最終話
帝都ビュザンティウムは、総延長15ミッレ、高さ10パッスス、厚さ3パッススの内壁と、同じく総延長15ミッレ、高さ14パッスス、厚さ5パッススの大城壁によって囲まれ、幅13パッスス、深さ5パッスス半の堀が巡らされた、難攻不落を誇る巨大都市である。
人口は百万人をゆうに超え、皇宮や闘技場、戦車競技場といった巨大建築がそびえ立つ。帝国中、いや、世界中から交易品が集まり、その繁栄ぶりは「ビュザンティウムは世界の半分」と称賛される。
そんな帝都のある日、ローメルシア建国紀元6020年ヴァンサの月(7月)18日、十時(午後三時前後)すぎ。ハリーチ湾によって南北に分けられた都市内、内壁内南岸部の旧市街で、わっと歓声が上がった。
場所は、皇宮にほど近い円形闘技場である。そして、闘技場の中では、今まさに競技がクライマックスを迎えていた。
『ベルトルド!ベルトルド!』
観客たちが大声で叫んだ。
闘技場では二人の戦士が戦っていた。一人は森林エルフ族の魔導剣闘士、もう一人は狼人族の剣闘士である。魔導剣闘士の名はベルトルド。エルフ族の奴隷で、人気・実力・容姿ともにトップの剣闘士だ。森林エルフ特有の繊細な美貌と、木の葉のような翠玉の瞳、月のように輝く金色の髪をもった背の高い青年で、手傷はおろか、砂埃ひとつついていない。
一方、挑戦者である狼人族の剣闘士セツトは、ビュザンティウムではほぼ無名ではあるが、地方闘技場の覇者である。しかし、ベルトルドに一方的に攻撃され、埃まみれ土まみれ、その上あちこちに切り傷や火傷があり、赤黒い血を流していた。
狼人族の不利は明確であり、ベルトルドの勝利はゆるぎないものであった。実際、あと一回大きな魔法を浴びせかければ、セツトは地に倒れ伏したまま、動かなくなるだろう。
しかし、それでは面白くない。じっくりたっぷりいたぶって、観客の興奮が最高潮になった時にとどめを刺す。相手は死ぬかもしれないが、勝負の世界では仕方がないことだ。
ベルトルドの口が三日月のように吊り上った。エルフ特有の甘い美貌はどこに行ったのか、この上もなく嗜虐的な笑みである。
顔をこわばらせた狼人族をよそに、エルフは何事かを呟いた。すると、空中に無数の氷の針が出現する。それはあまりに細く鋭く、一見した限りでは霧のようにしか見えない。そして、ベルトルドが軽く手を振ると、悪意をもったその霧が、狼人族の剣士に襲い掛かる!
セツトは、そのぼろぼろの姿からは思えぬほどの速さでそれをよけた。しかし、さすがにすべてをよけきることはできなかったようだ。鎧が裂け、顔をかばった左腕の肉を抉って、白い骨があらわになる。嫌味なほど白い闘技場の敷石に、真っ赤な血が飛び散った。
観客席から歓声が上がる。狼人族は苦しげにうめくも、すぐに腰巻の裾を切り裂き、患部に巻き付け止血する。焼け石に水だが、どうにかなるだろう。
狼人族の剣士は観客の声援にこたえるエルフをにらみつけると、剣を杖にして立ち上がろうとする。
手負いの獣が見せる怒気と、燃え滾るような凄まじい闘気に、観客はさらに興奮した。手を打ち足を踏み鳴らして狼の名を呼ぶ。
『セツト!セツト!』
『立て!立て!』
闘技場が揺れ、うねる。まるで嵐が来たかのように。
その声に力を得たセツトは、歯を食いしばって立ち上がった。傷から血が溢れ出てくるのも構わず、長剣を肩に担ぎ、構えて見せた。そして、ぎらぎらとした眼でエルフを見据えると、咆哮を上げて猛然とベルトルドに向かって突進する。
観客がドォと歓声を上げた。
ベルトルドは目を見開いてその様子を見ていたが、すぐさま不適な笑みを浮かべる。そして、周囲に炎の球を浮かべ、先ほどと同じようにセツトに向かってそれを放った。
炎の球は不規則な動きをとり、セツトに襲い掛かかるも、狼は器用にそれを避ける。最後の炎球を避け、エルフに切りかからんとした瞬間―セツトの目の前に、巨大な炎が姿を現した。
炎は声を上げたセツトを瞬く間に呑み込んだ。炎はうねり、踊り、セツトを燃やしていく。観客が再び歓声を上げた。そして、勝者たるベルトルドの名を叫び続ける。
ベルトルドはその様子を満足げに眺めた。これで、今回の勝利も決まったようなものだ。あと何度か戦えば、奴隷の身から解放されるだろう。
審判と水桶を持った男たちがやってきた、その瞬間だった。
真っ赤な炎が中央から割れ、火傷を負い、真っ黒にすすけたセツトが飛び出してきた。セツトは剣を振り上げ、何が起こったのか理解できないベルトルドに、雄叫びを上げて切りかかる。
熱を持った長剣が右肩から袈裟懸けに振り下ろされ、ベルトルドのからだから、ぷし、と血が噴き出た。ベルトルドがゆっくりと後ろに倒れていく。同時に、セツトも剣を落とし、がくりと膝をついた。
ベルトルドの勝利を確信していた闘技場は、水を打ったように静まり返った。
どさり。ベルトルドが倒れる音が、シンとした闘技場に、妙に響いた。その直後、我を取り戻した観客たちが、勝者となったセツトの名を呼ぶ。
『セツト!セツト!』
息を整えるセツトのもとに、審判がやってきて勝利を宣言した。新たな勝者となったセツトは、医務官の肩を借りて立ち上がり、少年奴隷から月桂樹の冠をかぶせられる。
観客たちの興奮は最高潮となった。セツトは冠を掲げると、観客たちの声援に応えたのだった。
「いや、剣闘を見たのは初めてだが、迫力があるな」
帰途に就く観客たちの声で騒がしい闘技場の階段を下りながら、興奮冷めやらぬ様子でサリーフは言った。すると、彼の隣を歩いていたオルシーダは満面の笑みを浮かべる。
「楽しんでくれたのならよかったわ。また来ましょうね」
「ああ」
サリーフは頷いた。
彼は騎士であった。よって、トゥルネイやジョストなどの「比較的血が流れない」競技は、観戦するのも参加するもの好きだったが、「帝国流」の血なまぐさい競技は嫌悪していた。
しかし、この国に来てはや24年。骨の髄まで帝国人になってしまったサリーフは、オルシーダとともに我を忘れて歓声を上げていたのだった。
エウロパでは「奴隷を戦わせて、敗者は処刑。その血を異端の神々に捧げる」ということで有名なローメルシアの剣闘競技だが、実際のところはそうでもない。確かに、真剣勝負ゆえに大怪我をすることはあるし、死ぬこともある。無様な試合をしたものは、見せしめとして殺されることもある。
しかし、実際にそのようなことになれば、対戦相手を要する興行師は莫大な「慰謝料」や「見舞料」を支払わなければならなくなるし、人気剣闘を取り巻くファンや、剣闘士一人を育て上げる時間と金のことを考えれば、ほいほいと死なせるわけにもいかない。
そのため、よほど大昔ならばともかく、現代ではほとんどが敗者に慈悲を与える結果になっており、実際に殺されるのは一割にも満たないのである。
件のベルトルドも慈悲を与えられ、大怪我をしたものの、剣闘士専用の診療所で治療を受けるのだとか。
「ベルトルドは人気の剣闘士だけど、今回は負けてくれてよ……」
聞き捨てならない言葉に、暗い顔で階段を下りていた観客の一人が、ぎろりとオルシーダをねめつけた。オルシーダは慌てて口をふさぐと、ごまかすように咳払いをする。
「こほん。怪我が治ったらこれからも活躍してくれるでしょう。頑張ってほしいわね」
この場所ではあまりに迂闊な失言である。やや呆れたサリーフは、肘で軽くオルシーダを小突いた。オルシーダはぺろりと舌を出すと、素知らぬ顔で歩き続ける。
しかし、浮かれたくなるオルシーダの気持ちも、まあわかる。サリーフは周囲に「やたらと暗い顔をした者」がいないか確認すると、オルシーダの耳元でささやいた。
「……まあ、懐が温かくなったのは、ある意味彼のおかげだからな」
「ふふ、112倍よ、112倍。200セステルトが22400セステルトになって帰ってきたわ」
オルシーダも、やっと聞こえるほど小さな声、しかし、喜びを隠しきれていないそれで答えた。
人間社会の常として、勝負事があれば賭けが発生する。ローメルシアでは、剣闘をはじめとする格闘技や戦車競技、競馬などのいくつかの競技では、国が胴元となり公営賭博が行われていた。
そして今回の闘技では、帝都では無名に近いセツトより、圧倒的な強さを持つベルトルドに賭ける者がほとんどだった。しかし意外なことに、勝ったのは無名に近いセツト。結果、払戻金が107倍と、とんでもないことになっていたのである。
余談だが、200セステルトとは、属州民の平均的な労働者の二か月半分の収入だ。そして、22400セステルトあれば、帝都の郊外に小ぶりの一軒家が買える。それほどの大金である。
「まあ、何よりすごいのは姫さまよ。今回『セツトに賭けなさい』って言われなきゃ、ベルトルドに賭けてたわ」
「ああ、まさか、猊下が賭博の天才だったとはな……」
サリーフは配当金が書かれた紙を見ながらつぶやいた。100セステルト賭けて、帰ってきたのは11200セステルト。今住んでいる高級集合住宅の家賃を4年分支払ってもおつりがくる。。
それもこれも、パルシャヴァーニの助言に従ったからだ。なんでも、パルシャヴァーニは昔から賭け事に異様に強く、身ぐるみを剥いだことも一度や二度ではないのだとか。今回いくら儲けたのか……男爵家の年収ぐらいは軽く稼いでいそうとはオルシーダの談である。
サリーフは首の財布に用紙をしまうと、隣にいるオルシーダに話しかけた。
「それはまあいいとして、今日は祝杯だな。オリナ産のチーズでも買って帰ろうか」
「オリナのチーズ!いいわ、最高ね!」
オルシーダが歓声を上げた。オリナはガリア・ルグドネンシス属州北部にある小さな地方である、牧畜が盛んな地域だ。そこで作られる白カビのチーズは、1リブラ40セステルトという高級品である。しかし、そのとろりとした濃厚な風味と香りは万人を魅了してやまない。
もちろん、オルシーダもサリーフも大好物だ。
「今日は儲けさせてもらったからな。ちょっとくらい散財したっていいだろ」
「そうね。それから、ファレルヌムのワインも買いましょ。うふふ、楽しみ」
オルシーダは楽しそうに笑った。彼女が嬉しいと、サリーフも嬉しくなる。日焼けした男の顔に、穏やかな笑みが浮かんだ。
「昨日、姫さまからテッラマレのチーズとハムをもらったの。それも出しちゃうわ」
「ちょっとした宴会になりそうだな。トマトとアボカドがあったろ、あれでいつものサラダでも作ってくれないか?」
「いいわよ。あなた、あれ好きだものね。ッと、その前に」
オルシーダは気持ち悪そうに腕をさするった。サリーフも同じように腕に触れてみると、汗と湿気でべとべとだった。
「たくさん叫んで汗もかいたし、疲れたわ。浴場によってから帰りましょ」
オルシーダは汗だくになった衣服をつまむと、顔をしかめた。サリーフも襟元をつかんで軽く臭いをかいだ。焚きしめた麝香の香りがすっかり薄れ、べっとりとした不快感と汗のにおいが漂っている。
「同感だな。ついでに、シャニから着替えを持ってきてもらおう。せっかく体を洗ったのに服がべとべとじゃ意味がないからな」
「そうね。汗臭いのは嫌だもの」
そういいながら、オルシーダはそっとサリーフの手を握り、そのたくましい体に寄り添った。サリーフは嫌がるでもなくそれを受け入れる。
二人の左手の薬指には、金と銀で造られた指輪がはまっていた。
2年前に結縁を受けた後、サリーフは帝都守備隊である正規軍第一軍団ビュザンティウムに入隊、連絡士官となった。
しかし、新興領主として、領地の経営や農園の開拓なども行わなければならないため、半年の猶予をもらい、領地と帝都を行き来する日々を送る。幸いにして、サリーフは名門ベリュトゥス大公家の元庇護民であり、大公の曾孫サドゥーハとは懇意の中だ。オルシーダからもらった紹介状もある。伝手には困らない。
彼女の両親は娘の手紙を見ると、資金や人員の融通に手を貸してくれた。また、オルシーダ自身も頻繁に手紙をよこし、様々な助言をしてくれた。よい奴隷と悪い奴隷の見分け方、はずれのない作物、不動産と一族の事業への出資方法など。開拓には、冬の間やることがない北部の農民を使えばよい、とも。
念入りな準備の元始まった開拓は急ピッチで進み、数か月後には100ユゲルムの土地の農地化が完了。翌年の春には、米やトウモロコシといった穀類、キャベツ、にんじん、玉ねぎといった野菜類を植え、100匹の豚を放牧することができた。
そのころに、パルシャヴァーニとオルシーダが帝都へと帰ってきた。パルシャヴァーニがアクヌ双慈神大寺院長代理の任を終え、ファティア双慈神大寺院長となったからである。
サリーフは早速二人の元へ向かい、感謝の言葉を述べ、礼をしたいと申し出た。すると、パルシャヴァーニは意味ありげに微笑み、「私はいいから、オルシーダを劇にでも連れて行ってやりなさい。ほら、来週あたりに『ヒスパリスの理髪師』がファティア劇場で上演されるでしょう」と言い出した。
思いもよらない大祭司の言葉に、サリーフは目を瞬かせた。オルシーダのほうも、「姫様、何をおっしゃいます」「卿にもご都合というものがございますよ」と言ってはぐらかすが、真っ赤に染まった顔でちらちらこちらを見ながら言われても、まったく意味がない。
サリーフはひょっこりと覗いた下心に従い、大司祭の言葉通りオルシーダを劇に誘ったのだった。
その後、サリーフは明るく快活なオルシーダに惹かれ、彼女のもとに通うようになった。彼女と一緒なら、長い年月も楽しく暮らせるだろう。そして、いずれはたくさんの子供を設け、孫やひ孫に囲まれ、死んだら同じ墓に入れてもらう。
サリーフはオルシーダに求婚し、オルシーダはそれを泣きながら喜んで受け入れた。
「私、いい奥さんになって、あなたの子供をたくさん産むわ」
と。
その後、アヴジ家に結婚あいさつに向かった。アッカ男爵とオルシーダの両親との相談の結果、サリーフは慣例通り婿入りすることになった。しかし、それではサリーフの家、つまりドゥオルト家を継ぐ者がいなくなる。そこで、生まれた女児のうち一人にドゥオルト姓を名乗らせ、跡を継がせることになった。
そのあとは大忙しであった。古式にのっとり結納とその返礼を行い、周囲に結婚のあいさつと招待状を送り、疲労でくたくたの中で結婚式を執り行った。ありがたいことに、乳母姉妹の結婚ということでパルシャヴァーニ自身が婚礼を取り仕切ってくれた。
ファティア双慈神大寺院にて、十人の証人の前で結婚を誓い、生贄をささげる。生贄の等級にはいくつかあるが、サリーフは最上級の贄であるつがいの牛を選んだ。オルシーダはそのことに感動し、式の最中にまた泣いてしまい、周囲からからかわれる羽目になった。
そのあとはどんちゃん騒ぎである。補助軍時代の部下や同僚、第一軍団の同僚たちを呼んだ宴会は夜を徹して続き、終わったのは明け方、鶏が鳴いたころだった。
それから数か月、結婚生活もどうにか落ち着き、ふたりはようやくゆっくりと過ごせるようになった。
「じゃあ、13時(午後六時)にね」
「ああ」
闘技場からほど近い公衆浴場前の道で、二人は別れた。大きな浴場ならば、入り口は一つで、内部に男女共同のプールや運動場が完備されているところまである。しかし、ここは個人経営の小さな浴場で、そんなものはないうえに、香油を塗る部屋も、蒸気浴室もない。入り口も男女別々である。しかし、代々「秘伝」として伝えられているらしい按摩の術が、一度受ければ病み付きになるほど心地よいものであり、市内でも人気の浴場であった。
幸いにして、闘技場の客たちはまだ来ておらず、浴場は閑散としている。これならば、あのすばらしい按摩を受けることができるかもしれない。
サリーフは妻を見送ると、上機嫌で浴場に入ろうとした。その時であった。
『エドゥアルト様……?』
男の声だった。
エドゥアルト。かつての自分の名。この国では、その名を知る者はほとんどいない、その名。
男は足を止めた。なぜ、その名で呼ぶ。その名を呼ぶ、お前は誰だ。
サリーフは振り向いた。
『Sind Sie Herr Eduard?』
アレマニア語だった。そこには、眉根を寄せ、首をかしげて男を見る青年がいた。
ふわふわと波打った金髪をうなじでまとめた、白皙の美青年だ。身の丈は6フィートほどだろうか、かなり背が高い。エウロパ風のコットに、ユニコーンの紋章がついたシュールコー。足にぴったりしたブレーに、膝までのブーツ。腰には剣を履いている。
中世的な美貌は、女装させたらどこぞの貴婦人にしか見えないだろう。さらに言えば、もう少し若いときは、少女のように愛らしい容貌だったに違いない。
いや、愛らしい容貌だった。
男は戦慄した。振り向いた体制のまま、動くことすらできない。背筋に冷たい汗が流れ、唇は震え、歯がカチカチとなる。
誰よりも美しく、誰よりも愛され、称賛される、金髪の悪魔。
エリアス。
サリーフは、声にならない声で、悪魔の名をつぶやいた。
その言葉が聞こえたのか、あるいは唇を呼んだのだろうか。青年の顔に、花が開くような笑みが浮かび、涼やかな目から涙がほろほろとこぼれはじめた。
『エドゥアルト様、生きていらしたのですね……!よかった!』
そう言って、エリアスは嬉しそうに、心底嬉しそうにそう言った。
かつて少年だった悪魔は、立派な騎士へと成長していた。美貌はさらに輝きを増し、貴婦人が見たら陥落すること間違いない笑みは、サリーフだけに向けられている。サファイアのような瞳は青の月のように輝き、こぼれ落ちる涙は金剛石のかけらのようだ。
騙されるな、エドゥアルト。
暗い目をした青年、かつての男が言った。
そいつはお前のすべてを奪った。今度もまた、奪いに来るぞ!
男の中で25年前の自分が悲鳴を上げ、恐れ慄いていていた。
そいつから離れろ、エドゥアルト!この男はまた、お前からすべてを奪うぞ!逃げろ!早く逃げろ!
エドゥアルトは残った理性を総動員し、唇をきつくかみしめた。そうしなければ、叫んでしまいそうだった。
『エドゥアルト様……?どうしたのです?』
エリアスは浅黒い顔を青くし、唇から血をにじませる男をおかしいと思ったのだろう。穢れのない顔で男の顔を覗き込んだ。その瞬間、エドゥアルトはきつく眼を閉じ、勢いよく顔をそむけた。胃の奥から吐き気がこみ上げてくる。その青い目と目を合わせたら、きっと倒れてしまう!
『ッ!エ、エドゥアルト様……』
はっきりとした拒絶の意志。そんなことをされたのは初めてだったのだろうか。それとも、「エリアス、お前も元気そうだな」とでも言ってもらえると思っていたのだろうか。
なんにせよ、あまりにも予想外の出来事だったのだろう。青年は傷ついた顔をすると、ふらりと後退する。
『エリアス……!エドゥアルト!あなた、エリアスになんてことを!』
『エドゥアルト、エリアスはあの日から、ずっとお前のことを忘れずにいたんだぞ!それなのに、なんだその態度は!』
倒れそうになったエリアスを支えたのは、中年の男女だった。年を取っていても、誰だかわかる。かつて尊敬していた父、フランツ・フォン・ボーデ。敬愛していた母、マリア・フォン・シェーンフェルト。
かつて男に無償の愛情を注ぎ、手塩にかけて育てあげた二人は、男を親の仇の如く憎々しげに睨み付け、憤怒の形相でがなりたてる。
『急にいなくなって、エリアスがどれだけ心配したか……!この子は半狂乱になってお前を探したのよ!』
『エリアスに命を救われた身でありながら、この恩知らずが!よくこんなところでのうのうと生きていたものだ!』
エリアスがどれだけ心配したか。あなたは私を案じてくれなかったのですか、母上。
エリアスに命を救われた身でありながら。その前の私の功は、あなたの中ではなかったことになっているのですか、父上。
どんどん暗い顔になっていく男に、二人はありとあらゆる罵声を浴びせかけた。肩を落とすエリアスを支え、抱きしめ、かわいそうにと慰めている。
エリアスは、そんな、エドゥアルト様を責めないでください、私が悪いんです、と弱弱しく呟きながら、大きな手で顔を覆った。
しかし、エドゥアルトは確かに見た。その手の隙間からこちらを見るエリアスの眼に、禍々しい笑みがはっきりと浮かんでいるのを。
エドゥアルトの背筋が震えた。そして確信した。この男……やはり、俺を排除するつもりで―!
『聞いているのか、エドゥアルト!このっ……!』
動けない男に、フランツがこぶしを振り上げ、通りの雰囲気は一気に緊迫した。その瞬間である。
「ねえサリーフ、ちょっと小銭貸してくれない?今、おつりが切れているんですって」
緊張の糸が途切れるような、のんきな声である。
フランツは拳を振り上げたまま固まり、非日常から日常に引きずり戻された男は、緊張が一気にほどけたのか、脱力して肩を落とした。そして、のろのろと背後を振り向いた。
そこには、女湯の入り口からひょっこりと顔をのぞかせたオルシーダがいた。彼女は邪気のない顔で夫を見ると、
「さっき、入浴料をアウレス金貨で払ったやつがいたらしいの、アウレス金貨よ?それならまだいいけど、おつりをアスでくれって言ったんですって。また受付をした奴隷が新人の、まだ10歳の小さい子でね。一回は断ったんだけど、強く言われて結局やっちゃったのよ。泣きそうになっちゃってまあかわいそうに。銅貨がほしいなら両替屋に行けばいいのに、もう信じらんない!」
立て板に水を流すような滑らかさでまくしたて、男の前に立った。そして、こぶしを振り上げたままのフランツと、困った表情の夫を見て、赤い目をぱちくりさせた。
「あら、知り合い?」
「あー……」
男はどうでもよくなってきた。と、同時に腹が立ってきた。私が悪いのか。いや、ちょっとは悪いかもしれない。何せ何も言わずに飛び出したんだから。事情ありとはいえ、最初に俺を捨てたのはあんたたちの方じゃないか。
サリーフは頭を切り替えると、首に下げていた財布を探った。
「いや、知り合いじゃない」
嘘は言っていない。知り合いではなく、親である。
サリーフは財布の中からアス銅貨を2枚、セステルト黄銅貨を1枚取り出すと、妻に手渡した。
「入浴料と服の保管代と飲み物代と按摩代……これで足りるか?」
「うん、ごめんなさいね。後で返すから」
オルシーダは銅貨を受けとると、後ろにいる3人の外国人をじっと見た。彼女は賢い女である。もしかしたら、気付くかもしれない。しかし、オルシーダは何も言わなかった。ただ、夫の頬に優しくキスした。
「なにがなんだかよくわからないけど、骨は拾ってあげるわ」
「骨になる前に逃げてくるさ」
サリーフはおどけて返すと、妻の頬にキスを返した。そして、手を振って入り口の中に入っていく彼女を見届けると、ゆっくりと振り向いた。すでに、腹は決まっていた。
サリーフには、この国で培ってきた経験と努力があった。経験は自信となり、委縮した男の精神に活を入れる。恐れることはないぞ、サリーフ。お前は一人じゃない。お前を認めてくれる友人が、たくさんいるじゃないか、お前に無償の愛情を注いでくれる女が、いるじゃないか、と。
かつての恐怖の対象と対峙した男の眼には、先ほどのような怯えや恐怖はない。自信と活力に満ちた、逞しい男がいるだけだ。
3人のミスニ人は目を見張った。
『さて―』
サリーフは久しぶりにアレマニア語を使った。おかしなことに、本来の母国語であるはずの言葉に、奇妙な訛が混じっていた。あまりに長くこの国にいすぎたために、発音もローメルシア仕様になっているようだった。
『なぜここにいるんです?父上、母上。それに、エリアス』
フランツは息子の代わりように驚いたものの、すぐに顔を引き締め、苦々しい声で説明した。
1年ほど前、ミスニ伯国とケムニッツ侯国は、隣国ザクセン公国に攻められ、滅ぼされた。ミスニ伯と世子ルドルフ、そしてケムニッツ侯と侯世子フリードリヒは戦死。フランツと何人かの騎士たちは、伯の長女ヘレーネ、次女パウリーネ、三女フレデリカを連れ、ケムニッツ侯家の生き残りアマーリア侯女と合流し、北方へと逃げた。デーン公の側室となったケムニッツ侯の妹を頼るためだ。しかし、ザクセン公-いや、ザクセン王との関係を重んじたデーン公は一行をとらえ、引き渡そうとした。
命からがら逃げたしたものの、一行は行き場を失った。そこで、伯の叔母で皇帝の側室となっている、アンブロシアーナ公女マリア・フランツィスカ・ディ・アンブロシアーナ妃を頼り、この国にやってきたのだという。
『なるほど。24年……もうすぐ25年だが、その間にそんなことが……』
『そういうことだ。今、ヘレーネ様とアマーリア侯女が一緒にマリア妃に面会している。その後、皇帝への目通りし、亡命を要請する』
『亡命を……』
不思議だった。故郷が滅びたというのに、何の感慨もない。まるで、物語か何かを聞いているようである。さっきまではあれほど恐ろしかったエリアスにも、あれほど憎んだ両親にも、特別な感慨はない。
おそらく、安心したからだろう。
結縁の儀式のときに聞いた、「人にとっては麻薬そのものの劣化霊力は、デヴシェ族にとっては不快なだけ」という事実。つまり、サリーフを気に入り、引き立ててくれたサドゥーハやパルシャヴァーニ。新しくできた正規軍の友人たち。そして、愛する妻オルシーダ……。
彼らは、エリアスがやってきたからといって、惑わされたりはしない。今まで通り、良き友人、頼りになる保護者として振る舞ってくれるだろう。心配はいらない。
サリーフは、エドゥアルトではないのだ。エドゥアルト・フォン・ボーデは死んだ。いや、エドゥアルトという殻を破り、大きく成長した。ここにいるのは、ローメルシア市民、ウガリットの領主サリーフ・ナディーシェ・ドゥオルト。誇り高き蛇女神の養子。
サリーフはしばし瞑目すると、浅く息を吐いた。
『そうか、まあ、頑張ってください』
『頑張ってくれですって!エドゥアルト、お前はそれでも誇り高きミスニの騎士ですか!主君を捨てるのですか!裏切り者!』
マリアが激高した。
裏切り者。
何を言うか。最初に裏切ったのは、俺を捨てたのはそっちだろう!薙いでいたはずの男の心中は、にわかに荒れ狂い始めた
『主君を捨てた?裏切り者?何を言うんだか、もともとはそっちが―』
そこまで言って、サリーフは口ごもった。怒りのあまり口走ってしまったが、彼らは自分のしたことが分からないのだ。話が通じることなどありえない。エリアスはいい子、エドゥアルトはクズ、で終わるだけだ。
犬と魚が会話をしても、決して通じあわないようなもの。そう思えば落ち着いた。
胸にちりりとした痛みが走った。空しいものである。そうなることを知っている自分もの心、自分を愚か者で裏切り者の恩知らずだとに思っている―あるいは思わされている―両親の不条理も。
男は深呼吸して自信を落ち着かせた。そして、自分侮蔑の視線を向ける両親と、しっかり目を合わせた。
『……私はもはや、ミスニ伯国の騎士ではありません。帝国の法によって認められたローメルシア市民です。そちらを助ける義理はありませんよ。まあ、姫君が他なら適当な皇族の側室にでもなればどうにかなるでしょうし……ほかの方々も、身分の保証はされないでしょうが耕す土地ぐらいは与えてくださるのと思いますよ、お情けでね』
『我らに騎士の誇りを捨て、田畑を耕して生きよというのか!』
激高するフランツの言葉を、サリーフは流した。騎士の誇り。昔ならば胸が高鳴ったその言葉だが、今では空虚なものにしか思えない。
サリーフはわざと過激な言葉で言い返した。
『誇りを捨てるかどうかはともかく、この国では、亡国の騎士ごときを騎士として遇する必要はありませんからね。人材は掃いて捨てるほどいる』
挑発的なサリーフの言葉に、フランツとマリアの顔がみるみる赤くなった。怒りのあまり声も出ない様子である。ひどいことを言っている自覚はあったが、ちょっとばかりすっとした。今まで散々無視され、罵倒されてきたのだ。これくらい許されるだろう。
『おのれ、この愚か者が……!』
不肖の息子を成敗しようとしているのだろうか。フランツは震える手で剣の柄に手をかけた。しかし、剣を抜いたら、それこそ最後である。亡命を願う身でありながら、その国の民を害そうとする。しかも、サリーフは準貴族ともいえる士族階級で、名門ナディーシェ氏の一族。もし彼に何かあれば、宗家であるベリュトゥス大公家が黙っていまい。
そうなったら面白いことになるんだがな。サリーフは不謹慎にもそう思った。フランツは確かに実力者だが、攻撃をよけるぐらいならどうにかなるだろうし、その間に兵がやってきて、怒り狂う外国人を止めてくれるだろう。
しかし、そんなことにはならなかった。今まで黙っていたエリアスが、金色の髪を振り乱してフランツを止めたからだ。
『おやめくださいフランツ様!悪いのは私です、エドゥアルト様に甘え、不興を買うようなことをした私が悪いのです。エドゥアルト様も、そのようなことをおっしゃるのはやめてください!フランツ様もマリア様も、ずっとエドゥアルト様のことを心配していらしたのですよ!それなのに……』
エリアスは剣に賭けたフランツの手を抑えながら言った。秀麗な顔をそむけ、きゅっと唇をかむ。まるで、すべての罪を背負おうとする聖人のような姿である。
その様子を見た者は、誰もが自らの行いを恥じ、彼に許しを請おうとするだろう。しかし残念なことに、サリーフにとっては、陳腐な演劇を見ているようにしか感じない。
-ばかばかしい。
サリーフは苦い表情になった。
あのころは恐怖と嫌悪でよくわからなかったが、一度離れてみてみるとよくわかる。自分が悪いと言っておきながら、必ず他人を悪人に仕立て、同情を集める。そして、その悪人を許すことで、エリアスという人間がどれだけ慈悲深く、崇拝に値する人物なのかを見せつける。彼の秀麗な容姿と優雅な所作も相まって、効果は抜群である。
案の定、今回もそれは成功した。フランツは剣から手を外した。マリアと共にエリアスに寄り添い、許しを請う。
『すまなかった、エリアス……。だが、お前は悪くないのだ。このような馬鹿者をかばう必要はない』
『そうですよ、エリアス……ほら、お前も謝るのです』
エリアスの頭を撫でたマリアは、きっと息子を睨んだ。フランツも同様である。まるで、そうすることが当たり前に。そして、エドゥアルト・フォン・ボーデにとっても。
だが、ここにいるのはエドゥアルトではなく、サリーフだ。サリーフは肩を竦めると、話を切り上げにかかった。これ以上話しても、意味はない。疲れるだけだ。
男は両親を冷たい視線で一瞥すると、エリアスに顔を向けた。
『エリアス、昔のよしみで言っておく。ここでは、お前のそれは通用しないぞ』
エリアスの瞼がピクリと動いた。
『この国の者たち―デヴシェ族は、お前の体質のことをよく知っているからな。やりすぎると大変なことになる』
『エドゥアルト様、何をおっしゃっているのです?体質とは、何のことです?』
エリアスは一転の邪気もない、何もわからないというような顔で答えた。しかし、ほんのわずかではあるが、口元がぴくぴくと引きつっている。動揺しているようだ。
『以前はお前が恐ろしかったが、今は哀れだと……そう、思っている』
サリーフは浴場の入り口に手をかけ、顔だけを向けて言った。
『俺にはよい友人も、頼りになる上司も、慕ってくれる部下もいる。愛しあっている妻もいる。だが……』
エリアスの顔が蒼白になっていく。目は大きく見開かれ、聞きたくないとでもいうように、弱弱しく首を振っている。その瞳の奥には、崩壊への恐怖や底の見えない悲しみ、深く暗い憎悪が姿をのぞかせていた。
かつての自分の姿を思い起こさせるその姿を、サリーフは心から哀れだと思った。
『お前には……お前には、誰もいないからな』
そういって、サリーフは入り口をくぐった。
その後、エリアスと両親がどうなったのかはわからない。サリーフが浴場から出た時はもうはいなかったし、誰か聞けば分かるかもしれないが、あえてそれをしなかったからだ。
最後に言い捨てたあの言葉。それは、エリアスの心を傷つけただろう。言うべきではなかった、わかっている。
エリアスだって、あの忌々しい体質で悩んだことだろう。傷ついたことだろう。悲しんだことだろう。それはわかっている。わかっていたが……やはり、許せなかった。言ってやりたかったのだ。俺はお前に勝ったのだ、と。
サリーフは近くのベンチに座り、ため息をついた。
デヴシェ族は霊力について熟知している。もし、エリアスの言動が目に余るようなら、劣化霊力が漏れないようにするなりなんなり対策をとるだろう。とにかく、サリーフが心配するようなことではない。どうしても気になるなら、オルシーダを通じて大祭司に聞いてみればいいだけだ。
しかし―ふと、サリーフは思った
そうなったらエリアスは、いったいどうなるのだろう。
偽りの絆で結ばれた縁は、いったいどうなるのだろう。
騙されていたと知った両親は、どうするのだろう。エリアスを憎むだろうか。息子のもとに来て、すまなかったと頭を下げ、許しを請うのだろうか。そうなったら、俺は、彼らを許すことができるだろうか。
考え込んだサリーフの頭の奥に、もやもやとしたものが渦巻き始めた。胸がざわめき、胃になんともいえない不快感を感じる。
「サリーフ!」
明るく快活な声が男を呼んだ。
みると、女湯の入り口で、風呂から上がったらしいオルシーダが手を振っていた。上気した頬は赤く、気の強そうな美貌はとろけ、愛しい男だけに見せる、満面の笑みを浮かべていた。
「早くいきましょう!店が閉まっちゃう!」
瞬間、サリーフの胸の不快感は煙のように消え失せた。代わりに、温かいものがあふれ、心身の隅々を満たしていく。
どうせ、未来などわからないのだ。今からうだうだと考えていたって、どうしようもない。頭が痛くなるだけだ。詩人もいっている、「その日を摘め」と。
「今いく!」
男は考えるのをやめて立ち上がると、トゥニカを軽く叩いてしわを伸ばし、妻の元へと向かう。
どちらともなく手を握り、他愛のない会話をしながら家路に就く。どこにでもあるような風景だ。だが、それでいい。それがいい。
失ったものは多かった。しかし、それ以上に多くのものを得ることがた。それが良いことなのか悪いことなのか、それが今後、どんな影響を及ぼすのか。サリーフにはわからない。
ただ、男は幸せだった。
今は、それでいいのだ。
つたない作品ですが、読んでいただき、ありがとうございました。
☆その日を摘め:Carpe diem
ホラティウスの詩に登場する有名な語句。