1.二人と二匹 1
「アフェル!」
真昼の熱い風を裂いて高い声が響く。
「俺が村の外れまでおびき寄せるから」
小柄な黒髪の少年が、白い石でできた家々の間をすり抜けながら叫ぶ。
「モモ! 下を走るな!」
「大丈夫! いつでも跳べる!」
背後から聞こえた錆びた声に被せるように少年(?)は応えた。艶やかな断髪、長く伸ばして括った後ろ髪だけがぴょんぴょんと背中で跳ねている。細い体にまとった黒い長衣、その下は鮮やかな桃色のアンダーウェアである。
そうして、彼は低い家々の間をすり抜けながら、村の外へと駆けた。真昼だと言うのに、通りにも広場にも人影はない。
モモはちらりと後ろを振り返った。
その視線の先に。
毒々しい紅色の鱗を持つ、すらりした爬虫類、ビジュール。
そいつは前傾姿勢ながら見事な二足歩行でモモに迫る。体を伸ばせば二階建ての家の高さに匹敵するだろう。体に比べて小さな頭には金色に光る眼。縦長の瞳孔に小さな姿が映り込み、瞼のない目が嗤った――ように見えた。
あと五モル、距離を詰めれば獲物は手に入る。そう信じたかのように。
既に村の外れに近い。モモは外郭代わりに植えてあるものを見てにやりと笑った。左腕を斜め後方に振り上げる。体がぐいと後ろに引っ張られる。
「今だ!」
モモはアームから発射したワイヤーが加速して縮むのに身を任せながら叫んだ。たった今までモモが立っていた場所にビジュールの口吻が突っ込む。
「うわ!」
モモは飛びながら思わず足を折りたたんだ。
もしかしたら今のはちょっと危なかったかもしれないな。あと1秒、ワイヤーを発射するのが遅れていたら、ビジュールの鋭い牙に足の先を食いちぎられていたかも。
へっへ! まったく、ちみっとも気が抜けねぇや!
モモは空中で器用に身を反転させると、ワイヤーをきゅるきゅると手元に回収しつつ二階建ての民家の屋根に着地した。背中を伝う嫌な汗は意識しないように、目の前で暴れている獣に集中する。
モモの自慢の足を食いちぎろうとしていた爬虫類型の獣、ビジュールは、モモの陽動に見事に引っかかり、密集しているハリガネザシの藪に突っ込んでいだ。辺境の村でよく外郭替わりに植えられているこの灌木は、枝にも茎にも錐のように鋭いとげが無数に生えている。また、柔軟性のある小枝が網の目のように絡まっているものだから、それにとっ捕まったが最後、有刺鉄線に突っ込んだバイクのように身動きが出来なくなるのだ。
だが、このビジュールは成獣の雄だ。しかも、獣の常で痛みには滅法鈍感だから、多少皮膚が破けてもハリガネザシの藪から這い出てくるだろう。餌の少ないこの時期、目の前にぶら下がったご馳走をあっさりあきらめるとは思えなかった。
シュー!
声を持たない爬虫類の獣は、尖った鼻先から生臭い呼気を噴射した。そしてそのまま絡まった手足を引き抜こうとメリメリと身を捩った。ハリガネザシが根元から引っこ抜かれる。あと数秒で獣は自由の身だ。
だが――次の瞬間。モモの眼前に鮮やかな赤い飛沫が吹き上がった。ビジュールの血である。
「ひょおおお!」
とぼけた気合いと共にモモの傍に降り立った黒い大きな影。男だ。
「アフェル!」
着地の衝撃で割れた瓦がガラガラと鳴るが、男は意にも解さない。
「まだだな」
アフェルの放ったビームは正確にビジュールの首を打ちぬいていたが、惜しくも急所は逸れたようだった。サンザシに絡まっているのは手足だけで、ぐねぐねと捩られている細い首に命中させるだけでも奇跡だろう。それに、元々人間用の武器であるビーム弾では与えられるダメージは知れている。ビジュールは痛覚が非常に鈍いのだ。
「もう少し拘束プレイを楽しんでくれよな、別嬪さん!」
アフェルはにやりと笑うと、太もものホルダーから鋸歯状の刃を持つ大ぶりのナイフを引き抜き、反対の手に巻いたアームプロテクトからワイヤーを放出した。その碇型の先端は見事に暴れるビジュールの下あごを突き通し、アフェルは一番危険な獣の真下に回り込む。
「アフェル!」
モモの絶叫が聞こえたのかどうか。アフェルは掌中のグリップを握り、ワイヤーを巻き取った。ぐんと体を上昇させつつ、逆手に持ったナイフでビジュールの弱点と言うべき腹の柔らかい皮を裂いてゆく。暴れまわる前足の爪に掛からなかったのは身のこなしの妙と言うべきか。アフェルが巻き終えたワイヤーの反動でそのまま上に跳躍した途端、裂けた腹膜からどっと血と内臓が滝のように溢れ出す。
「やった?」
モモは屋根から跳躍するとアフェルに駆け寄って尋ねた。男はピーコックブルーの瞳を獣に据えながら答えた。
「多分。けど、こいつら異常に生き汚ねぇからなぁ。もう大丈夫だと思うが、しばらく近寄るんじゃねぇぞ、モモ」
「分かった」
「よし」
素直な答えにアフェルはようやく傍らにすり寄るモモに目を落とした。黒い目がまっすぐに自分を見ている。アフェルはさらりとしたモモの髪を大きな手でかき回し、器用に右目でウィンクすると、再び断末魔のビジュールに目を吸えた。
果たして、ビームで首を撃ち抜かれ、腹を大きく裂かれながらもビジュールのガラス玉のような目は自分を殺しつつある男を見つめている。どぎつい金属光沢を放つ紅色の鱗を持つしなやかな獣は、かっと口を開いて血に濡れた牙を剥いた。それにはこいつを誘き出す時に使った、囮のヤギの肉片がまだこびりついている。死の刹那でも殺戮の本能は衰えないのだ。
生臭い息が二人に吹きかかった。だが、それが最後だった。
今にも喰らいつこうとする本能の足掻きを刹那に見せてから、獣は動かなくなった。体のあちこちに刺さった棘のお蔭で倒れることもできぬまま息絶えている。原始的な生命の余波で筋肉だけがひくひくと蠢いていた。
「……終わったね」
「終わった」
モモはアフェルの横顔を見ながらつぶやいた。
彫りの深い、精悍な顔立ち。逆立った短い金髪は赤みがかって豪華である。襟足だけ長く伸ばして縛っているのはモモと同じだが、そもそもモモがアフェルの髪形をまねしているのだ。森海色の瞳はどんな女たちにも注がれ、愛嬌のある微笑みを浮かべる。そして、長身を包む、黒い戦闘服。ロングコートの裾はかなり解れているているが、それさえ格好よく。
ちぇっ! なんか腹立つなぁ。
モモはビジュールを観察しているアフェルにこっそり舌を出すと、再び視線を死んだ獣に戻した。
「こいつでかいね……」
このビジュールは平均的な雄をはるかに凌ぐ体高を持っていそうだ。
ビジュールの雄は成獣の平均で約2.5モルほどの大きさだが、この個体は3モルはある。かなりの年月を生き抜いてきたのだろう。
「これなら高く売れるね」
「街まで運べたらの話だけどな」
「車を雇って運んでもらえば?」
「は! 足下見られて吹っかけられるだろうなぁ。けど確かに俺の車にゃ乗らねぇだろうし……じゃねぇ! モモ! お前どういうつもりだ!」
アフェルはいきなり怒り出した。
「へ?」
「へ? じゃねぇだろ! さっきはひやっとしちまったじゃねぇか!」
「さっき? さっきって何?」
「とぼけるな! 後一瞬逃れるのが遅かったら太股一本持ってかれちまってたかもしれねんだぞ! 危ない橋渡んのもほどほどにしろ!」
「大丈夫だったじゃないか。なんでそんなに怒んだよ」
実はたっぷり冷や汗を流したとは、言えないモモである。
「怒らいでか! 俺はお前の保護者だぞ! つか、俺がいなかったら、この世界に存在すらしてなかったんだ。お前に俺に黙って怪我したりする権利はない!」
「ああ!? 何それ、恩着せがましいたったらないね! 怪我ぐらい自由にさせろ!」
「駄目だね。ガキ」
「そっちこそ若づくりのジジィじゃんか! それにケチだ!」
「なんだとぅ」
(お前たち、その辺にしておくのだな)
「ユーガ!」
モモは慌ててその辺りを見回したが、周囲には空っぽの民家ばかりで生きているものは二人だけである。
「ユーガ! どこだよ」
(ここだ)
この村で一番高い鐘楼の屋根の下で銀色の影が揺らいだ。
影は真昼の太陽を背に宙へと躍り、いくつかの建物を跳び移りながら二人の傍に降り立つ。
それは――
銀色の長い毛足をもつ、大きな犬だった。
狼よりもしなやかで、足が長い。美しい獣だ。
そしてその体毛と同じ銀色の目は、明らかに知的な光を帯びて大小の人間を見上げた。正確にはモモとは背丈がそれほど変わらない程だから、見上げたと言うには当たらないかもしれないが。
「お前、遅いぞ。いたんだったら手伝え」
アフェルはぶっすりとした様子で、獣に言った。
(嫌だ。私はこんな下等な獣を相手にしたくない)
「お前だって獣だろうが。それにもう少しでモモが怪我するところだった」
(見ていた。お前がいう程、間一髪ではなかったがな。モモだって成長している。私ほどの神獣になると、そんなことくらいはわかるのだ)
「ほうらね!」
モモは嬉しそうに銀色の犬の首に抱きついた。獣は少しくすぐったそうにしながらも、モモのしたいようにさせている。
「ユーガ大好き!」
(知っている。だが、モモは冷や汗をかいていた。腕は上がっても己の技量に全幅の信頼が置けないなら、無理はするものではない)
ユーガは重々しく心話をよこす。これが彼らの会話だった。
(あと、お前も一応雌なのだから、余り口汚く罵るものではない)
「はぁい」
少年ならぬ、少女のモモはどうやらユーガには結構素直なようだ。人間が犬の言う事をよく聞き分けると言うのも変な話だが。
しかし、アフェルは口をひん曲げている。
「神獣殿はお偉いよ」
(私にそんな口をきく暇があったら、もう少しモモの動きに気を配れ)
「へいへい。それにしても腹が減ったな、さぁ、キャンプに戻ろうぜ。モモ、こいつの映像を依頼主に送っとけ、残りの金を用意しやすい様にな」
「うん、戦闘中のも撮っとけばよかったね」
モモは短いジャケットのポケットから、タブレットを取り出し、死んだビジュールに向けた。
「やっぱり、バストショットもいるよね」
言いながらくるくると動き回るモモを、男と犬二対の視線が追いかけていた。
「あ! ルリイが戻ってきたよ!」
空を指してモモが嬉しそうに叫ぶ。最初、染みのように見えていたそれはぐんぐん近づいて鳥のような形を取った。翼竜だ。
「なんかつかんでる。伝令かな?」
モモは広場の方へと飛び出した。その後を風が吹き抜け埃が舞い上がる。
血なまぐさい獣の死骸の他には、なんと言うこともない辺境の乾いた昼下がりだった。
獣のよみがなは、基本的には「じゅう」で