第三十九話 逃走
いつの間にか現れていたネコはジッとこちらを見ている。全身が青色の毛で覆われていて、見た目的にはとても可愛らしい。
だというのに、僕が奴を見て最初に感じたのは恐怖だった。僕はトーニャとは違って魔力を視認することはできないけど、それでもこの小さな魔獣が途方もない魔力を持っていることはわかる。そして、コイツはその魔力を一切隠していない。つまり、臨戦態勢ということだ。
この魔力を前にして、戦って勝てるとはとても思えない。でも、それは最初からわかっていたことだ。僕達に取れる行動は一つだけ。
「リリー! 逃げるよっ!」
僕は即座に立ちあがり、硬直しているリリーに飛び乗った。僕の言葉に反応し、リリーはようやく硬直から解放されて走りだす。
襲われたときに少しでも時間を稼ぐため、奴から視線を外さないようにしながらいつでも召喚魔術を使えるように準備する。
しかし、何故か奴は逃げる僕達に対して何の反応も示さなかった。こちらを見つめたまま、一歩も動かずにいる。僕達が広場を抜けて森に飛び込むのを静かに見ているだけだった。
リリーは僕を載せて一心不乱に森を駆け抜けている。常に周囲を警戒しているけど、あのネコが僕たちを追ってきている様子はなかった。
もしかしたら、襲われるというのは僕の勘違いで、ただこちらの様子を覗っていただけなのかもしれない。そんな考えに縋りたくなるが、あんな魔術を使ってきた奴が僕達を逃がすとは思えない。
エレナを凍らせた魔術、あれは恐らく奴の仕業だ。普段ならあまり危険のないこの森で、アイツ以外にあんな魔術を使えるような存在がいるとは考え辛い。
アイツがあの場で僕達を追わなかった理由は何だろう? 僕達を獲物として見ているのなら、何かしらの行動を起こす筈なのにそれがなかった。いや、僕が気付かなかっただけですでに何かしていたのか?
「ちゅう!」
僕の思考はリリーの鋭い鳴き声によって中断された。前方を見ると、剣を持った三匹のゴブリン達が待ち構えているのが見える。
「リリー!」
僕の呼びかけに対して、リリーが炎を吐きだす事で応える。ゴブリン達はその炎になすすべもなく焼かれ倒れ伏し、リリーはその上を飛び越えていく。
……おかしい。いい加減、ゴブリンとの遭遇率が高すぎる気がする。そもそもあのゴブリン達はどうして剣を持っているんだ? 剣を持っているということは、人間を倒して奪ったということだ。さすがに自分たちで作った訳じゃないと思う。
つまり、ゴブリン達が持っていた剣の数と同程度の人間が殺されている可能性が高い。僕達がこれまでに遭遇したゴブリンの数は二十くらいで、そのすべてが剣を持っていた。最低で二十人以上、それだけの人たちが殺されている森をノアが安全などと言ったりするだろうか?
あのゴブリン達は他の場所から連れて来られた魔獣、もしかしてそういうことなんじゃないか? 上級召喚魔術が使えるアイツならそれが可能だ。
エレナとはぐれた途端、あのゴブリン達は現れ始めた。なら、目的は時間稼ぎだろうか? エレナとの合流を邪魔させ、主であるアイツ自身が一番の脅威であるエレナを無力化し、僕達を釣り出すための餌にする。
……だとしたらめちゃくちゃ性格悪い。魔獣がそこまで考えたりするのかについては疑問を感じるが、この世界の生き物の知能は高い。普通の鳥やスライムですら人間の言っていることを理解できるだけの知性を持っている。あのネコが人間の様な思考で僕達を追い詰めようとしても不思議じゃない。
僕の考えが正しければアイツは相当性格が悪い。次に襲ってくるときも性質の悪いタイミングや方法を使ってくる筈だ。
方法はわからない。あらゆる魔術を使いこなすであろう、あの魔獣の攻撃手段を予測することは不可能だ。でも、タイミングなら想像できる。
奴が襲ってくるのは、僕達が森を出るときだ。助かったと安堵した瞬間、絶望を味あわせる。奴が一度僕達を見逃した理由はきっとそれだ。
……さすがに考え過ぎな気もするけど、最後に見た奴の眼が僕を疑心暗鬼にさせている。あの、どうやって獲物をおちょくろうか考えている嗜虐心に満ちた目、アレを見た瞬間に僕は理解した。奴は絶対にドSだ。
その後も散発的にゴブリンからの襲撃を受けた。先程の考えを元にゴブリンを観察してみると、襲いかかってくる彼らの表情が引きつっているような気がする。……もしかしたら、あのネコに命令されて嫌々襲っているのかもしれない。
あの広場からリリーが走り出して約二時間、ようやく森の入口が見えてきた。奴が襲ってくるのなら、きっともうすぐだ。リリーに注意を促し、自分もすぐに召喚魔術を使えるように意識しながら周囲を警戒する。
警戒しながらも全力で走るリリーの足が森の出口を踏み、そのまま外に飛び出した。襲撃がないまま、僕達は森から出ることに成功した。
そのままの勢いで街道を疾走し、遂にハイアの町が見えた。しかも入口付近にはノアとトーニャらしき後ろ姿が見える。
結局奴からの襲撃はなかった。どういうことだ? 僕の考え過ぎだったのか? この状況で奴が襲ってきてもすぐ傍にはノアがいる。町の近くで戦闘になれば騎士団や冒険者達の援軍としてやってくる筈だ。いくらアイツが高位の魔獣だとは言っても、一匹でその全てを倒すことは不可能だ。
まさか、特級魔術を使えるという個体なのか? いや、ともかくノアに事情を説明するのが先決だ。
「ノア!」
僕の叫び声に反応してノアがこちらを振り向く。全力で近寄ってくるリリーを見て目を丸くしている。ノアの顔を見た瞬間、胸に安堵の感情が広がった。思わず泣きそうになり、目を瞑って耐える。
そして、再び目を開けてエレナが危険だと伝えようとしたとき、僕を中心に複雑な光の線が走っていることに気付いた。これは――――――
「――――――魔方陣?」
呆けたように思わずつぶやいた瞬間、それに反応したように魔方陣が煌めき、僕の視界は真っ白な光に包まれた。
光が消え、僕の目に飛び込んできた光景は数秒前とは全く違ったものだった。さっきまで確かにいた筈のノア達の姿はなく、今まで僕がその背に乗っていた筈のリリーすらいなくなっている。
「召喚魔術……。僕が召喚されたってこと……?」
一体どうやって……。普通、召喚魔術を使うには契約が必要な筈なのに……。……ああ、だけど現在地と召喚者の正体はわかってしまった。
「……エレナ」
僕の目の前には、凍りついたまま動かないエレナの姿がある。奴と遭遇し、数時間前に逃げ出した筈の広場に僕は召喚されたのだ。それなら、召喚者の正体は当然――――――
「助かったと思ったかニャー? 無事に森を出て、町に帰れて、仲間と会えて、その女も元に戻せるとでも思ったかニャー? 残念でしたー、そんなうまいこと行く訳ないニャー。まったく、やれやれだニャー」
声に反応して背後を振り向くと、前に見たときと同じ岩の上で、妙に人間くさい仕草で肩をすくめている青いネコがそこにいた。
「……」
僕を召喚できたことに対する疑問、最高位の魔獣に対する恐怖、安心したところでの不意打ちなんかで混乱したところに、まさか喋るとは思ってもいなかった魔獣のこの発言だ。
うん、逆に落ち着けた。とりあえず、これだけはコイツに言っておきたい。
「君、性格最悪だね」
「褒め言葉だニャー」
僕の言葉に、奴は心底嬉しそうな顔で即答した。……日本から三味線職人を召喚してやりたい。
今日か明日、もう一話投稿します。




