五話
今回で完結予定だったのに、なんでこうなった。
余談ですが、2話に出てきたオトさんは、今も元気です。
サリーフは言葉を失った。しかし、同時に安堵した。
両親や友人たちは自分を疎んじたが、それはサリーフ―エドゥアルトに非があったわけでも、エリアスが何かしたわけでもない。
あくまでもその恐ろしい麻薬のせいなのだ。
「Der arme Kerl」
哀れな奴だ―サリーフは思わず、母国の言葉を口走っていた。
誰が悪いわけでもない。あれほど憎み、恐れたエリアスにさえも、非らしい非はないのだ。
エリアスの周囲は、誰もが彼を称賛する。どんな些細なことであろうと、それがエリアスの手柄ではなかろうと。エリアスは聡い少年だった。すぐに周囲の態度がおかしいことに気付いただろう。ゆえに、自分を公平に見てくれる者―兄やかつての主人の息子、そしてエドゥアルトを慕うようになった。
彼らは公平ゆえに、エリアスを叱り、きつい態度をとることもある。エリアスはうれしかったろう。彼らは本当に自分のことを思いやってくれている。自分のことを思って叱ってくれているのだから。
だが、エリアスが慕うその者たちは、エリアスしか見ない者たちによって潰されていった。
ある者は排除され、ある者は疎まれ、ある者は無視された。
彼らは友や家族から拒否され、いつの間にか忘れられるようになっていった。そして、自分の代わりにその場所にいるのはエリアスだ。
当然、彼らはエリアスを恐れ、憎んだ。そして、離れていった。
エリアスの兄は、父を失い悲嘆にくれる弟を、勘当同然に他家に出した。騎士の息子は、居場所を奪われかけたところを、父親の死とともに得た権限を使い、追い出した。
そして、兄のように振る舞い、彼を可愛がったエドゥアルトは、彼を恐れ、避けるようになった。
エリアスは、またかと思っただろう。それでも、彼はエドゥアルトを慕った。もしかしたら、また以前のような関係に戻れることを、期待していたのかもしれない。
しかし、エドゥアルトはエリアスから離れていった……かつての人々のように。
もしかしたら、エリアスがエドゥアルトを見殺しにしたのは、それが原因だったのかもしれない。13歳の少年の心では、理屈はともかく、感情がついて行かなかったのだろう。
敬慕は次第に憎悪へと変わり、少年は青年を切り捨てた……。
サリーフはエリアスの顔を思い浮かべた。あの少女のような、快活な少年の心には、どれほどの葛藤と悲しみがあったのだろう。それほど思い悩んだことだろう。
「私が恐れた者は、哀れな存在だったのか」
サリーフはぽつりと呟いた。盲目の大祭司は、しばし沈黙したのち、
「そうなのかもしれませんね。周囲の者たちは、己自身を慕っているのではない。己の持つものを欲しているにすぎないのですから。気付いた者は地獄でしょうね……」
若くして辛酸を嘗め、そして栄光の座に就いた若き大司祭も、何か思うことがあるのだろうか。あるいは、似たようなことを経験したのだろうか。パルシャヴァーニは盲いた目で遠くを見た。
「……本当に哀れです。本当に……」
そうだ、哀れだ。彼らの周りには、真実は存在しない。ようやく見えた光明さえ、自分の元から離れて行ってしまう運命。……どうしようもなく、哀れで悲しい存在である。
しかし……。
「猊下」
サリーフは絞り出すような声で言った。
「彼に……彼に非がないことは、私にもわかりました。同時に、彼がとても苦しんでいただろうということも」
パルシャヴァーニは何も言わなかった。ただ、黙ってサリーフの言葉を聞いている。
サリーフは拳を握りしめ、震える声で言った。
「それでも……それでも私は彼が恐ろしい!彼に再会したなら……今まで築き上げたものが、全て崩れ去ってしまう……そう思えてならないのです!」
エドゥアルト・フォン・ボーデの記憶が、脳内を駆け巡った。幸せだった日々、エリアスが現れた日、それが崩れていく日々―そして、あの運命の日。
サリーフは両手で顔を覆うと、消え去りそうなほど小さな声で吐露した。
「私は彼を許せない、憎いのです!父を奪い、母を奪い、友人たちを奪っていったあいつを……私を捨てた両親や友人たちを……許すことはできません。真実を知った今でさえも。もう一度同じことが起こったら、私はきっと、耐えられない……」
サリーフは今まで出会った者たちの姿を思い浮かべた。あの親切な商人オト、補助軍で出会ったロクシャンやシン、サフィラ、フォルティス。後見人になってくれたファラフィー、自分を気にかけてくれたサドゥーハ……。
彼らがサリーフから離れていく……そうなった日には、サリーフの心は崩壊し、二度と元には戻らなくなるだろう。
サリーフは唇をかみ、恐ろしい未来を振り払った。しかし、振り払っても振り払っても、その幻想は晴れなかった。過去の日々、忌まわしい記憶の中にある両親や友人の顔が、帝国で出会った人々の顔になっていく……。
「許さなくともよいのですよ、サリーフ」
パルシャヴァーニは静かな声で言った。どこまでも柔らかで、温かみのある声である。
サリーフは顔を上げた。
大祭司が穏やかに微笑していた。春の木漏れ日のような、あるいは冬の火鉢のそばのような。慈愛のこもった美しい微笑である。
サリーフの脳裏を、母の―マリアの笑顔が過った。
「許せないならば、許さずともよいのです」
目を見開くサリーフに構わず、あるいは見えていないからか、パルシャヴァーニは続けた。
「確かに、人を許すという行為は大切なことです。許すということは強さであり、その人自身を大きく成長させるかもしれません」
パルシャヴァーニの顔から微笑が消えた。微笑のみではなく、表情すらも消え去ってた。先ほどの慈愛深い笑みからは信じられぬほどのそれに、サリーフの背筋にぞくりとしたものが走る。
「しかし、『許し』という行為がすべてを解決するとは限りません」
大祭司は無表情のまま、無感情な声で言ったかと思うと、再びその顔に、柔らかな微笑を取り戻した。
「許しを与えられた方は確かに楽になるでしょう。しかし、与えた方はどうか?清々しい気持ちで心を切り替えることができるかもしれません。しかし、心にわだかまりを抱えたまま、葛藤しながら生きていかなければならないかもしれません。今のお前はどちらですか?」
どちらだろうか……答えは出ていた。同情もするし、哀れだとは思う。それでも、サリーフはエリアスや両親を許すことはできなかった。
たとえ口だけで「許す」といっても、心の中をどす黒いものが渦巻き、いつかは溢れ出てしまうだろう。その時に起こることは……。
サリーフは首を振った。無理だ。少なくとも、今は絶対に無理だろう。それこそ、心が壊れてしまいかねない。
「無理です。関わりたいとすら思いません」
「ならばよいではありませんか」
大祭司は、あくまで私の考えですが、と前置きすると、
「お前は、捨てられたから、関わりたくないから逃げた、それだけです。自棄になったり、腐ったりして面倒事を起こすこともありませんでした。第三者が口出しをして『逃げてばかりではだめだ』というかもしれません。しかし、それも時と場合によりけり。立ち向かうことが唯一絶対の方法ではありません」
パルシャヴァーニはどこまでも優しい声で言った。
「許さなくてもいい、憎んでいてもいい。戦うのは、お前ができると思った時でいい。今までのように、前を向いて生きればよいのです。お前はよく頑張りましたよ、サリーフ。よくやりました」
よく頑張った。よくやった。
この言葉は、エドゥアルトが最も聞きたかった言葉だ。しかし、その言葉は彼に向けられることなく、常にエリアスのものとなった。そして、やっと聞けたと思えたその時が、悲しみと苦しみの始まりだった。
大祭司のこの言葉で、ようやく一つの区切りがついたような気がした。それがどんなものなのかは、サリーフにもわからない。しかし、胸の奥の澱みが、幾分か洗われたのは事実である。
サリーフは逃げた。しかし、どこか罪悪感もあった。逃げることは卑怯なのではないか。許さぬことは狭量なのではないか。彼を受け入れてやるべきではないのか。
しかし、大祭司は許さずともよいといった。関わらずともいい。逃げてもいい、許さなくてもいい、憎んでもいい。挑むのは、自分の準備ができてからでもいい。
完全な解決にはならないのかもしれない。だが、それでいいのだ。唯一絶対の解決法などないのだ。幸い、サリーフにはまだ時間がある。ゆっくり考えてゆけばいい。
サリーフは大きく息を吐くと、大祭司に平伏した。
「聞いていただき、ありがとうございます。心より御礼申し上げます、猊下」
「楽になりましたか?」
「はい、とても」
サリーフは頭を上げた。その顔は穏やかで、清々しいとはいかないまでも、重荷をおろしたような解放感に満ちている。これで、新たな階層にも勧めるだろう。
パルシャヴァーニは静かに頷くと、ぽんと手をたたいた。
すると、すぐにあの控えの扉が開き、神具と供物を乗せた盆をもった先ほどの正祭司と権祭司がやってきた。彼らは大祭司の傍らに鈴と水盤、ヒサカキの枝、燭台を置き、太いろうそくに火をつけた。気が付けば日は傾き、薄暗いと感じるまでになっている。
そして、正司祭は何かが入った銀の器を恭しく捧げ持ち、祭壇に捧げると、権祭司と共に大祭司の傍らに控えた。
「初めてよろしいですね?」
「はい」
大祭司の問いに、サリーフは力強く答えた。
これから始まる結縁の儀式は、新たに市民となったものを、ローメルシアの神々の「子」とするものである。基本的に、市民-すなわちデヴシェ族は、神々の末裔。神々の子となることにより、デヴシェ族と同格の存在となる。そのための儀式である。
以前からこの地にいたものならともかく、外からやってきた者たちは、自分たちの神を捨て、ローメルシアの神々に帰依することとなる。信仰心厚い者は、この一点のみを譲ることができず、市民権を得ることをあきらめることもあるらしい。
サリーフは厳粛なデミュージ教徒の家庭に生まれ、司祭たちから教育を受けた身ではあるが、もともと信心深い性質ではない。帝国内にもデミュージ教の教会はいくつかあるが、この22年、一度も行っていなかった。ゆえに、躊躇らしい躊躇はなく、サリーフはあっさりと改宗に同意した。
パルシャヴァーニはサリーフに背を向けると、傍らにある鈴をとり、一つ鳴らす。すると、リーンという澄んだ音が鳴り、部屋の空気が一変した。もともと外界から隔絶された異界的な雰囲気ではあったが、今までとは全く違う、限りなく「浄」に近い空間。目の前にある神像が、命を持ったかのように、ろうそくの炎に照らされ揺らめいた。
急に漂ってきた厳粛な雰囲気に、サリーフは背筋を伸ばした。
「懸けまくも畏き、常世に在す大神ユーニーと大神マヌに奏し奉る……」
パルシャヴァーニは、独特の節をつけて祝詞を唱え始めた。甘く柔らかな声が本殿の中に響き渡り、反響し、不思議な音律となってサリーフの耳に届く。
「……尊が新しき御子となる者に幸福と祝福を与えた給え」
一通り祝詞を唱えると、大祭司は再び鈴を鳴らし、頭を垂れた。そして、音もなく立ち上がり、サリーフに向きなおる。
そして、正司祭に手を引かれ、サリーフの前にやってくると、権司祭から水盤とヒサカキの枝を受け取る。
「頭を下げなさい」
サリーフは命に従い、頭を軽く下げる。すると、水盤にヒサカキの枝を浸し、それを軽くふるって雫をサリーフにかけた。
「天の神々よ、全ての災いをこの者から遠ざけ給え。地の神々よ、全ての災いからこの者を守り給え」
聖別された水が小雨のようにサリーフに降り注ぎ、穢れを祓い、清めていく。そして、同時に神々からの
祝福と加護をもたらす。
一通り聖水を浴びた後、サリーフは顔を上げた。大祭司は水盤と枝を権司祭に渡し、代わりに正司祭から銀の器を受け取っていた。祭壇に捧げられていた器である。
彼女は器の中身にちょいと人指し指をつけた。何かに浸された指はタールのような黒い液体で染まっており、ほの白い手の平にとろりと垂れている。
大祭司は再び祝詞を唱えた。
「この祝福にて汝はユーニーとマヌの息子となれり。汝の道は、太母の導きにより守られ、汝の魂は、いつの日か太母の御許に還らん」
黒く染まった大祭司の指が、額に近づき、サリーフは反射的に目を瞑った。
その刹那、驚くほどの熱が額に走った。熱は額から次第に体全身へと広がっていき、筋肉に、血管に、骨に、神経に。髪の一筋にまで浸透していく。そして、ぐるぐると体内を蠢いたかと思えば、次の瞬間、再び額へと戻った。熱は次第に冷めていき、眉間の僅かに上でとどまったかと思うと、小さな痛みと共に消えていった。
時間にしてほんの数瞬。サリーフの額には、煙水晶を思わせる色のビンディが、柔らかな光を放っていた。
サリーフはそっと額に触れた。大きさは小指の先ほどで、形は半球形。表面は水晶か硝子のように固く、つるりとしている。始めは灰色だが、一時間ほどで色が変わり、定着するらしい。色や透明度には特に意味はないが、たいていは母親と同じ色になるとか。
……どうせなら、青か黒がいいな。だが、ピンク色だけは勘弁。美女ならともかく、俺の額にそんなのがついていたら、とんだお笑い草だ。
そんなことを思っていると、再びりーんという澄んだ鈴の音が響いた。
気付けば、大祭司はすでにもとも場所に戻り、最後の祝詞を唱えている。
「かの者が縁絶ゆることなく、子孫の八十蛇の如く続きに立ち栄え給えと、畏み畏み申す」
パルシャヴァーニが祭壇に向かって深々と平伏すると、祭司たちも同様に頭を垂れた。サリーフも慌ててそれにならう。
りーん。
再び鈴が鳴り、張りつめた空気が霧散した。来た時と同じ、異界的ではあるが、人の世界のそれに戻ったようである。サリーフはほっと息を吐いた。他の者も緊張を解いたのか、ため息やこきこきと首を回す音がする。
サリーフは顔を上げた。
すると、パルシャヴァーニが体を反転させ、サリーフの方を向いた。
「疲れましたか?」
サリーフは首を振った。しかし、大祭司が盲目であったことを思い出し、改めて答える。
「いいえ、大丈夫です」
「そうですか。とにかく、儀式はこれで終わりです。これで、お前は我らが神々の子となり、我らと同じように、長い時間を生きることになるでしょう」
パルシャヴァーニは正司祭の手を借りて立ち上がった。
「夜の山を下るのは危険です。風呂と食事、それから部屋を用意してあります。疲れを癒し、明日、ゆっくりと帰ればよいでしょう」
慣れない高山という場所と、儀式による緊張でくたくただったサリーフは、大祭司の配慮に感謝した。
夜も更けてきたころ、サリーフは客間に通された。さほど広くはないが清潔な板張りの部屋で、二重になった樹脂製の窓に、円座と机、青銅製の盥、さらには几帳に囲まれた寝心地の良さそうな寝具まであった。
エウロパで神具というと、木の枠に羊毛をぎちぎちと詰め込み、その上にシーツを敷いた「ベッド」であるが、帝国では違う。
まず、ベッドを使わない。儀式のときに大祭司が座っていた「畳」を一、二枚敷き、その上に、綿を詰めた布団を敷いて寝るのである。裕福な家だと、丁子型の柱に薄布を下げた間仕切り「几帳」や、几帳を組み合わせたような天蓋「帳台」に囲まれた中で寝ることもある。さらに裕福な者だと、小部屋を丸々寝台にしてしまう場合もあるらしい。
畳があるとはいえ、地べたに寝るのはさすがに戸惑ったのだが、今では慣れたものだ。
サリーフは満腹になった腹をさすると、近くにいた奴隷を呼びつけ、椀一杯の水をもらう。その後、鞄から房楊枝と歯磨き粉を取り出し、入念に歯を磨いた。歯磨きが終わると、奴隷の言いつけどおり椀と口をゆすいだ水が入った盥を外に出し、布団にごろりと横になる。
この国に来て22年。騎士の息子だったエドゥアルト・フォン・ボーデ・ツー・カッツェンベルクは、サリーフ・ナディーシェ・ドゥオルトとなり、属州シュリアの港町、ウガリットの領主にまでなった。ここに来る前に訪れたウガリットの街は、貿易都市らしく豊かで賑やかで、何より活気に満ちていた。税収も多く、父の領地の数倍の豊かさである。
この国の神の祝福により、サリーフはさらに400年以上の長寿を得た。これから何をすべきかはまだ決めていないが、宗家―サガシア家は協力を惜しまないといってくれている。
ウガリット近郊の土地に農園を作ったり、氏族の事業に出資するのもいいだろう。飛空艇というのも興味がある。そうだ、旅行というのもいいかもしれない。この22年、ずっと働き詰だったのだ。ちょっとくらいの贅沢をしたって罰は当たらない。属州フリギアのヒエラポリスなどが、近場でいいかもしれない。あそこは温泉があって、いい保養地だと聞くし……。
そんなことを考えながらうとうとしていると、こんこん、という扉をたたく音がした。それで覚醒したサリーフは、身を起こすと眠たげな声で返事をする。
「どうぞ」
すると、遠慮がちに扉が開き、浅黒い肌にチャイ色をした髪の女が顔を出した。たしか―そう、オルシーダという名前だった。オルシーダ・ナディーシェ・アヴジ。パルシャヴァーニの介添えをしていた正司祭である。
そんな彼女が、何でこんなところに……?
「サリーフ卿、まだ起きているかしら?」
「あ、いや、大丈夫だ」
サリーフは立ち上がると、扉に向かった。
オルシーダは、踝まである青のトゥニカに、白いドルマンというくつろいだ姿だった。チャイ色の髪は結わずに垂らされ、太もものあたりで柔らかく揺れている。
どうやら風呂上りらしい。首筋がほんのりと赤く色づき、しっとりと濡れた髪からは、香料だろうか。甘いバニラの香りがふんわりとただよう。
久しぶりに女性に接したサリーフは、思わずどきりとした。
「それで、何か用でも?」
サリーフがそう尋ねると、オルシーダは顔をそらし、そわそわしながら答えた。
「ああ、その、明かり用の霊石を補充しに。奴隷が忘れてたみたいで……」
そう言われて、サリーフは燈台を見た。霊石とは、デヴシェ族の力の源泉、霊力を蓄積した石とでもいうべきもので、外見は白くつるりとした、丸っこいただの石だ。しかし、電算盤という特殊な機械の受け皿に設置することで、光り輝いたり、熱を発したり、物質を作ったりと、様々な用途に利用可能な万能資源であると同時に、帝国の主要なエネルギー源であった。
今回の燈台は、1パッススほどの長さの棒に、手のひらほどの電算盤と受け皿が置かれた単純なもので、受け皿の上に置かれたこぶし大の霊石が明るく輝いている。しかしよく見ると、霊石の色はかなり黒っぽい。霊石は中の霊力が減ると次第に黒ずんでいくため、今が交換時ということになる。
「確かに、交換時だな。ありがとう、正祭司殿」
サリーフはオルシーダから新しい霊石を受け取った。用はこれで終わったと思ったのだが、オルシーダは部屋の前に突っ立ったまま動かない。
しばらくの間沈黙が流れた。
「あ、あの……不自由はないかしら?寒くない?」
オルシーダが意を決したように尋ねた。
なぜそこまで気を張る必要があるのだろう―男は目を瞬かせた。しかし、応えないのは失礼にあたる。サリーフはあたりさわりが無いように答えた。
「ああ、特にない。部屋もよく温まっている」
「そう、よかった……」
また沈黙。
彼女はいったい何をしにここに来たのだろう。男が疑問に思っていると、オルシーダはおずおずと話し出した。
「えーと……料理はどうだった?」
「料理?ああ、よかったよ。すごくうまかった」
サリーフは心からそう答えた。
たっぷりのお湯で入浴を楽しんだ後、サリーフは寺院の宿坊で、祭司たちと夕食を共にした。
水道も通わぬ高山に風呂があったのも驚きだが、何より驚きだったのは料理である。高地ゆえに期待はするなといわれて出てきたものは、魚醤をかけたとろとろの温泉卵、生ガキ、冷燻のサーモン。そして、猫耳と呼ばれる小さな麺のスープ、とろけるほどに煮込んだ豚肉の赤ワイン煮に、青々としたレタスのサラダ。デザートには、ラズベリージャムを挟んだケーキに、みずみずしい梨まであった。
ぷっくりした生ガキは見るからに新鮮で、柑橘果汁入りの醤油とサルサソースの二種類のソースが添えられていた。さっぱりした柑橘果汁入りの醤油もよかったが、サルサソースのピリリとした唐辛子の辛味とトマトの酸味、玉ねぎの風味が絶品で、まったりしたカキと相性抜群である。
豚肉は箸でほろほろと崩れるほどやわらかで、噛みしめるほどにうまみが溢れ出てくる。そして何よりも、コクのある赤ワインベースのソースが絶品で、このような場でなければパンで拭って食べてしまいたいほどだった。
そのことをサリーフが言うと、オルシーダは嬉しそうに微笑んだ。
「よかった、姫さま……猊下に伝えておくわ。あの料理を作ったのは猊下なの。もちろん、私も手伝ったけど」
「猊下が?しかし……いや、それもそうか」
大祭司ほどの身分の者が厨房に立つ?サリーフは面食らったが、この国の風習を思い出し、納得した。
帝国では、どの家にも神棚があり、神々や祖先たちをまつっている。そして、その神棚に捧げる神饌を作るのは、一家の主である家母長の役目だ。転じて、身分が高かろうが低かろうが、自ら厨房に立ち、食事を振る舞うことは当然、むしろ、「とても良いこと」だとされているのだ。
「そういうこと……猊下は特に料理好きだから」
「そうだったのか……しかし、ここは山の頂上だろう。それにしてはずいぶんと豪勢な食事だな」
サリーフは疑問に思っていたことを聞いてみた。いかに登山道が整備されているとはいえ、高地に荷物を運んでくるのは大変なものだ。騎獣を使って運ぶにも限界がある。
「ああ、その事ね。猊下のご両親、ダマスクス候ウィステリニー様ととヴァレンサ皇子殿下が、月に一、二度、飛空艇で供物……ううん、“供物という名前の仕送り”を送ってくださるの。今日はその日だったのよ。幸運だったわね、サリーフ卿」
「そうか。ちょうどよかったな。しかし、飛空艇の運用には莫大な金がかかると聞くが……」
オルシーダはにっこり笑った。昼間の凛々しい表情からは考えられぬほどやわらかな笑みである。
「確かにそうね。けど、ベリュトゥス大公家……我がナディーシェ氏族は帝国一富裕な氏族よ。あの程度痛くもかゆくもないわ」
「そうなのか……しかし、そんな一族に入るとなると、少しばかり不安だな」
「あら、そんなことはないわ。ウガリットの税収を使って農園を開けばいいの。あの辺りは土地も肥沃だし、気候もいいから、いい米が育つわ。あとは、港で養殖なんてどうかしら。カキなんかがおすすめよ。1万セステルト位はすぐに稼げるわ」
オルシーダはサリーフにぐっと顔を近づけると、さらに続けた。高揚しているのだろうか、頬が赤くなっている。
「私の実家がアッカなの。養殖業もやってるし、農園だってあるわ。よかったら私の名前を出してみて。母や祖母が手伝いの人間を渡してくれると思うわ。もし、お金が足りないんだったら言って!私が出資するから」
「あ、ああ。ありがとう……」
サリーフは若干引き気味になりながら礼を言った。出資や協力はありがたいが、彼女はなぜ、出会ったばかりの自分にここまでしてくれるのだろうか。と、いうより、何故こんなに熱心なのだろう。
引きつった男の顔に我に返ったのか、オルシーダはサリーフからぱっと離れた。そして、顔をゆでたてのタコのように真っ赤にすると、手で顔を覆ってしまった。
「ご、ごめんなさい!つい、熱くなっちゃって……でも、出資の話は本当よ!」
「いや、だが、よく見ず知らずの男に出資しようという気になったな」
訝しむ男に、オルシーダは申し訳なさそうに答えた。
「私たちナディーシェ氏族は大領主・大農園主でもあるけど、それ以上に技術者だし、商売人なのよ。だから、常に商売のタネを探してるの」
「まあ、それはわかるが、何で俺が“商売のタネ”になるんだ?」
サリーフの問いに、娘は拳をぐっと握り、
「知らないの?新興市民への出資は、当たり外れが少ないの。とくに、あなたみたいに領地を賜った場合はね。だから、出資先としては人気なのよ」
オルシーダはごそごそと懐を探ると、どこぞの住所が書かれた紙を二枚差し出した。一方はおそらくこの寺院。もう一方は、どうやら帝都のようだ。
「他の人にとられる前に、話をつけちゃおうと思って!」
なんと準備がいいことだ……そうか、そわそわしていたのはこのためか。
サリーフは呆れた。商売のためなら、会ったばかりの男に寝室にも押しかけてくるのか、と。だが、それ以上に感心した。好機を逃すまいとする行動力。もしかしたら、これこそが帝国繁栄の秘訣なのやもしれない。
だが、宗家の息子であるサドゥーハと知己とはいえ、同族の知り合いを増やしておくに越したことはない。
サリーフは娘の提案に乗ることにした。
「まあ、提案はありがたく乗っておく。しかし、君はこの寺院の祭司だろう?連絡をつけるのすら難しいじゃないか」
「あら、大丈夫よ」
オルシーダは胸を張った。
「実は、この寺院の寺院長だった方が急死してね。彼女の妹が後を継ぐことになったんだけど、出産したばかりだったの。赤ちゃん連れてこんなところに来れないでしょ?だから、ある程度大きくなるまで猊下が代理を務めているの。あと半年もすれば帝都に帰るわ。安心してちょうだい」
「そうか」
サリーフは紙を受け取った。
オルシーダは嬉しそうに笑うと、念を入れるように言った。
「帝都の家に連絡するときは、必ず私の名前を出して。必ずよ。そうじゃないと、私の手柄にならないから」
「わかったわかった。……しかし儀式の時とは大違いだな。あのときはあんなに凛々しかったのに」
サリーフがからかうと、娘は再び顔を赤らめ、もじもじとうつむいた。
「ああ……あれは儀式だからよ。普段はこんな感じよ。猊下はいつもあんな風だけど。それに……」
「それに?」
サリーフが顔を覗き込むと、娘はぱっと顔をそむけた。
「あ、と、とにかく、そういうことだから!夜遅くにごめんなさい!おやすみ!」
「お、おい」
挨拶を返す暇もなく、オルシーダは走り去っていった。
サリーフは部屋に戻り、円座の上に胡坐をかいて座った。
行き成りやってきたかと思うと、商売の話をし始め、そして嵐のように去っていく。ずいぶんの活発な娘である。
しかし、これで開拓のための資金のめどはついたし、新たな知己を得ることもできた。突発的な出来事ではあったが、まあ、結果的にはよかったので、良しとしよう。
サリーフは二枚の神を鞄にしまい、明かりを消して布団へと入った。さらりとした綿のシーツの心地よい感触と、床暖房のほどよい暖かさに、すぐに眠気が襲ってきた。
眠りの神の誘いに身をゆだね、夢の世界へと足を踏み入れかけたその時、サリーフの頭にこんなことが浮かんできた。
―そういえば、彼女の、オルシーダの身分は、なんだったのだろう。
サリーフは跳ね起きた。
オルシーダが何も言わないためにそのままだったが、彼女が貴族階級の令嬢だったりしたら、とんでもない無礼を働いたことになる。
「……ああ~……」
サリーフは頭を抱えてうめいた。普段ならば絶対にそんなことはしないのだが、様々な要因が重なって浮かれていたようだ。よく無礼者と叱責されなかったものである。
「やってしまった……」
眠れない夜を過ごしたその日の翌日、オルシーダのフィブラから彼女が男爵家令嬢であることを知る。真っ青になったサリーフは、コメツキバッタのように平伏して、彼女に頭を下げたのであった。
アクヌ山→アルプス山脈エギーユ・ドゥ・ミディ峰
帝都ビュザンティウム→現トルコ・イスタンブール
ベリュトゥス→現レバノン・ベイルート
アッカ→現イスラエル・アッコ
ウガリット→シリアの都市ラス・シャムラにあった古代都市の名前