5.ジュビルアーツの森から 2
空気がどんどん甘く、濃くなった。
重い皮靴が清らかな流れを踏み荒らしていく。ジュビルアーツの森はますます深い。時折茂みを縫って帯のような月光が差し込んでいる。
くそ……!くらくらしやがる。
通常より嗅覚が鋭いアフェルは、酒も飲んでいないのに酔った風になりながら先へ先へと進む獣の後を追った。どう考えても獣の方が嗅覚が優れているはずだが、彼は時折アフェルをちらりと振り返りながら平気なふうでどんどん進んでいく。
やがて密生していた植物群が少し切れ始めた。小さな水の流れはその奥から湧いているようだ。
とむとむとむ
ここちの良い音がする。月光が水の表面を眩しく照らした。
銀色の毛を持つ獣は、最後に立ち止まってアフェルを振り向くと、大きく跳んで視界から消えた。
だが、アフェルはもう後を追おうとは思わなかった。そこにあるものを見てしまったからだ。
仄かに光る、大きな塊。
あれは……あれが……
狭間の森、ジュビルアーツの奥に存在すると言う、聖果――
「ピーチュラン!」
それは聞いていた通り、清らかな若い娘の尻のような形と色をした実生だった。
清水は果実の真下からこんこんと湧いている、まるで果汁が溢れるかのように。地面からにょっきり生えている有様はアフェルも何となく想像していた通りだが、驚愕すべきはその大きさだった。
果実の下から柔らかそうな葉が二枚ほど、実を守る寝床のように広がっている。そしてその真ん中には桃色をした果実が――アフェルの腰ほどもある巨大な果実が鎮座ましていたのだ。
先ず大きさをデータに残すべきだろう、普通!
アフェルは内心で罪もない過去の記録者を罵ったが、理由はなんとなく分かっていた。おそらく彼らは正常な判断能力を失って残せなかったのだ。計器や機材はこの森の持つ磁場や湿気によって機能を失い、銀色の獣によって破壊された。
最後の記録者は果実のかけらを持ち帰ることに成功したが、精神的には二度と立ち直れなかった。
全てはこの森と、あいつの意志だ。
あの、銀色の獣――。
アフェルはふらふらと果実に向かって進んだ。甘い香りは今やむせ返るようで、強い酒を飲んだ時のように頭の芯が痺れる。もっともアフェルは酒では酔わないから、あくまでも例えだが。
あたたかい。
そっと手を伸ばして触れた果実の外皮は本当に人間の肌に似ていた。薄くて、見えない程細かい毛がびっしり生えている。そして何より人肌程度の熱を孕んでいるのだ。そっと押すと、わずかに指先が沈む。熟れていると言うのは本当だった。今にも果汁が染み出そうなほど熟れて、はち切れそうな巨大なピーチュラン。
「う!」
瞬間、アフェルは後ろに飛び退いた。
果実がふるりと震えたように思ったからだ。
錯覚か? いや、確かに動いた。
アフェルは少し退いて、果実全体を観察できる大石の上に足場を定めた。固い足の裏の感覚にようやく現実を感じられるような気がする。
そこでアフェルは見たのだった。
ゆらゆらゆら
大きな果実が揺れる。
錯覚ではない。
まるで生きているかのように、大きな実が揺れて震えて。
そして、薄い表皮の一部が不自然に盛り上がったかと思うと――
ぷちゅり
滑稽な音がして皮が破れた。
「な……」
とろりと、蜜液が表皮を伝って流れる。
そして、再びぷちゅぷちゅと音がして、現れたのは。
「う……わ、うわぁ!」
こんな風に叫んだのは何時以来だったか、そんなことを思うゆとりはなかった。
小さな裂け目から出てきたのは、明らかに人間の指だったのだ。
ヤバい、キモい、逃げんと。
そう思っても足が縫い付けられたように動かなかった。
目が吸いついた用に目の前の光景から離れない。
指が、明らかに子どもの指が、果実を内側から破っている。まるで――
まるでこれは。
卵から雛鳥が生まれるようではないか。
ぶしゅ
大量の蜜液と共に小さな拳が飛び出してきた。続いて腕が。
腕はにゅうと伸びて、外側から果肉にめり込み、裂け目を広げていく。
そう、これは紛れもなく孵化だった。
飛び散る蜜が月光にきらきら光る中、それはゆっくりと姿を現す。
「あ……あ……」
アフェルは言葉もなく呻くしかなかった。
果実の上部がぱっくりと口を開ける。そこから丸い黒いものが頭を擡げる。だが、それはその通り頭だったのだ。
黒い長い頭髪が海藻のようにべったり張り付いて、顔までは見えない。
伸ばした腕はどんどん果肉を破り、肩が胸が、腰が露わになってくる。粘性の強い透明な蜜液を全身に纏わりつかせ、その上をぬらぬらと月光が這っていく。
こ、子ども……女の子どもだ。
今やほとんど姿を現したその人型の獣――獣に違いないと、その時のアフェルは思った――は、黒い髪をしていた。べったり濡れた海藻のような髪が小さな体にまとわりついている。それは目を閉じたまま伸びをするように上を見上げ、月光をたっぷり受け止めると、アフェルを見つけたかのように止まった。
「ああ……まさか」
それは白い小さな子どもの顔だった。ぴったり貼りついた長い睫を小さな拳が擦ったかと思うと、目がゆっくりと開いていく。
アフェルと子どもの瞳が正面からぶつかった。
黒い、黒い目だ。
見えているのかどうかは分からないが、黒目がちの大きな目が瞬きもせずにアフェルを見ている。
少女はうんと両腕を突っ張り、ついに果実をめりめりと割ってしまった。分厚い果肉の下は大きな空洞になっていて、娘はその中に収まっていたようだ。
「……」
ついに娘は割れたピーチュランの真中にすっくりと立ち上がった。黒い髪、黒い瞳、白い肌を全て月光とアフェルに晒して。
ぴちゃり
蜜を滴らせながら娘が片方の足を抜く。その間も視線はアフェルに据えられている。これはどうやら見えているようだ。
「……っ!」
果実に置いた片手が滑った。頼りない細い体が前のめりに傾いだ。
飛び出したのは無意識だった。
気がつくとアフェルは片手で転びかけた娘を支えていた。
「……あ」
意外にしっかりした力で腕にしがみついていた娘が顔を上げる。今度こそ二人は至近距離でお互いを見つめる羽目になった。その瞬間――
にこり
娘が笑った。
少なくともアフェルには笑ったように見えた。
「!!」
(やはりお前でよかった)
「何?」
いつの間にか銀色の獣が果実の根元に座って二人を見ている。
「喋っているのはお前か?」
なんで犬ころが口をきけるんだよ!
(数年前にピーチュランが異世界から子どもを吸い込んだのは分かっていた)
アフェルの問いを無視して獣は心話を送り込む。
「は? 異世界? 吸い上げた? お前何言ってんだ?」
(だが、いつ出てくるのかは分からなかった。しかしここ数日、果実が大きく揺れ出したので、間もなくだということは分かっていた。そこへ現れたのがお前だ。我が目に叶わずば、殺してしまえばいいと思っていたが、そうしなくてよかった。これもピーチュランの意志だろう)
「どうでもいいが何を言ってるのかさっぱりわからん。とりあえずこの子はなんなんだ?」
(知らん)
獣はふん、と横を向いた。
「知らんってお前」
(この世界の境界に根を張るピーチュランが、その娘を選んで吸い込んだ。そして、その胎内で育て、期が熟して外に産み出した。我に分かるのはそれだけだ)
「……どうすりゃいいんだ? 娘って、これは人間か?」
(人間だ)
「お前……」
アフェルは自分を見つめている娘に目を落とす。その間もずっと彼女はアフェルを見ていたようで、目が合うとやっぱり笑った。
「お前、連れて行けってか? この俺に?」
「む」
なんて、目をしてやがる。
「おい、そこの犬……お前の事だよ。向こうを向くな!」
その途端、獣は威嚇するように牙を剥いた。
(次に我を犬と呼んだら、喉笛を食い破ってやるが)
「へぇっ! だったらこの子はお前が面倒みるんだな!」
(……)
「ふん、分かったら一緒に来い。俺だけに面倒を押し付けて、一人だけ涼しい顔ができると思うなよ」
(お前と行く?)
「そうだ。じゃないとこの話はなしだ!」
いつの間にか、あんなに朦朧としていた意識が澄んでいる事にアフェルは気がついていない。目の前の獣を一つの人格として扱っている事にも。
「俺と一緒に来てもらおう……って、だからお前、そんなにしがみ付くなよ小娘。あーあ、服が濡れちまった。べったべたじゃないか。このままだとアリがたかるわ。今そこの川で洗ってやるからちょっと離れろ」
「おー?」
ひょいとアフェルは不思議そうにしている娘を抱き上げた。異様なほどに軽い。だが骨格はしっかりしており、栄養不足と言うのでもない。
「……マ……マ?」
小さな口が舌足らずにもぐもぐと動いたが、よく聞き取れない。アフェルはぬん、と顔を近づけた。
「え? 何だって? モモ?」
「……モモ!」
それがモモとアフェルの出会いだった。
ジュビルアーツの魔の森。
ピーチュランの聖果。
銀色の獣。
彼らが二人を見届けた。