4.ジュビルアーツの森から 1
過去の話。
5年前――
「くそっ! 完全に迷っちまったか?」
アフェルは忌々しそうに吐き捨てた。
ジュビルアーツは魔の森。そして狭間の森。
通常の森海のさらに奥にあると言うその場所は、余程の命知らずでもない限り、普通の人間には足を踏み込めない場所だった。いや、命知らずと言われる者たちでさえもその名の通り、命を知らないものにされる魔境なのである。
森海を進む間、幾度も獣たちに遭遇しながらも狂わなかったアフェルの鉄壁の方向感覚が、森を流れる小さな流れに遭遇した途端、妙な具合になってしまったのだ。おそらくそこが境界だったのだろう。
「ち……なんかおかしな磁場のようなもんが働いているのか?」
念のためにと持って来た、小さな磁石がさっきからくるくると回りっぱなしなのだ。
「今更こんな古臭い道具に頼るってのも変な話だが、しっかしこれでは……」
周囲の樹木は、今まで通過してきた通常の森海と明らかに種が異なっている。
通常の森海と言うが、それでさえ普通の人間ならば、完全武装していないと、とても踏み込めないような危険地帯なのである。ましてやその更に奥の、伝説にもなっているジュビルアーツの森に至っては。
体にまといつく空気は痺れるように甘く、濃い。生物の気配が全くしないのに、まるで生きているかのように不規則に揺れる植物群は、ありえない程鮮やかな色で、男を妖しく誘う魔女のようだ。
くそっ……!
アフェルがこんなところに踏み入れてしまったのは、十数年に一度しか実をつけないと言う幻の果実、ピーチュランの聖果が熟しているという情報を得たためだ。
謎の多いその植物は、森が深くて清水の湧く、限られた場所にしか生えない上、成長がとても遅い。芽が出てから花が咲くまでに数年、花が咲くまでに更に数年、その実が成って熟すまでにも数年を要すると言う幻の植物だ。
花が咲くと同時に葉や茎は刈れるので、丸d巨大な花が地面に直接現れたような奇異な光景だが、その根は異様に深く太くまっすぐに伸び、引き抜こうとしても引き抜けるものではない。
そして、熟れた果実から染み出る蜜液は水の流れに混じり、下流で僅かな数値となって表れて、市井のピーチュラン研究者を任じる男からアフェルに齎された。
ピーチュランの果実が捥ぎ時のようだ。
聖果と呼ばれるその実は、清らかな処女の尻のような色と形をしていて、得も言われぬ香りがすると言う。
しかし、数少ないデータを漁っても、その実態は得体が知れない。
共通しているのはその形状、そしてその果肉や果汁はどんな病や怪我にも効くという、今時子どもでも笑い飛ばすようなありきたりな伝説だけだ。
まぁ、何らかの信ぴょう性はある。
現に一番新しいデータでは、ゴシックシティの調査隊が金に飽かせた最新装備で挑んだ時のものだ。
それによると多くの犠牲を出しながら持ち帰った果実の一部から、この世界では存在すら知られなかった種類の希土類が発見されたという。無論当時は極秘事項であったが、それから十数年を経ても新たな果実は発見されておらず、次第に規制は緩んでいったと言うことらしい。無論、情報収集の為の情報操作であることも十分考えられるが、アフェルに情報を持ち込んだ男は、元ゴシックシティの研究員だったのだ。
一かけらでも持ち帰る事が出来たら、一生遊んで暮らせるぜ。
「ふぅ~ん」
彼は言ったものだ。
アフェルは別に金が欲しい訳ではない。自分は一生食うに困らないと、心から信じている。腕にも見場にも自信がある。その気になれば、とても簡単にどんな物や名誉、女でも手に入れることができるからだ。
だが、心の空虚は一度も埋められたためしがない。彼は常に何かを求めて餓えていた。だから、貪欲に彼は仕事を求めた。どんな危険な仕事でも構わなかった。自分には異常なほどの危機察知能力がある。それはただの一度も彼を裏切ったことがなかった。
だから、彼は引き受けた。
新たなる刺激、緊張、そして充足を。
この飢えを満たすものならば何でもいい。
その筈だったのに、今アフェルは、生まれて初めて感じる恐怖に似た感覚を味わっている。こんな間の森で方向感覚を失い、夜を迎えようとしているのだ。
暇だったとはいえ、こんな話に引っかかっちまった俺が阿呆だったな、今更だが。
引き返すか。
これ以上進んだら命が危ない、そう彼の本能が告げている。時間の観念すらおかしくなっているのか、まだ暮れるはずはないと思っていたが、いつの間にか辺りには夜の気配が濃く漂っている。
大丈夫だ。流れの方まで何とか戻って下流に下っていけば、必ず抜けられるはず。
だが――
「やっぱ、タダでは出してはもらえねぇか」
背後から寄せてくる、ただならぬ殺気が彼の項を髪を逆立てるのだ。
アフェルはさっさと諦めて、最新型のビームガンを両手で構えて腰を落とした。これで討ち漏らした獲物はいない。だが、今、そんな事は何の支えにもならなかった。
「……っ!」
上方から音もなく飛び掛かる気配、一体いつの間に上を取られたのか?
間一髪で飛び退く。
そして、たった今までアフェルが立っていた場所には、見たこともないほど美しい獣がいた。銀色の長い毛をもつ、大きな犬に似た獣。
「妙な取り合わせだな。極彩色の森の中に北国風の犬とはな」
言い終わらないうちに、銀色の犬が飛び掛かった。予備動作のない美しい跳躍。鋭い爪が白く光る。アフェルはできうる限り後ろに退きながら、ビームを放った。薄暗い森の中に閃光が突き抜ける。だが、獣は空中で体を捻って、ビームを交わした。こんな至近距離で討ち取れないとは、ハンター歴の長いアフェルの記憶にない。
分かっていたがかなりの知能と運動能力を持っているのだ。でなければ、ビームの軌道を予測して空中で体勢を変えるなどできるわけがない。
気を抜くと殺られる。
脳がそう判断した途端、アフェルの纏う空気が変わった。青緑の瞳が煌めき、いつものふざけた態度は戦士のそれに切り替わる。
彼は獣に攻撃の隙を与えまいと、反動の少ないビームガンを矢継ぎ早に発射した。しかし、この森を知り尽くしている奸智に長けた獣は、葉陰や梢を縦横無尽に飛び回り、アフェルの正確な狙いをギリギリで躱してゆく。わずかに毛並みを焦がしただけで何のダメージも与えられなかった。これではエネルギー残量を減らしていくだけだ。無論シリンダーの替えは持っているが、この相手では装填し直している間に、首を持って行かれるだろう。
じゃあ次。
アフェルはさっさと気持ちを切り替えた。ビームガンをホルダーに納め、背中に差したソードを抜きさる。刀身が長い。遮蔽物の多い場所での接近戦には最適だろう。
右――。
右手で剣を抜いたとみて、獣は利き手を判断したのだろうか。右肩の後ろから鋭い気配が飛燕の速度で迫る。
「やっ!」
渾身の返し刃は、やはり獣の長い毛を掠めただけだった。相当に手ごわい。
そのまま彼らは樹木の間を縫いつつ、上下左右に間合いを取って渡り合った。
アフェルはソードで、獣は鋭い爪と牙で。
太刀風が茂みを切り裂き、鮮やかな花弁が幾度も散った。
アフェルは珍しく肩で息をしていた。だが、焦らない。清らかな流れを幾度も踏み荒らして戦う内に徐々に獣の動きが見切れてきたのだ。現にこの数手で、獣の肩を薄く斬りつけ、そこから赤い血が滲みはじめたのだ。
後五手、いや三手くらいか?
いつしかアフェルは、あの満たされない感覚が霧散してしまっていることに気がついていた。自分は今追う者であること純粋に悦んでいる。
「っく!」
鋭い前足の爪に掛かるのをアフェルは辛うじて避けたが、獣はすぐ前のよく撓る樹木の幹を反動にして素早く向きを変え、横っ跳びに逃れるアフェルの左肩に後ろ足で蹴りを入れた。大抵の刃物は通さない筈のビジュール革の防具が破れ、肌が裂ける。
「くそっ! この獣め」
男と獣は幾度も絡み合い、ぶつかり合った。それに掛かれば致命傷を負う牙からは辛うじて逃れていたが、爪には幾度も掠られてアフェルの傷が増えていく。だが、アフェルもSSS級ハンターの称号を伊達に冠していない。獣の動きに慣れてきた彼は何とか反撃を試み、獣の美しい銀色の毛を血で染めることに成功していた。
「せあっ!」
右手に持ったソードで凪ぐと見せかけ、アフェルは左手に隠した小さな手裏剣を投擲した。それは見事に獣の右肩に刺さる。刃が小さいので大した傷にはならないが、それでも動きを弱める事ぐらいはできる筈だった。これなら――
「!?」
しかし、獣は突然攻撃を止めたのだった。
「これで終いか?」
アフェルは薄く笑って挑発する。意図は伝わるはずだった。
だが美しい獣は静かにアフェルを見返したのち、静かに魔の森の奥へと入っていく。逃げるのではない、誘っているのだ。
「……っ!」
考える暇はない。
アフェルも抜き身を引っさげたまま、獣を後を追って密生する葉陰の中に飛び込んだ。