今日は旦那も帰って来てるから早くしなくちゃ…」

 茶目っ気のある表情で二人を交互に見やりながら彼女は付け加えて言った。

 「それに折角のいい空気を壊すほど私は意地悪くもないしね」

 「それはどうもご親切に!」

 二人の女性は、茶化した口調と共に意味あり気に見つめ合うと笑みを交わした。彼は所在無げに、玩んでいたグラスを口元に持って行くと両肩を上げ、彼女の横顔をちらりと見やった。今朝見守り続けていた寛いだ様子がそこには既にはっきりと浮かんでいた。

 「いつもごめんなさい。遅くまで付き合ってもらっちゃって」

 「何言ってるのよ。いいのよ。私も好きでしているんだし」

 小さな布製のバッグを手に持った愛美は、カウンターの二人に片手を上げると出口に向かって早足に歩いて行った。そしてその途中で振って言った。

 「じゃあ、また明日ね。おやすみなさい」

 「おやすみなさい」

 扉を開けて外に一旦出た彼女は、ふと思い付いた様に振り返ると戸口から顔だけを覗かせ、彼に顔を向けて、意識的にだろう、少し声高に言った。

 「そういえばねえ…、ミキって見掛けに似合わず奥手な所があるのよ。結構ね。だからその辺よろしくね」

 「さっさと旦那の所へ帰ってちょうだい!」

 明るい笑い声と扉の閉まる音を残して、店の中は彼ら二人だけになった。天井から吊るされた二つのスピーカーから低めの音量で絶えず流れる音楽は、今は物憂げなボサノヴァに変わっていた。少しして外から、スクーターにエンジンの掛かる音が耳に届いた。彼は戸口を再び見やりながら言った。

 「いい人だね」

 「ええ。五つ上なんだけど、すごく気が合うの」

 「それは客としてここにいて良く分かるよ」

 「私の気付かない所を黙ってカバーしてくれるから、今は彼女なしでは何も出来ない気もしちゃうのよ」

 「どうやら羨ましいほどにいつも君は周りに恵まれているみたいだね」

 「どうなのかしら」

 彼女は控えめな笑みを見せると、静かに言った。

 「ごめんなさい、引き止めちゃって。私、またわがままを言っちゃったわね」

 「そんなことないよ。一緒にいれて嬉しいし」

 「本当?」

 彼女の二つの瞳が瞬時に輝きを放った。そして心からの笑顔があった。彼は胸の奥底からやって来る激しい疼きに耐えながら彼女と向き合っていた。

 「お仕事の方はどうなの? うまく行きそう?」

 「大方やっつけたから、もう問題ないとは思うんだけど」

 「じゃあ、明日からは私に付き合ってくれるのよね?」

 「えっ? まあ、日曜は大丈夫だと思うけど」

 「あら、日曜だけ?」

 「ひどく魅力的な誘いだけど、今回は仕事がらみで来てもいるからね。でも何とか頑張って、君のお誘いに応えられる様にはするつもりだけど…」

 「なら、そうしてちょうだいよ!」

 彼女は微笑みながら甘える様に言った。そしてすぐさま首をすくめて付け加えた。

 「やっぱり私って、わがままばかり言う様に出来てるのね」

 「僕はちっともそうだとは思わないけどな」

その口調に思わず笑みを漏らした彼は、彼女の見せる仕草や言葉の数々に「意識的な媚び」が僅かも認められないのに気付いた。それは思えば、親しく話す様になった当初からでもあった。この種の、人をもてなす、寛がせるのを主とした仕事に携わっている人間には珍しい様に彼には思われたが、尤もそれは自身の周辺で知る限りであり、時折上司に連れられて訪れる場所などでは、客やその招待者に対して細かい配慮が絶えず必要とされているから、比較など出来るべくもないのは確かだった。しかし今は何よりも、彼女の存在自体が常に至って自然のものに彼には感じられ、そしてそれは確かに、新鮮で心地良い空気を周囲に絶えずもたらしてもいたのだった。

先ほどの愛美という女性の言葉も間違ってはいない。人は彼女を求めてやって来ている。何故なら、その多くは誰かに静かに癒され、元気付けられるのを奥底で望みながら、日常の現実に立ち向かって生きてもいるのだから。

 彫像の様に引き締まった美しい彼女の横顔を感嘆交じりに見やりながら、彼は尊敬の気持ちと共にそう考えていた。

 一方、当の彼女は一日の営業を終え、ほっとしてなのだろうか、背のない椅子の中、両手で反対の肘を支えながら縮こまる様にして何かを考えている様子だった。それは物思いに耽る少女にも似ていた。そして視線は、辺りを見やりながらどこかうつろ気でもあった。何を想っているのだろう。二人の視線が交じり合った時、彼はそっと尋ねた。

 「疲れたのかい?」

 自らを覚醒させるかの様に、両の瞳を数度瞬きしてから大きく開くと、彼女はすぐさまみを再び浮かべ、彼に応えて言った。

 「疲れてないとは言えないわね。見知ったお客さんが多いと言っても、それはそれで大切なお客さんだし。神経も結構使わなくちゃいけないし…」

 「そのためにサーフィンが欠かせないのか」

 「ウィンドサーフィン。そうなのかもね。気分をすっきりさせるために。でも今日はやめとくわ。開けてからすぐに忙しかったのよ。あなたが来る少し前までずっとね」

 「やっぱり地元の人が多いの?」

 「場所柄、そうとも言い切れないわ。いくら由比ガ浜沿いに比べれば地味とはいえ…」

 彼女はくすりと笑いを漏らした。

 「こういう場所ってね、誰もが日常にはない空気や空間、でなければ何かを求めてやって来るものなのよ。だから私たちも、出来るだけ現実を思い出させない様に振舞わなくてはならないの。たとえ仕事の話をしていたとしてもね」

 「僕みたいに?」

 「昨夜はね。でも今は独りでいて、横にいる私も現実に戻ったんだから、今度は私にも夢を見させてちょうだいよ。朝の時間の様にね。取り掛かっている仕事の事を考えているんでなければだけど」

 「じゃあ、朝は楽しかった?」

 「ええ、もちろんだわ」

 「すごく嬉しいな。実は、僕なんかと話していて退屈したんじゃないかと午後一杯思ってたんだ」

 「何故そんな事言うの?」

 「さあ…」

 彼の返答を受けた彼女は、じっと彼の瞳を見つめると静かに言った。

 「少なくとも私には素晴らしい時間だったわ。一日の後に残る疲れを忘れてしまう位にね」

 「そうか」

 「あなた、自分に自信がないのね…」

 彼は一瞬、その言葉に驚いた様に彼女を見やると、グラスを傾けながらやがてゆっくりと頷いた。

 「うん、それは間違いないよ。だって頭にあるのはいつも仕事の事ばかりだし、一旦それから離れたら、何をしたらいいのかも思い付かずに時間だけが過ぎて行くのもしょっちゅうなんだから」

 「あら、それは確かに残念なことよね」

 「ああ。自分でも情けなくなりながら、本当につまらない毎日を過ごしてると思うんだ。そして何よりも、今している物事が自分にとって本当に正しいのかと考えてもしまうんだ。大学を出て以来ずっとかも知れない。で、それだからこそ、君が無性に羨ましく思えるんじゃないのかな」

 「だったら、今の生活を思い切って変えてみようとは思わないの?」

 「…!」

 どう答えればいいのか分からなかった。彼女が投げ掛けたその問いは、彼自身がずっと長い間自分に問いたかったものであったからだった。そしてそれを今、彼女の口から耳にし、心が落ち着きを失おうとしていた。暫くの沈黙を守った後、彼は手に持ったグラスを見つめながら重い口調でぽつりと言った。

 「それって簡単に出来る事じゃないよ…」

 「あら、あなたにはそんなに難しい事?」

 「だと思う。でもそれは、決して僕だけじゃない筈さ。とにかく僕自身は、色々に恵まれた君と違って踏ん切りのつけ辛い人間だし、たとえそう決断したとしても、それからの自分に一体何が出来るのかさっぱり分からないんだ」

 「でもそれは私だって同じよ。そして私自身も決して強い人間じゃない。独りでいる時には、余りの寂しさと怖さに、知らず知らずのうちに震え出してることもあるんだから」

 「君が?」

 「人ってやっぱり個々の生き物だと思うの。他の生物や植物と同じ様にね。でも「感情」というものを持っていて、それが考えや行動に大きく作用しているだけに始末が悪いのかも」

 彼女の視線は、今は彼のそれを避ける様子でいて、あたかも自分自身を納得させるかの様に言葉を続けていた。

 彼女が持つというその孤独は、自分が考える以上に奥深く厳しいものなのだろうか? あれだけ明るい笑みを絶えず見せて客たちと接しているというのに。そして自分の人生の延長にある言葉で訪れる人の誰をも魅了し、誰からも愛されているというのに…。

 「ずいぶん哲学的な話なんだな」

 無意識の自己防衛心からか、彼は咄嗟に、茶化す様に彼女に応えてみた。が、彼女の口調が変わることはなかった。

 「いいえ、ちっとも。でも、思うままに自分の考えを辿って行くと、いつもそこに行き着くのよ。そしてその「感情」の働きかけから逃れられないでいる自分を見つけたりもするの」

 「例えばそれはどんなもの?」

 「具体的に?」

 「具体的に」

 「そうね、例えば…、私だけに向けられた誰かの想いをずっと感じ続けていたいとか。愛されていると実感出来る中で、その人の肌の温もりにずっと触れていたいとか。そしてその時間が与えてくれる豊かな気持ちと共に次の日の朝を迎えたいとか…。女ってそんなものじゃなくて?」

 彼は両肩を上げると応えて言った。

 「さあ、男の僕に分かる事じゃないけど。でもそれは女性だけでなく、人間なら誰しもじゃないのかな」

 「恐らくね。でも、感じる寂しさの度合いやその意味合いは、誰もが違う筈だわ」

 「だろうね。ならば君はどうなの? そしてその先に何を求めていると思うんだい?」

 「それが私の問題点。判らないのよ。でも、何か大きなものに包み込まれていたい欲求は常にあるの」

 彼女は弱々しい笑みを見せた。

 自らの仕事に集中し、その間常に気を張っていた反動が今になって一気にやって来ているのかも知れない⋯。

 彼はそう思った。肩の力を抜いて振舞っていると見せながら、その実、それが出来ずにいるのに違いなかった。まるで人の分の悩みや苦しみまでも無条件に抱え込もうとするかの様に。そしてそれを自分に課しているかの様に。彼にはそんな様子の彼女がひどく愛しく想われ、強く抱きしめたい感情が起こるのをふと感じた。彼は言葉を探しながら彼女に向かって尋ねた。

 「じゃあ…、君の言った…、僕が君に与えられるかもしれない夢って、一体どんなものなんだろう? 望む何もかもを手にしている様に僕には思える君にとって…」

 「それは私にも分からないわ」

 テノールサックスは、いつ終わるとも知れない単調なリフレインを静かに続けていた。それから暫くあった沈黙に続いて、彼女が呟く様に言葉をつないだ。

 「でも、私が何もかも手にしてるとは、とてもじゃないけど言えないと思うわ」

 彼は彼女をじっと見つめた。

 「送ってこうか?」

 素直な頷きが目の前にあった。

 「ええ、ありがとう」

 「多分今日は人を見過ぎて疲れてるんだよ。これからゆっくり寝れば、朝には頭ももっとはっきりするはずさ」

 「そうなのかもね。あなたは?」

 「活字を見過ぎて疲れ切ってると思う」

 「ははははっ、そうなの。じゃあ、出る用意するわね」

 彼女は椅子から立ち上がるとカウンターに向かい、その奥へ姿を消した。少しして音楽が止み、次いで空調機がその動きを止め、突然、妙に現実的な静けさが木目調のフロア全体を包んだ。そしてそれは彼をひどく驚かせた。現世界に否応なく引き戻された印象だったからかもしれなかった。やがて彼女が鮮やかなエメラルド色をした薄手のカーデガンを羽織り、手に黒い革製のポーチバッグを持って再び現れた。それは、イメージとして抱きそうな銀座の高級店の売れっ子からは程遠くかけ離れたもので、可愛らしいマリンルックと共に、むしろ地中海沿いの街を散歩がてら行く、普段着の地元の娘を彼に思わせた。

 「ずいぶんラフだね。もっと着飾るのかと思ってたよ」

 「あら、こんな時間にこの辺りで派手にしてたら、それこそ物笑いの種だわ。それに私の柄じゃないし」

 「銀座にいた頃の君を見たくもあったな」

 「想像だけを先行させちゃだめよ。あの頃だって、貰いはしたけどとても袖を通せなかったのも結構あったんだから。結局、周りの仲良かった子にみんなあげちゃったわ」

 「何と…。きっと僕なんかには思いも付かない金額だったんだろう?」

 「どうかしら。でもね、「相応」って言葉は確かに存在するものなのよ。無理をすると、誰しもやっぱり、どこかで破綻をきたすものだわ」

 「華々しく着飾った君も素晴らしく美しいと思うんだけどな」

 「ありがとう、嬉しいわ。でもね、いつか和服だけは自由に着こなせる女性になりたいとは思っているのよ」

 悪戯っぽい笑みと、夢見る様な表情が同居して浮かんでいた。

 「もちろん、それはもっと年がいってからなんだろうけど」

 「君なら絶対似合うに違いないよ」

 「じゃあ、その時は見た感想を教えてね」

 「ああ」

 「約束よ」

 二人は向かい合ったまま視線で笑みを交した。そして並んで戸口へと歩いて行き、表に出た。砂浜から先に続く深夜の海原は、この時間も変わりなく藍色に揺れ続けていた。

 鍵を掛けるために、彼に背を向けて扉に向かっている彼女を見守りながら彼は、その無造作に羽織られた衣服がカシミア製の、どんなに衣服に疎い者でもすぐに理解するだろう、かなりの高級品であるのに気付いた。予想は出来ていたものの、少しばかりショックだった。そして何故なのだろう、自分の誇りの一部を傷つけられた気がしていた。

 自分にはとても手が出ないだろう品物を年下の彼女が当然の様に所有し、当然の様に日常の生活に使用しているからなのか? それともその価値が、自分の労働の代償に比して余りに大きいことへの屈辱故に? それでもともすれば、成金趣味のけばけばしさを与えかねないものでも、彼女はちゃんと自分の体に合うカットと色調を選び、抑えて着こなしてる。やはり自分などには遥かに遠い存在なのかも知れない…。

 彼は、あらゆる良いものを趣味良く、そしてさり気なく自分のものに出来ている彼女に、再度尊敬と憧れを抱いた。


 国道を走る車はごく僅かで、時たまになっていた。そしてその脇の歩道を彼女は歩いて行こうとしていた。

 「乗り物は使わないの?」

 「だって部屋はそんなに遠くないもの。車は持ってはいるけど、遠出する時くらいにしか使わないわ。それもごくたまに」

 「でもこの時間に一人歩きは危険じゃないのかい? せめてバイクぐらいでも…」

 「場所柄、人家もたくさんあるし、危険だとは決して思わないわ。それに、海を感じながら夜道を歩くのも、気分転換にはいいものなのよ」

 「まあ、確かに」

 二人は続く道をぶらぶらと進んで行った。道幅ゆえに彼は彼女の後方を絶えず歩いていたが、その彼女は手を後ろに組み合わせ、バッグを無造作にぶら下げながら絶えず空を見上げて足を進めていた。言葉のままに、包み込む空気に身を預け、湘南の浜辺と太平洋の潮風が運んで来る、目には見えない多くの想いを楽しんでいる様子だった。

 微かに耳に届く、打ち寄せる波のごく静かなざわめきがどこか寂しげでもあった。しかし上方には、都心より遥かに多くの星が散りばめられ、とりどりの強さを持ってその輝きを放っていた。


 国道から離れて内側に入ると、通りに灯る明かりもはるかに少なくなり、暗闇に近くもあったが、不思議と不安を感じさせるものではなかった。寺が近くの所々にあるせいかも知れない、落ち着いた空気が漂っていた。彼女は彼が傍に来るのを待って、再び並んで歩き始めた。

 時折周りの光景に目を向けながら、お互い、言葉を交わすこともなく歩き続けた。何を考えているのだろう。彼にはその沈黙が何か重々しいものに感じられ、同時に、横を歩く彼女の存在の、店でのイメージとは全く対照的な余りの小ささ、儚さまでも感じさせる弱々しさに驚かされていた。しかしその彼女は、彼と視線が合う度に、これまでと変わらない愛らしい笑みを彼に向け続けていた。

 「ありがとう。わざわざ送ってくれて」

 「僕も戻る方向は同じだからね」

 「宿までの道はわかるの?」

 「これでも土地勘だけはあるんだ。だからこの辺ももう大まかには把握してるよ」

 「心強いこと。夜道の危険からも守ってくれてるし」

 彼女は小さな笑い声をたてた。

 「だから言ったろう。気をつけなきゃいけないって」

 「こうもりから?」

 「多分、鳶やカラスから」

 「こんな時間にいる訳ないじゃない!」

 二人は同時に噴出して笑い出すと、お互い慌てて人差し指を自分の口に当てた。彼は彼女が再び見せる明るい表情にほっとした想いで満足し、これこそが唯一、彼女に似合うものなのだと確信した。そしてそれをいつも携えていて欲しくもあった。このがさついた現代の社会で、彼女だけでもそうあって欲しいと願うからかも知れなかった。

 脇道を少し行った所にある三階建ての建物の前で彼女は立ち止まった。一見して分かる高級マンションだった。

 「ここなの」

 「素敵な建物だね」

 「一番上の階なんだけど、窓からは海が一面に見渡せるのよ。だからこそここを選びもしたんだけど」

 彼女は少し躊躇う表情を見せると、次いで彼の目をじっと見やりながら言った。

 「寄ってく?」

 彼は一瞬考えてから笑みを見せ、答えた。

 「いや、やめとくよ。今夜は君もひどく疲れてるだろ? で、僕もあと少しの仕上げが残ってるんだ。絶対に断りたくない誘いだけど、君が良ければ明日以降がいいな」

 「わかったわ」

 彼女は固執しなかった。

 「なら、明日も会えることを信じてるわね」

 「ああ、もちろんさ」

 そう言葉を交わすと、二人は少しの間向かい合って立った。じっと見つめ合ったままにだった。

 胸の内に高まる鼓動と欲求をお互いに感じながら、今、それぞれがそれぞれに何を求めているのかはっきりと判っている筈だった。そして事実、彼女は彼に少し近づき、彼はその存在を包み込もうと片手を上げかけた。しかし次の瞬間、二人はお互いに肩を少し上げると微笑み合い、最後の別れの言葉を伝え合った。そして彼女は体を建物の入り口に向け、彼はその姿が鍵を開けてホールの中に入り、次いで奥のエレベーターに消えるのを見守った。程なくして最上階の通路に姿を現し、その一番奥まで行き、部屋の扉を開けて中に入る彼女がいた。

 彼のささやかな希望に反して、彼がまだ立ったままいる道を見やる事は一度もなかった。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ