海色の風に吹かれて
背後から吹き付ける風が、頬を掠めて海へと流れていく。
辺りは静寂としていた。まだ明るくなったばかりの時間帯だからか、他には誰一人として人の気配を感じない。
砂浜はただ一人男を内包していた。押し寄せる波は時折彼の座る位置まで届き、足を濡らした。
男は座ったままの状態で、近くの小石を拾い上げ目標もなく投擲した。小石は水面へポンッという乾いた音を立てて落ちる。海は嫌そうに小さな水しぶきをあげたが、すぐに何もなかったかのように波を寄せて返した。彼は、その様子を見て少しだけ羨ましく感じた。
しばらく目前の広大な海を見つめ、やがてサンダルを履いた足に目をやった。濡れた足に張り付いた砂が、何かのしがらみのように思えて、男は苦笑する。
そうして。お前はなんでこんなところにいるんだ? そう自問する。社会人としての責務に追われ、身をやつしながら手にいれた細やかな休暇。普段なら、疲れた体を一日中寝床に張り付けて離れない。だのにどうして、こんな朝っぱらから俺はここにいる?
「懐かしい場所だから、か? 」
男は曖昧に自答する。
静かな中、潮騒だけが男の内心を見透かしたように唸りをあげている。彼は目を閉じた。
耳を凝らすとよく聞こえる、波、風、海の音。コンピューターに囲まれた空間では決して聞こえはしない、自然由来の音。それらに多少なりとも癒しを求めて、しばらくは無心になって聞き入っていた。
そうしていると、ふと唐突に別の音が介入してきた。
ぴちゃぴちゃと、何かが水の上を跳ね回っている音。その音が他の一切の音を抜き去って耳に届いてきた。気になって男は目を開いた。
波頭が砕け、白い泡にまみれた水辺の中ほどに一人の少女がいた。白いワンピース、小さな体には不釣り合いな大きな麦わら帽子を被っている。
男が少女の存在を視認したと同時に少女も振り向いた。慣れ親しんだものを見るように、微笑む少女。穢れのない表情を彼に向けて、手を振った。
男は目を見開いた。少女の姿だけが鮮明に見え、それ以外の取り巻く背景すべてが霞んで見えた。ああ、とまぬけな声が漏れた。脳裏に懐かしき日の映像が巡る。どこか曖昧ながらも確かにありありと浮かんでくる、記憶。その中の景色と今目前にしている景色がぴったりと重なりあった。
そうか、これは夢だ。明晰夢というやつなのだ。突然胸を打った衝撃に、男はそう結論付けた。男の考えに呼応するかのように絶え間なく吹き付けていた風が、その勢いを失う。その場を形成していた音のひとつが消え、辺りはさっきまでと別のもののように感じられた。
砂浜に小さな足跡を刻みながら駆け寄ってくる少女。
「おはよう、裕ちゃん」
麦わら帽子がずれ落ちないように両手で押さえながら、少女は微笑みかける。やはり、思った通りだった。あの時、あのままの姿で彼女は立っている。信じがたいことだったが、男は甘んじて受け入れることにした。これは夢なのだ、と。
「なんか久しぶりな感じがするの」
そう言って少女は、男の隣に腰を下ろす。
「久しぶり...なのかな」
距離感を掴みかねて、控えめに男は返す。けれども、少女は意に介さない。変わらぬ調子で話しかけた。
「うん。それと、この場所にくるのも。何回もきてるのにね」
「俺もここに来るのは久しぶりだよ」
「はは、一緒だね」
少女は男に向けて笑う。昔と同じように。けれど、昔と同じようには、彼は笑い返せなかった。
少女は男の爪先から頭の上までをじろじろと見ながら言う。
「裕ちゃん、いつの間にか大人だね。いいなぁ、私も大人になりたい」
羨望の混じった声だった。
「大人なんて楽しくないことだらけだよ」
男は吐き捨てる。その表情には、疲れと焦りの色が滲んでいた。一瞬躊躇うように視線を伏せながらも続ける。
「意味もなく日々を過ごしている今よりも、できれば子供の頃のままのほうがよかった。君と一緒にいた時のほうが...」
押し寄せる波が、砂の上に刻まれた小さな足跡を拐っていく。後に残ったのは綺麗に鞣された砂地だけだった。
「ちょっと難しくてよく分かんないや。裕ちゃん、疲れてるの? 」
「ああ、大人ってのはすごく疲れるんだ」
「へえ、大変だね」
「うん」
男が単調に返したきり、沈黙が辺りを包む。彼は遠くを見つめる。視界を覆うのは、空の青と海の青。空を漂う白い雲と、迫り来る海の波だけが、時間の流れを証明していた。
「楽しい話をしよ! 」
沈黙を破るように少女が声をあげる。男は遠目ていた視線を彼女に移す。彼女はにこっとした表情を向けてきた。
「疲れてるなら、楽しい話をして吹き飛ばそう! 」
「楽しい話? 」
問いかけると、少女は考え込むように顎に手を当てる。えーとね、と。そして、閃きを得たように表情が煌めいた。
「裕ちゃんが先生のこと間違ってお母さんって呼んだ時の話! 」
「いつの話だよ、それ」
予想もしなかった少女の言葉に、男は少しだけ上ずった声が口から出た。
「この前だよ、授業中に」
「この前、か...あったっけ、そんなこと」
「あったよ。裕ちゃん顔真っ赤にしてたね。私すごい笑ったもん」
少女は笑いながら言った。彼女の表情の動きに呼応するかのように、長い黒髪が小刻みに揺れた。
少女の明るい声を聞きながら、いつの間にか気分が高揚しているのを男は感じていた。会話にどうしようもない程のズレがあるのを理解しながらも、雰囲気だけで少し距離を詰められた気がした。
「笑うなよ、誰にだって間違いはある」
「ううん、それだけじゃないもん。裕ちゃんは他にもいっぱい失敗ばっかり。私、裕ちゃんのことならなんでも知ってるよ」
少女の表情が綻んだ。彼女は楽しそうに、楽しそうに、笑う。男は、その様子を見て苦笑する。
「変わってないな」
「私? 」
「そう、全然変わってないな」
「そう? でも、裕ちゃんもそんなには変わってないよ。見た目は大人でも、中身は子供だ」
少女は笑って返す。
「そう言われるとそうかも知れないな」
男も笑って返した。
疲れの色はいつの間にか消え去っていた。同じことを淡々と繰り返す日々。その中では味わうことのできない楽しみを男は感じていた。
「あっ、そうだ! 」
またもや、少女が何かを思い付いたように声を上げる。
「どうしたんだ? 」
男は問いかける。
「気になったの。あのアニメの結末どうなったのかなって」
「アニメ? 」
「うん、よく一緒に見てたやつだよ。主人公が悪の大王に敵わなくて一度は負けちゃうんだけど、仲間たちが駆けつけてきてもう一度やる気を取り戻すってとこまでは見たんだけど...」
少女は残念そうに唇をすぼめた。言葉を続ける。
「そこからはなぜか見た覚えがないの。あれ、どうなったのかな。裕ちゃん分かる? 」
そう問われて、男は記憶を探る。頭の奥底に埋没して今まで掘り起こすことはなかったそれを、しかし曖昧にだが思い出すことができた。
「それなら、確か。主人公が諦めないで仲間たちと協力して戦って、最後は友情の力で敵を打ち倒すって結末だったはず。世界から脅威は去って平和が訪れましたってなって終わりだ」
「思ったより普通だ。正義はかならず勝つってやつかー」
少女は期待はずれといった表情を浮かべた。
「聞かなきゃよかった」
「そりゃそうだ。絶対自分で見たほうが楽しいに決まってる」
少女は麦わら帽子を深く被り、目元を伏せた。そして、聞く。
「主人公はかっこよかった? 」
「よく覚えてないけど、かっこよかったと思う」
男は懐かしむように目を細めた。
その時ふと、頭上から鳥の鳴き声が聞こえてきた。
空を仰ぎ見ると、二匹の鳥のつがいがそこにいた。
「鳥だ...」
呟く。
その二匹は暫く二人の上で渦を巻くように飛んでいたが、踵を返すように海の向こうへと飛んでいった。
男はその様子をまじまじと見ていた。しかし、少女は気にも取られず、男の方を向いていた。
「裕ちゃん前言ってたよね。ヒーローになりたいって」
男は少女に向き直った。
その言葉は、思った以上に男の心を揺さぶった。遠い過去の記憶から、確かな感覚が甦ってくる。
男は応える。
「うん、それは覚えてるよ」
「今でも、そう思ってる? 」
問いかける少女もまた、男の思索を感じ取ったように神妙な口調だった。
「いや、もうそんな希望は消えてしまったよ」
男は表情を曇らせる。波の音が、彼の心に染み込んできた。
子供の頃の自分。今の自分。そこには、決定的に違うものが存在していた。
「大人になるとどうしようなく現実的な考えしか出来なくなる。夢物語に思いを馳せることも少なくなる。ヒーローになんてなれやしないって気づくんだ」
けど、と彼は言葉を重ねた。
「昔は本気でそう思ってたんだな。絶対に成れないって知りもしないで」
「そっか...それはきっと悲しいことだね」
少女は少し悲しそうだった。けれど、でもこれだけは言えるよ。と、そう言った。
「私にとって、裕ちゃんはヒーローだよ」
少女は立ち上がった。そして、男の前まで来る。両手を広げて、何かを包み込むような動きを見せた。
「野良犬に追っかけられて私が泣いてるときも、裕ちゃんが守ってくれた。他にもいっぱい助けられたこと覚えてるよ...」
優しい声だった。
その声が男を包み、優しく撫で上げた。
「だから、元気出して裕ちゃん」
「ああ、そう言われると嬉しいな。少し元気が出た気がするよ」
男の表情に明かりが灯ると、少女もまた明るくなった。
「大丈夫だよ、裕ちゃん」
今度はおどけた調子で、少女は言う。男は彼女を見つめた。
「裕ちゃんはやればできる子だからね」
「お母さんみたいな言い方だな」
「うん。私の方が心は大人だもんね」
少女は得意気に言った。視界を遮るように男の前に立ち、胸を張る。腰まである長い髪が微かに揺れた。
「そうか、それは参ったな」
男は頭を掻きながら、苦笑する。
そんな彼の顔を見つめながら、ふと少女は物憂げな表情を浮かべる。それは、何かを決意したようにも見えた。
「裕ちゃんならきっとなんでも上手くいくから、だから...」
強い口調で言う。
「がんばってね...」
今までとは変わった雰囲気の言葉だった。真意を見抜きかねて、男は首をひねる。尋ねかけようとした。
その時だった。
突然、海の方向から強い風が巻き起こった。空気が震え、ひゅうっと音がした。
少女の頭から麦わら帽子が逃げるようにして飛び上がる。彼女が頭を押さえた時にはもう遅く、風によって遥か後方へと運ばれていた。
男は、咄嗟に後ろを振り向いた。高く宙を舞う麦わら帽子に目が止まる。それは、意思を持ったかのように飛んでいった。石垣を越えたあたりでやっと勢いを失い、降下する。そして、見えなくなった。
「優梨! 帽子...が...」
視線を戻し、少女に声をかけようとした所で男ははっと息を飲んだ。
そこには、少女の姿はなかった。
目の前には、ただ広大な海が広がっているだけ。打ち寄せる波の白い部分が彼の心を震わせた。
「優梨...」
少女の名前を呟き、辺りを探す。けれども、どこにも彼女の姿はない。砂の上にも少女のいた痕跡を示すものは何もなかった。
彼は砂浜の上にただ一人で座り込んでいた。他には誰もいない。
風が頬を掠める。なくなっていた音が戻ってきていた。先程とは違い、海から吹く風。そこに強い潮くささを感じて、咽びそうになる。
「やっぱり、夢だったのか... 」
言ってから、男はどうしようもなく現実を感じた。そうだ、彼女は。
「優梨はもう...」
吐き出した言葉は風と波の音に掻き消された。
男は感慨に浸るように目を瞑った。少女との思い出を頭の中に呼び起こす。何度も、何度も、反芻し咀嚼する。しかしそれは、決して悲観にくれているわけではなかった。
彼は海に向けて微笑んだ。
きっと意味がある。今まで自分が見ていたもの。それが例え幻であったとしても。男はそう信じて少女を想った。
「そうだよな、優梨。頑張らなきゃダメだよな」
そう言って男は立ち上がる。声にはある種の決意が籠っていた。足に張り付いた砂をさっぱりと払い落とす。
振り返って、最初の一歩を踏み出そうとした時、背後から声が聞こえてきた。
でもそれは、きっと気のせいだと彼は思った。
『がんばって』