1.早朝の海が語るもの
「いつか見た雲」
1. 早朝の海が語るもの
午前六時半の由比ガ浜は、すぐ横を走る百三十四号線の時折の交通を気にしなければ、両手一杯に拡がる太平洋の海原を目の前にした湘南の清々しい早朝の空気を心地良く感じることが出来ていた。梅雨は数日前に明けている筈で、空には淀んだ色の雲は見当たらず、白い合間から眩い光線が差し込みながら辺りは徐々に明るさを持とうとしていた。対して、体に貼り付く様な湿気は未だどこか重かった。ただそれは、普段はめったに訪れない海辺の町に来ているせいもあるのかも知れない、どうあれ余り気にはならなかった。もう数日もすれば様々な学校が終業を迎え、この砂浜も子供や学生たちの姿で日中埋め尽くされる様になるのだろう。既に建ち並び始めている海の家が更なる陽気さを誘いもし、八月の観光ハイシーズンと輝く真夏の太陽をこの場所に呼び込むのに違いなかった。
国道に沿ってその端を歩いて行き、滑川の大きな交差点を過ぎて材木座の海岸までやって来ると、彼は白いコンクリートの階段を降りて浜へと入って行った。早過ぎる時間の起き抜けに、ふと辺りを散歩してみたくなり、泊まっている小坪の近くから長谷に近い坂ノ下辺りまで 向かった後、再び戻って来ている所だった。
少し黒ずんだ砂の上に立って大きく息を吸い込むと、彼は、塩分を含んだ緩やかな浜風が鼻腔を抜けて胸の中へと届く感触を楽しんだ。天空と地をくっきりと隔てる水平線が、真の前の海洋の先に続く大陸の確かな存在を彼に感じさせ、大らかな気分にさせていた。本当に久し振りに持つ、解き放たれた、満たされた感情だった。あと数時間程度の仕上げが残っているにも拘らず、既に彼は、長らく取り組んで来ていたレポートの出来栄えに満足していた。そしてそれと共に、自信を持って人と相対することが出来るだろう自分自身の姿を想ってもいた。
遠方では、数隻の漁獲船が隊列を成して右方向へゆっくりと進んでいた。早朝の仕事を終え、駿河湾の先にでも戻って行く途中なのかも知れない。そしてその遥か前方では、この時間でも五、六本の色鮮やかな帆が、風を受けながら操る人の姿を左右へと滑らせていた。ウィンドサーフィンのそれだった。
目にしている何もかもがどこか日常的でない印象を持ちながら、彼はしかしながらその全てに心を投げ遣っていた。もしこれが都会での普段の生活の延長においてだったならば、この楽天的な空気に理由の見つからないいらつきを感じてしまい、気分を重くしていたのかも知れない。常に目先の業務の処理に追われ、且つそれらをごく自然に片付けようと反応してしまう自分をどこか嫌悪しながら。そして、自身の真の存在とは何であるのか自問しようと試みては、つまらない口実を見つけ出して避けている己の姿を苦々しく感じていたのだろう。自分自身のための自由な時間など今は持ち様がないなどとも言いながら…。それ想うと彼は、今回、鎌倉にある社の上層部用の宿泊施設に部屋を用意してくれた、上司である内林のさり気ない心遣いに感謝するのだった。
週末の湘南の青い空は、彼が気付かない間に早くも日中の強い陽光を持ち始めようとしていた。
* * * * * * *
それは全く思いもしていなかった突然の申し出だった。
都内にある一中小電気会社の研究室に身を置く彼は、開発部長である内林の命を受けてこの三ヶ月、新規参入となる分野での製品について、予想されうるあらゆる面からの反応への事前調査とそのレポートの提出を求められていた。社会情勢上でも無視出来なくなって来ている環境問題を始めとした色々に会社として柔軟に対応して行くため、研究者レベルにおいても総括的なガイドラインを作成用意する必要があったのだった。
それは、部品一つ一つの耐久性、国際規格対応具合から製品自体の世間への膾炙度の予測まで、多岐に亘る必要があった。そしてそのためにレポートの作成は困難を極めた。普段とは勝手の違う仕事内容にも戸惑い、自身の知識以上の把握を求められる中で、彼は資材部や営業部の助けも借りながら国内中を飛び回り、資料集めに必死に取り組んだ。そしてまとめに取り掛かり始めて三週間余り、ひたすら机に向かい続けながら、提出期限となる会議も目前に迫り、それに合わせて何とか形あるものになる予測がついて安堵していた時に突然、内林に呼び出されたのだった。
「どうだ、レポートの方は順調か?」
「ええ、後は文章全体を見直して、おかしな所に手を加えるだけにまで来ましたよ」
「そうか。じゃあもう調べ物のために走り回る必要はなさそうだな」
「ここまでこぎつけたのが今では奇跡に思えますよ」
「ははははっ、それを見越して君に任せもしたんだ。でも本当に感謝しているよ。で、その代わりと言っては何だが、この木曜の夜から月曜の午前中まで、会社が持っている鎌倉の休暇施設に一室取ったんだ。良ければそこで最後の仕上げをして来ればいい」
「本当ですか? それは嬉しいな。有難うございます」
「君は家族持ちじゃないから利用してみようとは考えないのかもしれないが、部屋も広いし三食付きで、落ち着いて取り組めるぞ」
「でもそれって、話に聞いたことはあるけど、てっきり幹部クラス専用かと思っていましたよ」
「まあ確かに、一般社員がそうそう使えるものではないがな。この私にしてもなんだが…。ただ今回は特別だ。ここを定時に出ても電車で一時間足らずで行けるから、たっぷり時間が取れるだろう」
「でも突然、どうしたんですか?」
「この所、お前ひどく疲れた様子だったしな。気にはなっていたんだよ。ただ私のしてやれる事はたかが知れているし、ならば気分転換、それも気分を一新出来る機会を与えることぐらいなら出来るんではと思ってね。私なんかと朝まで酒を酌み交わすよりはよっぽどいいんじゃないか?」
「そんなことはありませんよ。部長のカラオケさえなければ」
「余計なことは言わんでいい。まあ、海辺で寛ぎながら、仕上げをばしっと頼むよ…」
* * * * * * *
人気のない砂浜にいつからか腰を下ろして海を眺め続けていると、彼の右側、少し離れた波打ち際から一人のサーファーが上がって来るのが見えた。夏を直前にしてとは言え、早朝の海水はまだまだ冷たいのではないのか、紺色のボディースーツを身に着けた、若い女性の様子だった。彼女は慣れた手つきでボードを引き上げると、大きな帆をその上に倒して畳み、端にくくり付けられた紐を引いて浜に進んで行った。次いで、先に止めてあった専用の移動用台車に板を収め、その傍に立ったまま暫くの間海原を見やり始めた。ひどく満足げな様子だった。地元の人間なのだろうか。彼はその姿を目の端で見守りながら、この様な時間を持てる彼女を羨ましく感じた。そして先ほどまであった満足感や達成感にも拘らず、今抱えている仕事の総てをこの海の遠くに力任せに投げやり、冷たくても構わない水中に飛び込む自分を想像した。自身の生命力だけが頼りとなる中で、生き続けることだけを考えて体を動かしてみたい欲求が心の奥底から強く沸き上がって来ていたからだった。
それは既に幾度か経験している、何かを終えた後の虚脱感なのかも知れない。そしてその何かが大きければ大きいほど強く感じてしまうそれなのかも。
しかし今は本当にそれだけなのだろうか。本当に現在抱えている仕事のせいだけなのか。ならば、常に感じてしまう、やり場のないこの閉塞感は一体何なのだろう。日常社会の至る所で緊張を強いられ、それに辟易しながらも、結局はその環境の中に留まって先に進んで行かざるを得ないでいるのが近年の自分だ。そして周りを見回すと、誰もが、生き抜いて行くためと理由をつけて、他人の気持ちを推し量ることも、それを試みる余裕すらもどこかに忘れ去ってしまっている様に見え、かく言う自分自身も同様にして毎日を送り、いつしか己の心を狭めてしまっている…。今この場所にいて感じているこの想いは、他ならない、自分の真の叫び声なのかもしれない…。
昨今の自分の姿を想い描きながら、彼の口元には、諦めにも似た寂しげな笑みが漏れていた。
ふと我に返って気付くと、近くで砂を踏む音が聞こえ、それは確かに彼の方に向かって来ようとしていた。咄嗟の防御心にも似た驚きに頭を上げ、右先方を見やると、先程ボードと共に浜辺に戻って来ていた女性に違いない、今はスーツを脱ぎ、水着姿で笑みを見せ、彼を見やりながら歩み寄ろうとしていた。セパレートの鮮やかな黄色と白い肌が目に眩しかった。と同時に、彼はその表情をどこかで見かけた様に思った。
「樫田さん? 樫田祐司さんでしょ?」
彼女は物怖じすることなく親しげに、そして正確に彼の名前を呼んだ。
「昨日は来てくれてどうも。わたしよ、ミキ。朝になったらもう忘れちゃったのかしら?」
「ああ、あなたでしたか!」
再度の驚きと共に慌てて腰を上げ、彼は彼女と向かい合って立った。そしてその心惹かれる満面の笑顔、優雅でさえもある立ち振る舞いを、つい六時間ほど前に目にしていたのをようやく思い出した。
* * * * * * *
彼の勤める会社の福利厚生宿泊施設は、逗子マリーナ横にある小坪の漁港の近くに位置する、超高級マンションにも似たものだった。昨夕、家路に向かう会社員やOLなどに混じって新橋駅からJR横須賀線に乗り込んだ彼は、午後の七時を少し回った頃に鎌倉駅に降り立っていた。そして八幡宮側改札口前のコンコース横からタクシーに乗り、十分ほどしてこの豪華なガラス張りの建物の前に着いた。背の高い竹作りの塀に囲まれたその入り口脇には真鍮のパネルが掲げられてあって、それから察するに、一種のメンバー制クラブハウスらしく、幾つかの会社と共有で使用されている様子だった。五階建ての一階部分の左半分を専用駐車場が占めていて、黒塗りの高級車が既に数台停められてもあった。そしてその右側、小さな庭を抜けたエントランスの先にはホテルにも似たフロントがあり、赤いジャケット姿の若い女性が宿泊客の応対をしているのが見えた。横側の空間には広大なロビーが広がっていて、所々に置かれたソファには、時間柄か、ラフなポロシャツ姿のいかにも重役クラスらしい、しかし見慣れない年配の姿が幾つか見られた。思えばゴルフに行くのにも良い立地かも知れず、前日からの接待も兼ねて使用している者も少なからずいるのに違いない。スーツ姿とはいえ、仕事帰りと殆んど変わらない様子の彼は、何か場違いな場所にやって来てしまった印象で、バッグを手に、自動ドアを抜けて入って行かなくてはならなかった。
訝しげな視線を浴びながらおずおずとフロントに向かう彼の姿をいち早く見つけ出し、突然横から声を掛けて来たのは、同じ社の営業部の本田部長だった。資料の収集にも何かと協力してくれた、彼の上司の同期だった。
「何だい! ここで君に出会うとは、奇遇中の奇遇だな」
「本田部長!」
「何か特別な用事でも授かって来たのか」
「まあ、似たようなものなんですけど…」
安堵の表情を見せる彼を前にして、既に私服姿の本田は慣れた調子で彼のチェックインを手伝った。そしてその合間、彼に、自分は部の中の若いメンバーを連れて、前日の朝から二泊三日で滞在しているのだと説明した。
本田は、彼が独りで泊まりに来たのを知るとひどく驚いた様子だったが、内林の話に納得した笑顔を見せ、彼の今回の仕事を労った。そしてすぐさま外での夕食に誘ってきた。研修会の一連の予定を終え、これから打ち上げを行うらしかった。本田の言葉を受けてフロントの奥にあるエレベーター近くを見やると、見知った顔を幾つか見つけることが出来た。彼らも彼同様、どこか所在無げにしていて、それが彼をひどく安心させた。どうあれ、既に集合し始めている様子だった。
一行は彼が部屋に荷を置き、着替えるのを待って建物を出、予約を入れてある逗子に近い海沿いの和食レストランへと散歩がてら歩いて向かった。そしてそれからにぎやかな会食の席に着いた。
彼と左程年代の違わない参加者の表情は皆一様に明るかったが、聞く話ではどうやら、海辺の時間に釣られてやって来たものの、当て込んでいたそれは勉強会以外の何物でもなく、且つ予想以上に厳しいものだったらしかった。
それでもようやく開放され、この時とばかりに大いに寛ぐ彼らとの時間は楽しいもので、会社内外の話に花を咲かせながら時間は瞬く間に過ぎ去って行った。そして既に深夜近くになってからようやく施設に戻る途中で、取り分け仲の良い友人の数人が彼を誘いながら、寝る前に最後の一杯をと本田部長も引き連れ、材木座に近い、国道沿いに建つ一軒のバーを見つけ出し、立ち寄っていた。
その店は、湘南の海岸沿いによく見られる、ウエストコーストやハワイを意識したアメリカンスタイルのものとは多少違った趣の、しかし海洋を十分に感じさせる落ち着きのあるものだった。古木の扉を押し開け、探る様に中を伺うと、立ったまま客と話をしていた若い女性がすぐさま愛想良く挨拶の言葉を投げ掛け、一行を中に迎え入れた。そしてさして広くはない店内に、手早く、彼らのための席を用意してくれた。下品さを感じさせることのない薄明かりの中、その場所には上質の調度が設えられ、常連らしい人々でそこそこに賑わっていた。
彼女はもう一人の女性と共に、先客たちとは会話を続けながらもきびきびと一行の対応をしてくれた。本田たちにとってもこの店は初めてらしかったが、彼女たちの気の利いたもてなしもあって、誰もが皆すぐに落ち着くことが出来ていた。そして時折テーブルの横を通り過ぎる際の何気ない言葉や態度に応えながら、彼ら自身はいつしか再び仕事についての話を始めていた。明日からは既に現場に戻るのを意識してか、彼らの表情や口調は先程の宴会の間よりずっと真剣になっていた。部署の異なる彼は、黙ってその会話に耳を傾けていたが、一方で、客たちが店主らしい女性のことを親しげに「ミキちゃん」と、その数人や一緒にいる女性は「ママ」と呼んでいるのを聞き知った。同時に、その彼女の、どこか場所にそぐわない落ち着いた美しさや、あらゆる仕草に見え隠れする品の良さを認めた。それは彼にとって、確かに密かな胸騒ぎを覚えさせるものだった。
彼らは結局、深夜の二時近くまで店に残っていた…。
* * * * * * *
「まだ朝の七時くらいのはずでしょ。あれから寝てらっしゃらないの?」
「一旦横にはなったけど、本当に久し振りに湘南の海を間近に感じたら、何故だか砂浜を歩きたくなってしまって。それもまだ人が多くないうちに」
「休暇でいらしているの?」
「半々です。昨日の夕方着いたばかりなんですよ」
「長期のご滞在?」
「いえ、月曜の朝までです。とにかく、抱えている仕事を早いとこ片付けて、土日くらいはのんびりしたいと考えているんですけどね」
目の前の彼女は、さり気なさを常に漂わせながらひどく美しかった。まだ二十台の半ばくらいなのに違いない、輝かしい若々しさを備えてもいた。同時に、その表情や小柄な体から無意識に放たれる、自身の存在感とでも言うべき空気は、屈託のない笑顔や愛らしさに包まれてはいるものの、その年代の人間とは明らかに違うものを彼に示していた。それは、この年齢がしばしば見せる、方向の定まらない生命力のみが放つ力強さなどではなく、むしろ、人生における何かを掴んだ者だけが持ち得るのだろう、ある確かな自信を備えた余裕と品格とでも言えそうなものだった。そしてその視線の中に絶えず浮かぶ暖かさと共存して、心の奥まで見透かされそうな厳しい空気がありもし、彼は瞬時に、この明らかに年下の彼女も、彼が慕い尊敬する上司たちが共通に持つ何かをこの年齢で既に得ているのだと理解した。
店のことを思えば殆んど寝ていないのに違いない。しかしその涼しげな目線や小さな口元には、疲れの一端も認めることが出来なかった。
「何時頃に海に入ったんですか?」
「さあ、一、二時間くらい前かしら。その時はまだまだ薄暗かったんだけど…」
「遅い夜の時間の後でこれだけ激しいスポーツが出来るなんて、あなたもまだまだ若いってことなのかな」
彼は照れを隠す様に笑ってみせた。三、四時間程度の睡眠に、さすがに睡魔を再び感じ始めてもいた。一方で彼女は、明るい笑みを浮かべ、彼の言葉に応えて言った。
「あら、ウィンドサーフィンって、思ってるほどきつくはないものなのよ。一旦波に乗ってしまえば、その後は風が運んでくれるんだし」
そして彼の目を見据えながら静かに続けた。
「それに、好きな物事をしてる時って、人は誰しも疲れなんて感じないものだわ。あなたも良くご存知でしょ?」
その言葉に何か意味があるのか、彼はふと思った。そして昨夜、あの店の中でも結局は仕事の話ばかりしていた自分たちを思い出した。
何故だろう、恥ずかしかった。だが彼女の表情から察するに、その言葉に他意はない様子だった。
「ご一緒だった方たちはお連れなの?」
「いえ、僕が着いたら先に来ていたんです。同じ会社でも別の課の上司とそのグループで。今朝帰るみたいですけどね」
「なら、ホテルにお泊り?」
「会社の、まあ主に上層部用の特別な宿泊施設があるんですよ。たまたま上司が、僕が抱えている仕事の仕上げのためにと取ってくれたので、この週末来てるんですけど」
「あら、そうなの」
二人はいつしか砂浜に並んで座り、海原を眺めながら会話を交わしていた。
彼は、昨夜何とはなしに気になった女性が、今、この時間、偶然にも傍らにいることに当惑していた。加えて、旧知の様な寛いだ態度と口調が絶えず見られるだけに、その気持ちは尚更だった。
ちらりと右を見やると、何を考えているのだろう、立て掛けた膝に両手を回して姿勢を保ちながら、彼女は前方の海原をじっと見やっていた。ふと興味に駆られ、彼は思っていた事を尋ねてみた。
「昨日、ふと耳にしたんですけど、あの店はあなたのものなんですか?」
「ええ、そういうことにはなるわね」
彼女は彼に向き直るとそう答えた。それが何事でもないかの様にだった。そして思い出した様に笑い出すと、続けて言った。
「ねえ、もっと砕けた話し方しましょうよ。じゃないと、こんなの続けてたら、いい加減、肩が凝っちゃう!」
「確かにそれはそうだ」
彼も吊られて笑みを見せた。
「じゃあ、話し方を変えるけど…、でも君ぐらいの年齢で店を持って、回し、朝はこうやってサーフィンを楽しむなんて、何だかすごく羨ましいな」
「たまたま運が良かっただけよ。そして仕事嫌いが幸いしたのかも…」
悪戯っぽい表情が瞬時に浮かび、彼女は声を上げて再び笑い出した。呆気に取られる程可愛らしい笑顔だった。彼は自分がそのあけっぴろげな姿に、そして絶えず変わる表情に徐々に惹かれ始めているのに気付いた。彼女はしかし、その様なことなど気にもしていないのに違いない、笑顔を見せたまま、彼に終始柔らかい視線を投げていた。そして気付いたかの様に言った。
「ねえ、朝食はまだなんでしょ? 良かったら付き合ってもらえないかしら?」
「えっ、本当に? でも困ったな。朝食を頼んであるから、宿には戻らないといけないんだけど」
「寝過ごしたことにすればいいじゃない」
「でも…」
「ねえ、お願い。波の上ではどんなに楽しくても、一人で食事をするのって、やっぱり寂しいものだわ」
心の中とは全く裏腹の口実を持ち出してもまだ誘ってくれる彼女は、一体何を思っているのだろう。お互い初対面と変わらないというのに…。
彼は激しい胸の高鳴りを感じた。昨夜の店での二人は、何気ない視線が偶然合わさることはあっても、直に言葉を交わすことは殆んどないままに終わっていた。それ以前に、当然といえば当然なのだろうが、彼女と話したがる常連らしい客の方が圧倒的に多かったのだから。しかしふと重なったその視線の中に、何か気を和やかにさせてくれるもの、どこかで見知っているものを彼が見出したのも事実だった。そしてそれ故に、その時既に心乱されるものを感じていたのかも知れなかった。
どうあれ、彼女の言葉には抗し切れない何かがあり、従うしかない自分に彼は気付いた。
同意の仕草を見ると、彼女は心から嬉しそうな表情を浮かべた。そして急ぐ様子で腰を上げながら彼に向かって言った。
「私、ボードを片付けたらすぐに着替えて戻って来るから、ここで待っててくれるかしら?」
「じゃあ、良かったら手伝うけど? それ運ぶの」
「大丈夫よ。慣れっこだし、倉庫もすぐ近くだから」
「実家なの?」
「いいえ、ちっとも。ここは、店を持つまでは殆んど知らないに等しい場所だったのよ。それよりねえ、ちゃんと待っててね」
「分かったよ」
彼女は太平洋と彼に背を向けると、ボードの乗った台車を引いて小走りに国道の元へと向かって行った。
一時間後、二人は海辺のホテルのティールームにいた。そしてアメリカンスタイルの朝食を取りながら、自分たちの日常、最近気になっている物事や出来事などを、思い浮かぶままに語り合っていた。
二人の会話は、自分たちでも驚く程自然に始まっていた。そしてそこには、如何なる誇張も気取りもなかった。相手の内にあるものを、純粋な関心と素直さをもって理解しながら、どちらにとっても素晴らしい時間が造り上げられているのを、それぞれの表情がはっきりと物語っていた。彼女は、彼の研究漬けの毎日を興味深そうに聞き入り、次いで、一箇所に閉じこもって机や機器と一日中向かい合う生活など、自分には到底出来ないと言って笑い出していた。対して彼の方は、自身の生活では凡そ知りえない、広い世間の様々な人々の生の姿を教える彼女の話に心を奪われていた。自身のプライベートな時間にいるせいなのだろう、目の前に座る彼女は心から寛ぎ、道路の先に拡がる海岸線を時折見やりながら、彼と終始笑顔で向かい合っていた。そして彼自身は、全く想像していなかった鎌倉での初日の展開に心底驚きながらも、現在持つこの様な時間を、この最近、本当に久しく誰とも共有出来ていなかったのを認めた。
* * * * * * *
彼女、ミキは、一年半ほど前までは銀座の街に身を置いていた。二十歳を少し超えた頃、独り暮らしの実母を愛媛に残し、神戸から東京にやって来ていたのだった。そしてある日、興味にも駆られてアルバイトとして飛び込んだ一高級クラブでママに見出され、ひどく可愛がられ、次いでその上客たちにも受け入れられて、僅か二年程の間にその界隈で名を知られるまでになっていた。どの様な内容でも人の話をじっと聞き入り、人生においての教師でもありうる常連たちから必死に何かを学ぼうとする姿が、その愛らしい容貌と相成って認められ、人々から求められたのだった。そして成功という評価を受けながら、当然のこと、一般の人が聴けば驚く様な金額を毎月手にしていたが、再びある日突然、この国で一番のネオンと浮世の世界を去ることを心に決めた。
絶えずあった引き抜きの話ではない、しかしはっきりとした理由も言わない中での決断に、客たちは大いに嘆き、悲しみもしたが、店のママだけは黙ってその選択を受け入れていた。それは、彼女が入店以来、常に見せていたある種の純粋さ故にだった。
この娘は何に取り組んでも自分が求めるものをしっかりと掴み得る…。足の引っ張り合いを常に仕掛けようとする店の娘たちなどと一緒にいるよりは、自分が思うままの好きな物事をさせてやる方が彼女のためになるに違いない。
多くの生き様を自身の職業の中で続け見ながら、自由と言う言葉の持つ意味を学び得ていた彼女はそう結論付けていた。他の誰よりも殊更気に掛けて育てもしたが、どうあれその彼女が、人に対する恩と感謝を決して忘れることはないと既に知ってもいたからだった。そして事実、彼女は女主人を絶えず慕い続け、鎌倉に移って行った後でも、二人は仲の良い姉妹の様に私時間の中で頻繁に連絡を取り合い、顔を会わせていた。
湘南の古都に新しい住処を決めた彼女は、当初、自分が何故この地を最終的に選んだのか分からなかった。それまで歴史的、文化的関心はあっても、訪ねたことなどなかった場所だったし、生活上の都合を考えれば、当然、もっと都心の近くでも良かった筈だった。そしてもしそうだったならば、移って来て程なくしてから店を持とうかと考えた時、嘗ての常連客達が喜んで上等な物件を紹介してくれていただろう。実際、好条件の他の候補地は、ママの助言も加えて幾つかあった。それでも結局、鎌倉に住み続けながらすぐ近くの場所を選んでいた…。
それはもしかしたら、店の上客の一人がある夜してくれた話がきっかけだったかも知れなかった。
四国の伸びやかな自然の中で育った彼女には、古の都は、どの地であれ子供の頃から常に心惹かれるものだった。読書や芸術が何よりも好きだったせいもあるのだろう、一つのはっきりしたイメージが彼女の中に早いうちから出来上がっていた。
上品さと華やかさを懐に携えながら、人々が創り上げて行く歴史の移り変わりを、如何なる時もそっと静かに見護っている場所…。
早くに親の離婚を経験したことも関係しているのかもしれない、その様な想いが、自身の人生において憧れる人間像とも重なって、ずっと頭に刻まれ続けていたのだった。
海を戴いた武士たちの小京都。
作家でもあったその客が使った表現と、実際、魅入られた様に多くの作家や芸術家たちが集まって来て住んでいるという事実が、自身の嘗ての想いを呼び覚まし、自身をこの地に呼び寄せたとしか彼女には思えずにいた。何かをしようという思いは当初はなく、ただその空気を、海原を、そして浜辺を近くに感じていたい気持ちだけがあった。かくして、銀座を離れる日も迫ったある朝、生まれて初めて横須賀線の駅に降り立った彼女は、数軒の不動産屋を歩いて訪ね、材木座近くの新築のマンションの最上階に、海一面を見渡すことの出来るフラットを見つけると、その場で契約を交わし、一週間後、荷物も殆んどないままに移り住んでいた。
顔見知りになった不動産屋の親父から空き店舗の紹介を受けたのは、それから少し経ってのことだった。そしてママの忠告と助言と、絶好の物件という言葉に心を決め、自身の初めての店を構えてみることに決めたのだった。
* * * * * * *
お互いに自然と湧き出てくる会話の中で、彼は不思議な心地良さを味わっていた。彼にとっては殆んど未知な、何かから解き放たれた様な、同時に、何かに優しく包まれている様なそれだった。そしてそれが何ものにも束縛されない、思うがままの自由な言葉と心のやり取りの連続によってもたらされているのが理解出来ていた。
彼女は自身の如何なる過去も隠そうとはせず、どこかあっけらかんとして全てを彼に話していた。彼はそれを前にして、驚きと好感を相半ばして覚えながら、次々と語られる夢の様な話の数々を聞き続けていたが、一方で、彼女のその姿勢ゆえに、却って彼女が未だに何かを求め、何かから逃れたくてそうしているのではという印象を得てもいた。それはふとした瞬間に見せるどこか遠い視線と、次いで、思い直した様に再び彼に向けるひどく真剣な表情の隔たり故にだった。しかしどうあれ、それは現在の彼にとって、そして恐らく彼女にとっても些細なことなのに過ぎなかった。
「今日はこれからどうするの?」
暫く訪れた沈黙の後、彼女が彼にそう尋ねた。間の抜けた様なお決まりの室内楽が抑えた音量で流される中、強い陽光の差し込むテーブルの上の食器は既に下げられ、それぞれの部屋の鍵と財布、そしてコーヒーカップだけになっていた。
彼はベージュ色の高い天井をちらりと見やると、顔を落とし、彼女に応えて言った。
「さすがに早く起き出したんで、一旦休んでから、午後一杯はレポートの仕上げに向かおうかな。君は?」
「私も少し寝るわ。実はね、常連さんが四時近くまでいたから休んでないのよ」
「それでもサーフィンは欠かせないの?」
「ウィンドサーフィン。ええそうね、私には大切なものだわ。自分を、自分の心を軽くするためにも」
「ん、何かいやな事でもあるの?」
「いいえ、全く。まあ、昔は辛い時も結構あったけど。その…、何て言うか…、精神的にね。でも今はそれなりに楽しくやってるわ」
「羨ましいね。じゃあこれからゆっくり休むといいよ」
「ねえ、今夜は来てくれるの?」
彼に向けられた瞳の輝きは、一瞬、言い表し様のない寂しさを持ったものだった。少なくとも彼にはそう感じられた。彼女の仕事においては、この様な言葉は親しい客に対する常套句なのだろうが、それとは明らかに違うとはっきり理解出来てもいた。それはもっと身近な、懇願にも近いものだった。
突如襲って来た狼狽と気詰まりに心臓の鼓動の早まりを感じながら、彼はぎこちない笑みを見せ、咄嗟に冗談めかして彼女に答えて言った。そうする以外に、向き合っているのがこれ以上出来なく思われたからだった。
「まあ、一介の安サラリーマンにとってばか高くなければね」
真剣だった表情が愛らしさを伴って瞬時に崩れた。
「じゃあ、私がここであこぎな商売でもしてると思ってるのかしら! 失礼しちゃうわ!」
心から起こる二つの笑い声に、近くのテーブルに座っていた家族連れの子供が不思議そうに彼らを見やっていた。そして彼自身は、彼女の飾りない自然な反応とその姿の再現にほっとした気持ちすら抱いていた。
* * * * * * *
彼らは光明寺の近くで別れた。陽は頭上にまで昇り、既に正午近くになろうとしていた。
「ごめんなさい。自分から誘っておいたのに、ご馳走までしてもらっちゃって」
「いや、僕自身も心から楽しめたから」
「本当? 良かった」
少女にも似た純粋な明るい笑みだった。彼は彼女を見やりながら言った。
「今晩、必ず寄るよ」
「だと嬉しいわ」
私的な時間での顔見知りの客の扱いには慣れているに違いない。この様な小さな街では、常連の誰かと顔を合わすことはしょっちゅうなのに違いないから…。
しかし、去って行く彼に向かって小さく手を振り続けながらずっと見送る彼女の姿が、彼の脳裏には午後の時間、ずっと残像の様にはっきりと映っていた。そして机に向かう合間に感じるのは、最近にはなかった、そして忘れかけてもいた新鮮な気持ちと、ひょっとしたら愛情にも変わりえるかも知れない、どこか心地良くもある胸の痛みだった。