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二話

9月17日:大幅に加筆修正

 オルトロスとの戦いの後、未だ明けぬ空を見ながら、エドゥアルトは動き始めた。放置されていたオルトロスやグレイウルフの皮をはぎ、湖の水で軽く洗う。ついでに、血とよくわからない体液で汚れた自分の体も洗ってしまう。そして、痛む体に鞭打つと、歩いて屋敷へと向かった。


 屋敷は静かだった。

 エドゥアルトは、一部の者しか知らない抜け道を使い、屋敷の中に入る。木戸が閉められているせいか、屋敷の中は真っ暗であった。しかし、そこは慣れた自分の家。エドゥアルトは手探りで自分の部屋へと向かった。

 部屋の中は、木戸が開けっ放しだった。おそらく、朝にエドゥアルトが開けたままになっていたのであろう。普通なら、侍女あたりが気付いて占めてくれるのだろうが……。


―所詮、私の存在はその程度か。いや、今更だな―


 エドゥアルトは己の状況を鼻で笑い飛ばした。そしてそのあと、大きくため息をついた。この屋敷での自分の立場が、どれほど貧相なものなのか。改めてそれが突き付けられたのだから。

 しかし、わずかなりとも光がある状況は、かえって好都合だった。エドゥアルトは月明かりを頼りにろうそくを探して燭台に乗せ、火を灯した。そして、長櫃や本棚からありったけの金と金になりそうなものを集め、適当なずだ袋の中に詰め込んだ。

 高価な布地の服はもちろん、製紙や印刷の技術が発達していないこの時代、本はかなりいい値段で売れる。装飾の施された手写本ならば、5、6冊あれば家屋が買える。それほど高価なものなのである。そして、エドゥアルトに期待していた父は、深い知識と教養をもった人間になってほしいと、息子にたくさんの本を買って与えた。結局、すべて無駄になってしまったが。

 エドゥアルトは特に高価な写本をずだ袋に投げ入れるように詰めた。そして、長櫃の中から日用品を取り出すと、これも無造作に袋に入れる。

 父から貰った、姫青孔雀の羽から作られた羽ペン。母が手ずから縫った、見事な刺繍のシュールコー。祖父母の形見と渡された銀の指輪……皆、思い出とともに放り込む。

 荷物を詰め終わると、エドゥアルトは旅装に身を包み、部屋を出た。


 屋敷の中は、耳が痛くなるほどの静寂に満ちていた。その中を、ろうそくの淡い光のみを頼りに、エドゥアルトは屋敷に別れを告げる。

 両親とともに、吟遊詩人の歌を聴いた応接間、近所の悪童たちと共に侵入し、リンゴやくるみをくすねた食糧庫。どこも皆、思い出深い場所である。

 そして、つい一年前、騎士叙任祝賀の饗宴が行われた、館のメインホール……。あのときは、祝いに来てくれた母方の伯父と隣の荘園の騎士が、飲み比べの末に酔い潰れてしまったのだ。ぐでんぐでんになった伯父たちを客間まで運んだのは、主役のはずの自分と、困りきった顔をした父だった。眠り込んでしまった人間の体は意外と重く、自分たちも酔いが回っていたこともあり、ベッドに寝かせた後はくたくたに疲れてしまった。お互い廊下に座り込んで、顔を見合わせて苦笑したんだったな……。

 エドゥアルトはホールの中心に立ち、ぐるりと周囲を見渡す。ホールの奥、一段高くなった場所には、父と母が座る豪奢な椅子が並んでいる。椅子の背後の壁には、ボーデ家の紋章が刺しゅうされたタペストリーと、銀で作られた一対の燭台が置かれている。いまはそれだけしかないそっけない風景だが、その時になれば多くのテーブルと椅子が並べられ、騎士たちの饗宴の場となるであろう。しかし、エドゥアルトがそれに参加することは、もうない。

 エドゥアルトは軽く首を振り、厩に向かった。騎士の友である馬をはじめ、ヒッポグリフにグリフォンまでいる。裕福な騎士とはいえ、領地の規模にしてはかなり豪華な騎獣揃えである。そして、真夜中ということもあり、騎獣たちの多くは眠っており、それぞれ個性的な寝息を立てていた。


―起こしたりしたら、騒ぎ立てるだろうか―


 適当な騎獣を連れて行く気だったエドゥアルトは、少しばかり不安になった。これなら、徒歩で行くことも考えなければいけない……。しかし、燭台の光に反射したのか、厩の奥で一対の琥珀が光った。エドゥアルトがそれに近づくと、一頭のヒッポグリフがエドゥアルトを見つめていた。

 毛色はさして珍しくない栗色で、肩から頭にかけてが白い。ほかのヒッポグリフに比べれば小柄だが、馬の半身は逞しく、羽毛も艶やかである。エドゥアルトの記憶によれば、このヒッポグリフは一月前に買い入れたものである。しかし妙に気位が高く、誰にも懐かず、誰彼構わず威嚇するために、ほかに売り飛ばそうかという話になっていた雌であった。

 エドゥアルトはヒッポグリフに近づき、頭に触れた。すると、ヒッポグリフは嫌がることなくそれを受け入れた。だれにも懐かなかったヒッポグリフだが、率先して厩仕事をしていたエドゥアルトのことは覚えていたらしい。威嚇することなく彼の手を受け入れている。


「お前も行くか?ヒッポグリフ」


 エドゥアルトがそうつぶやくと、ヒッポグリフはかぷりと彼の手を甘噛みした。エドゥアルトは彼女の首筋を軽く叩くと、倉庫に赴きヒッポグリフ用の鞍と手綱を持ってきて、彼女の背中に取り付ける。ヒッポグリフは嫌がることなくそれを受け入れると、新しい主人に従った。


 幸か不幸か、門衛は居眠りをしている。エドゥアルトは彼らを起こさないように、裏門から静かに屋敷を出た。

 一人と一匹は夜明け前の街道を無言で歩いた。慣れ親しんだ村の風景を脳裏に焼き付けるように、時々立ち止まり、何度も振り返る。我ながら未練がましい、と自嘲しながら。


 門を出て一時間ほどもすると、空も白み始めた。すでに民家はなく、周囲は畑ばかりである。そして、屋敷は遠く、豆粒ほどの大きさにしか見えなかった。


 そこまで来て、エドゥアルトはやっとヒッポグリフに乗り、生家を見つめた。


―さようなら、父上、母上。私を育ててくださったことは感謝いたします。しかし、私はもはや、あなた方の息子として生きていくことはできません。


 エドゥアルトは目を閉じ、深く頭を垂れた。


―今までありがとうございます。しかし、あなた方は私を捨てた。なら、私があなた方を捨てても、問題はないでしょう。


 エドゥアルトの脳裏に、穏やかだった日々の思い出がよぎった。厳しくも愛情深い父、温かく優しい母、戦場を友にかけた友人たち……。

 エドゥアルトはほろりとこぼれてきた涙を乱暴にぬぐうと、鹿毛のヒッポグリフに鞭を入れた。そして、夜が明け始めた街道を、東南に向かって駆けさせたのであった。


 エドゥアルトは街道を北西に飛ばし、隣国ザクセン公国へと向かった。幸い、ボーデ家の領地からザクセン公国首都ドレスデンまでは、5リーグ程度しかない。時間にして一時間とほんの少し、ちょうど一時課の鐘が鳴るころに、ドレスデンにつくことができた。エドゥアルトはそこで金目の物を売り払って現金にし、鎖帷子を革鎧に、コットをブリオーに、ショースをブレーに変えた。そして色落ちし、古ぼけたマントを纏い、旅の冒険者のような姿に身をやつすと、正午にはドレスデンを出た。

 家族の匂いが強く残る場所から、早く離れてしまいたかった。



 時々魔獣を狩り、毛皮や牙を売って生活費を稼ぎながら、遠くへ、故郷からとにかく遠いところへと、エドゥアルトはステラと名付けたヒッポグリフを走らせた。その結果、家を出てから約一月半後には、カスティリア王国の首都、マジェリトへとたどり着いた。

 王国が誇る国王の居城、アルカサル城や、聖アルフォンソの聖遺物が収められてあるマリジェト大聖堂。さすがはイベリア半島の大国。どれも素晴らしい物ばかりである。家族、そして悪魔から逃げ出すための旅とはいえ、よい物を見れば心も弾む。エドゥアルトは時間をかけ、満足するまで存分に市内を見学した。

 

 時刻は六時課の鐘をが成って間もなく。エドゥアルトは、シべレス広場近くにあるバールに入り、イベリア半島でよく食べられている豚肉の串焼き(ピンチョ・モルノ)を買うと、ベンチに腰掛けた。そして、旅芸人たちの大道芸を見ながら、遅い昼食をとっていると、疲れた顔をした商人らしき男がやってきて、相席を求めてきた。


「やあ兄さん、隣いいかい?」

「ああ、構わないよ」


 商人は、よっこらせ……とベンチに腰掛けると、大きく息を吐く。


「すまないね……店はどこも満員で、ずゥっと歩きっぱなしだったんさ……兄さんも昼かい?」


 四十を少し超えたほどとみられる商人は、かばんの中からパンと水袋を取り出すと、訛りの強い共通語で話しかけてきた。


「ああ、街に入るのが遅くなってね」

「そうかい。兄さん、ずいぶんときれいな共通語だけど、どこの人だい?」


 エドゥアルトは一瞬動揺したが、すぐにそれを抑えて答えた。


「ドレスデンの出さ。あんたは?」

「俺?俺は帝国(ラトゥム)から来たのさ」

「ラトゥム?」


 聞きなれない名前に、エドゥアルトは首をかしげた。そんな国など、聞いたことがない。それとも、この男は、エドゥアルトが考えるよりはるか遠くから来たのだろうか?

 どうやら顔に出ていたらしい。男は水袋の中の水を一口飲むと、頼んでもいないのに詳しく説明してくれた。


「北半球にある、ローラシアとヌーナ、二つの大陸にまたがる国さ。ローメルシア帝国ローメルシア・ラトゥム―長命種族のデヴシェ族が治める国さ。聞いたことがあるだろう?」


 そこまで聞いて、エドゥアルトはようやく合点がいった。広大な北の大陸を一国で支配し、(デーヴ)末裔(ウーシェ)を名乗る傲慢な種族が治める国。彼らは幾千もの神を信仰し、その神のために奴隷同士を戦わせ、その血でもって供物とするという。男たちは少年愛にふけり、女たちは簡単に夫を変える。狡猾で、残忍で、淫蕩極まりなく、ヒト族の中では我らこそが最も優れた種族であると豪語してはばからない。

 デミュージ教を奉ずるエドゥアルトらエウロパの民にとっては、一種不気味な存在である異種族、それがデヴシェ族である。彼らは滅多に自分の国から出てくることがないという話だが、まさかこの男が、かの種族であると言うのか……?

 エドゥアルトは思わず、男の顔をまじまじと眺めた。男はエドゥアルトの視線で彼の考えをさっしたのだろう。苦笑しながら顔の前で手を振った。


「違う違う。俺はただのヒューマン族さ。奥さま(ドゥミニー)の命令でエウロパの情報を集めてるだけ!」


 男はオトと名乗った。帝国の民はいくつかの階級に分けられるが、オトは帝国市民権(ジュス・ラトゥムエ)という市民権を持つ上級平民の商人で、仕えている保護者(パトローニー)の命令で、エウロパの情勢を探っていたのだという。

 

「最近さ、エウロパは戦だらけでしょ?交易も滞り気味だし。そんで、奥様がら命令を受けて、俺にちょっと様子見てきなさいよって命令したの。ほら、俺、今は引退したけどもとは国の職員でさ。エウロパには詳しいのよ。だからね」


 オトはそこまで一息に言うと、水袋の中の水を一気飲みした。そして、口の端から漏れた水をごしごしと拭うと、再びぺらぺらと話し始める。


「いやーそれにしても、俺たちの国ってさ、このあたりじゃどういう風に言われてるわけ?帝国から来たっていうと、みんなドン引きするか同情されるかのどっちかなんだよね。確かに、俺らはデヴシェ族の下にいるわけだけど―いや、っていうか、この地方の人はデヴシェ族を悪魔かなんかみたいに言うけど、そんなことはないよ?普通の人たちだからね?そりゃあ、風習なんかは違うから、知らない人から見れば奇妙な人たちかもしえないけどさ」

「はあ」


 ずいぶんとおしゃべりな男である。エドゥアルトはまるで立て板に水を流したような男の言葉に面食らったが、なかなか興味をそそる内容である。黙って聞くことにした。

 オトはエドゥアルトが静かに聞いていることに気をよくしたのか、大げさな身振り手振りを交えて説明を続ける。


「あ、そうそう。俺らの身分のことだっけ?俺らは確かにデヴシェ族の下に置かれてる。これは間違いない。政治に口出しする権利なんかないし、税金だって余分に払わなきゃならない。その代り、俺たちは兵役がないのさ。戦わない代わりに、金を払えってこと。あ、自発的な志願なら歓迎だよ?それに、努力次第じゃローメルシア市民権ジュス・ローメルシアエだってもらえるし、運と才能さえありゃ貴族(ノヴィリエ)にだってなれるんだぜ?そこまで悪い待遇なわけでもないんだけどなあ」

「え?」


 今、彼は何と言っただろうか。

 運と実力さえあれば、貴族にだってなれる―

 家族と悪魔から逃げるための先の見えない旅……不安と悲しみに満ちた若き青年の心に、その言葉はすとんと落ちてきた。

 考えるより早く、エドゥアルトはオトに尋ねる。


「……それは……外国人でも大丈夫なのか?」


 唐突なエドゥアルトの問いに、オトは目をぱちくりさせる。しかし、生来親切な性質なのだろう。顎を軽くなでながら、丁寧に答えた。


「へ……・?もちろんさ。正規軍(レギオー)にはローメルシア市民しか入れねぇが、補助軍(アウジラ)には市民権を持たない属州民や、外国人でも入れる。25年務めりゃローメルシア市民権と土地をもらえる。1ユゲルムだから大した広さじゃねえし、名前もちょこっと変えなきゃならないけどな」

「土地を……」


 エドゥアルトはしばしの間考え込んだ。外国人でも、貴族になれる可能性がある。新しい土地、新しい名前、新しい身分……。そして、家族との思い出やミスニの宮廷で暮らした日々、そして、悪夢のような日々を思い比べ―

 ほんの瞬く間の間、しかし、エドゥアルトの中では永劫とも思える時間を思い悩み、決断した。


「オトさん、だったな。もう国に帰るのか?」

「ああ。見るところは大体見たしな。これからポルトゥカーレ王国のリジュボアに行って、そこから飛空艇で帝国に帰る。それがどうしたのか?」


 不思議そうな顔をする四十男に、エドゥアルトは深く頭を下げた。


「私も連れて行ってほしい。できることなら何でもする!」

「はあ?」



 その後、エドゥアルトはオトに頭を下げ、雑用と護衛をする代わりに、飛空艇へ同乗することを許された。しかも、何も言わずとも、エドゥアルトが抱える複雑な事情を察してくれたらしい。道中、ローメルシア語の読み書きまで教えてくれた。


「ま、やる気のある若い同朋が増えることは、我が国にとってもいいことだからな」


 と、笑いながら。

 そして、リジュボアまで一月、そして、飛行船に乗って14日間。

 飛空艇は、ローメルシア帝国の帝都、ビュザンティウムに到着した。




 帝都の中へ飛空艇で入ることはできない。飛空艇は、城壁の外にある公共の飛行場に降り立った。

 扉を開け、タラップを降りると、夏のむわりという湿っぽい熱気と、どこか甘い、異国情緒に満ち溢れる香りが漂う。

 そして、眼前には帝国が誇るビュザンティウムの大城壁が、堂々とそびえ立つ。モルタルと石で造られた城壁は、奇妙な文様―魔物除けと、対魔法の陣がびっしりと刻まれている。驚くべきはその高さで、なんと14パッスス、厚さは、たとえドラゴンが激突しようと小揺るぎもしないほど、一種過剰といえるほどの分厚さだ。

 そして、城壁の倍ほどもある塔が一定の間隔で連なり、巨大な弩砲(バリスタ)投石器(カタパルタ)が交互に設置されている。深く掘られた堀は小型の帆船が二隻ならんではいれそうなほど広く、武装した兵士たちが小舟に乗り込み、厳めしい顔つきで周囲を哨戒していた。


 ―なんて都市だ。これほど立派な城壁は見たことがない。これに比べたら、ミスニの城壁なんて子供のおもちゃだ―


 エウロパ風のブリオーとブレーではなく、帝国風のトゥニカとブラカエに身を包んだ青年は、その場に突っ立っち、あんぐりと口を開けて眼前の風景を眺めていた。

 彼の同乗者―オトは、ふはは、と豪快に笑うと、青年の肩をポンとたたいた。


「見ろ、あれが帝都の大城壁だ。立派だろう?」

ああ(エヴェト)……私が知っているどの城壁よりもすばらしい。信じられないよ」

「そうだろうそうだろう」


 青年の言葉に、オトは心底満足そうに頷いた。帝都生まれの帝都育ちを豪語するこの男は、自分の故郷をほめられたることがうれしくてたまらないようだった。

 

「この大城壁は帝都の民の誇りさ。今まで何百回、何千回と、魔物の襲撃を跳ね除けてきたんだからな」

「そうなのか……」


 感心したように城壁を見上げる青年に、オトは話しかけた。


「そうさ。そんでもって、今日からお前も帝都の住人だよ、エドゥアルト。いや、サリーフ・ドゥオルト」


 その声に、かつてエドゥアルトと呼ばれていた青年はかすかに笑った。サリーフ・ドゥオルト。その意味は、二度生まれた(ドゥオ・オルト)(サリーフ)

 新しき地で暮らすにあたり、エドゥアルトは新しい名を求めた。そこで、オトと相談し、自分で適当な名前を名乗ることにしたのだ。

 サリーフ(タカ)という名前は、帝国では貴賤を問わずよくある名前で、男性の力強さの象徴だという。そして、ドゥオルト(二度生まれた)という姓。

 これは、まぎれもない彼自身だ。彼はミスニの近くにある村でエドゥアルト・フォン・ボーデとして生まれ、ここで死ぬ。そして、この南の大陸で、サリーフ・ドゥオルトとして生まれ変わるのだ。


 エドゥアルトは目を閉じ、両親と友人たちの顔を思い浮かべた。優しい思い出だけをそっと仕舞い込み、忌々しい悪魔の顔と悲しい想いは心の奥底に封印する。目を開ければ、もうエドゥアルトは死ぬ。エドゥアルトという人間は、この世から消え去るのだ。そう自分に言い聞かせて。

 エドゥアルト・フォン・ボーデは、ぎゅっと手を握り、深く息を吸った。そして、その榛色の目をゆっくりと開く。

 目の前には、巨大な大城壁が、相変わらずそびえ立っている。見たことのない鳥が悠々と空を飛び、色とりどりの花が目を楽しませる。今日からここが、サリーフの故郷となる。


 この地に、エドゥアルト・フォン・ボーデを知る者はいない。ここにいるのは、サリーフ・ドゥオルト。18歳のヒューマン族だ。後ろ盾などなにもない。知人は、親切な商人ひとりきり。持っているのは、使い古しのトゥニカとブラカエ、古びた剣に、ヒッポグリフのステラだけ。

 サリーフには何もない。この場所から積み上げていかねばならない。その道のりは生易しいものではない。辛く、苦しい道となるだろう。もしかしたら、命を落とすことになるかもしれない。しかし、あの悪魔はもういない。悪魔に苦しめられていた男も、もういない。

 サリーフは、顔を上げると呟いた。


「……行くか(エアマ)


 サリーフには、何もない。唯一持っている命さえも、失ってしまうかもしれない。その道のりは、決して明るいものではない。

 

 しかし、不思議なことに―心は驚くほど軽かった。

パッスス=1.48メートル

1ユゲルム=33パッスス×33パッスス


パッスス・ユゲルムは、古代ローマの長さの単位です。

当初はドゥナムでしたが、ユゲルムに変更しました。

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