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一話

9月17日:大幅に加筆修正。読みやすくなっていれば幸いです。

10月21日:地名一部改訂

  かつて、エドゥアルト・フォン・ボーデと呼ばれていた男は、絶句していた。

 なぜ、この地に彼らがいるのだろう。遠い遠い北の大陸の、森に囲まれた忌まわしき故郷。そこで暮らしているはずの彼らが、なぜ、帝都(ビュザンティウム)の大通りで、私の昔の名を呼び、私に向かって駆けてくるのだろうか。

 男の端正な顔は次第に険しさを増し、火傷の痕が残る額から一筋の脂汗が流れる。唇はわなわなと震え、強く握りすぎて爪が食い込んだ手のひらからは、血が滲んだ。

 男は、心の中で神を呪った。

 

運命の三女神(トリデーヴィー)よ!そこまで私を苦しめたいか!我が祖神大地母神(マハ・ディヴィー)よ!私の信仰に対するあなたの答えが、これなのか!私のささやかな願いすら、かなえてくださらないのか!)

 

 なぜ、私の前に彼らがいるのだろう。私を捨て、私が捨てた者たちが。私の心の平安を奪い、絶望の淵に叩き落としてくれた悪魔が、なぜ目の前で笑っているのだろう!


「エドゥアルト様、生きていらしたのですね……!よかった!」  


 そう言って、悪魔はうれしそうに笑った。その微笑みは、他人から見れば、親友や生き別れの兄弟と再会したかのような、喜びの感情に満ちた笑みにしか見えないだろう。しかし、男はそうは思わない。まるで女のような美しい容貌であろうと、その藍玉を思わせる深い青の目に涙が浮いていようと、男の眼には、獰猛な悪魔が獲物を見つけたような、おぞましい笑みにしか見えないのだ。

 男の中で25年前の自分が悲鳴を上げ、恐れ慄いている。悪魔から離れろ、逃げろと叫んでいる。男は残った理性を総動員し、それが現実にならぬように、唇をきつく噛み締めねばならなかった。


「エドゥアルト様……?どうしたのです?」


 悪魔は何も言わない男をおかしく思ったのか、男の顔をひょいと覗き込む。その瞬間、男はきつく眼を閉じ、ほとんど反射的に悪魔から顔をそむけた。


「ッ!エ、エドゥアルト様……」


 そこまで拒絶されたとは思っていなかったのだろう。悪魔は傷ついた顔をすると、ふらりと後退する。


「エリアス……!エドゥアルト!あなた、エリアスになんてことを!」

「エドゥアルト、エリアスはあの日から、ずっとお前のことを忘れずにいたんだぞ!それなのに、なんだその態度は!」


 ふらついた悪魔を支えたのは、中年―魔力のが多いために若く見えるが、実際には老人と言っていいほどの年齢―の男女であった。

 彼らは悪魔を抱きしめると、男が憎い仇であるかのように、憎々しげに睨みつけた。そして、思いつく限りの言葉で男を罵倒する。


 恩知らず、自分勝手、傲慢な愚か者、エリアスはこうなのに、エリアスはああなのに、エリアスに比べてお前は本当に―


 エリアスは、エリアスが、エリアスに比べて。男女はそればかりを呪文のように繰り返した。呪文―まさに呪文である。男を縛り付け、苦しませ、やっと自由になったかと思ったら、再び苦しめる。その呪文こそが、エリアス・フォン・ククルス。


 それこそが、男が身分を、名前を、故郷を。そして両親を捨てる元凶になった、悪魔の名前であった。



 エドゥアルト・フォン・ボーデは、ゴンドワナ大陸エウロパ地方にある、ミスニ伯国という国で生まれた。

 ミスニ伯国は、険しい山々と魔物が跋扈する森に囲まれた小さな国である。その領土は実にささやかなもので、都である都市ミスニの他いくつかの街を除くと、人口500人にも満たなぬ小さな村々が点在するばかり。しかし、領土内に魔石を豊富に産出する鉱山があったため、民の生活は他国よりも豊かで、小国ながら明るい雰囲気の漂う国であった。

 エドゥアルトが生まれたボーデ家は、ミスニ近郊の街を治める騎士の家系である。貴族ほどとは言えぬまでも、その所領は騎士たちの中でも随一の広さを誇り、肥沃な大地とすぐそばに流れるエルベ川の恵みは、民とボーデ家に富と豊かさをもたらしていた。

 父であるフランツ・フォン・ボーデは、自他共に非常に厳しい男で、嫡男として生まれたエドゥアルトには特に厳かった。しかし、裕福な騎士家の当主でありながら側室を持たず、大恋愛の末娶った妻一人を愛するという、純朴な一面もっていた。

 母のマリアは典型的な騎士階級の女性で、心優しく貞淑な女だった。夫や子供を心から愛し、威厳と慈愛を持って下男や下女を取りまとめ、奥向きを仕切っていた。中でも、夫フランツとの仲の良さは、息子であるエドゥアルトでも辟易するほどであった。

 そんな両親をエドゥアルトは愛し、尊敬していた。いずれは父母の名に恥じぬ騎士となり、いずれは父母のような温かい家庭を築くのだと。

 彼はそう信じて疑わなかった。


 それが崩れたのは、17歳の時だった。エドゥアルトは7歳で小姓(ペイジ)となって親元を離れ、ミスニ伯の宮廷で暮らしていた。そして、13歳で従騎士(スクワイア)となり、17歳で騎士叙任を受け、正式な騎士となった。

 伯国では名のある騎士の息子であり、伯爵の令息の学友であったエドゥアルトは、令息とともに騎士の叙任を受けるという栄誉を賜った。両親が大喜びする中騎士叙任式を終え、領地にあるボーデ家の屋敷でくつろいでいたその日、彼はやってきた。


「エドゥアルトよ、この者はエリアス・フォン・ククルス。私の従騎士となった者だ。この家の嫡男として、騎士として、面倒を見てやるがよい」

「はじめまして、エドゥアルト様。私はエリアス、どうぞよろしくお願いいたします」


 父が連れてきたのは、ふわふわと波打った金髪をうなじでまとめた、白皙の美少年であった。中性的な容貌は少年というより少女のようで、体の方もも小柄である上、体格はよく言えば華奢、悪く言えば貧相。身の丈6フィートを軽く超え、同年代の青年たちの中では最も体格の良いエドゥアルトと並ぶと、まるで獅子と子兎だ。

 行き成りの事とあまりにも意外な「従騎士」の登場に、エドゥアルトは目を瞬かせた。そして、エリアス少年の姿を、上から下までじっと眺める。


―こんな子供が騎士だって?剣や鎧より、花とドレスの方がよっぽど似合いそうじゃないか。


 そんなことを思っていると、何も言わずに自分を見つめるエドゥアルトの視線に不安を覚えたのだろうか。エリアスは居心地悪そうに身動ぎした。

 エリアス少年のきまり悪そうな顔に慌てたエドゥアルトは、心中を覆い隠すように笑いかけると、


「ああ、よろしく。わからないことがあったら何でも聞いてくれ」


 と答えた。すると、エリアス少年も安心したのだろう。青年ににっこりと笑い返したのだった。

 

 後に父に聞くと、彼は父の亡くなった知人の息子で、父亡きあと、兄から追い出されるように小姓となり、とある騎士の城に仕えていた。しかし、主人である騎士が急死し、後を継いだ息子に追い出されてしまった。その後、いくつかの家に従騎士として仕えようと打診したが、全て断られたそうだ。そこを、フランツが従騎士として引き取ったのだという。


 なんて不憫な子なのだろう―エドゥアルトはこの不幸な生い立ちの少年を、できるだけ手助けしてやろう。できるだけ力になってやろう。そう思ったのだった。

 

 そして、その思い通り、エドゥアルトはエリアスを可愛がった。人の話に割り込んでくるという悪癖はあるものの、13歳という年齢にしては幼く素直なエリアスは、兄弟のいないエドゥアルトにとって弟のようなものだった。

 また、エリアスは華奢な肉体の持ち主の割に、優秀な剣士であり、騎士であった。相当にやりこんだのであろう、基礎のしっかりしたその剣技は、膂力がないために力強さこそ劣るものの、技術面でみるならそこらの平騎士よりも上だ。そして、何より呑み込みが早く、強くなるための努力を怠らない。

 そんなエリアスに対し好感を持ったエドゥアルトは、自ら率先して彼に稽古をつけた。武装して山野を走り回り、体を鍛えることから始まり、水泳、騎獣たちの世話、そして古代語の習得まで。エドゥアルドはエリアスを厳しく、そして時に優しく教育した。それは両親も同様で、エリアスはボーデ家の二人目の息子のようになり、4人の仲は極めて良好。問題らしい問題は生まれなかった。


 彼が違和感を感じたのは、それから二カ月後のことである。エドゥアルトは父の名代として、近隣の騎士たちと合同で大量発生した魔物の討伐に向かった。半月後、多くの戦果をあげて帰って来た時は、もうおかしかった。


 皆が、エドゥアルトより、エリアスを優先するようになった。

 エドゥアルト付きの侍女たちは、エリアスに呼ばれると争うようにして彼のところに向かった。エドゥアルトが来るように命令しても、誰一人来ないことすらあった。そのことをエドゥアルトが叱責すると、エリアスが


「僕が悪いんです、エドゥアルト様。僕が彼女たちに頼りっぱなしだから」

 

 と、彼女らをかばい、しょんぼりとうなだれた。すると、悪者になるのはエドゥアルトだ。周囲に非難がましい眼を向けられると、エドゥアルトは許すしかなくなった。


 母も同様であった、母はエリアスに話しかけ、服を作り、自ら勉強を見てやり、


「エリアスは私の自慢の息子よ。血がつながっていなくてもね」

 

 と言うようになった。エリアスとエドゥアルトがちょっとしたことで言い争いになれば、必ずエリアスの味方をした。たとえ、エドゥアルトが正しくてもだ。母はエリアスを抱きしめて息子をにらみ、「この子にこんな顔をさせるなんて」と彼を詰った。


 友人たちもそうだった。無二の親友だと思った男が、エリアスとエドゥアルトがいれば、エリアスと話すようになった。エドゥアルト一人だと、残念がるようになった。そして、いつの日かエドゥアルトがいなくても気にかけないようになり、最終的にはいないことにすら気がつかなくなった。


 最後は父だった。あの厳しく、滅多に人を褒めない父が、エリアスを褒めるようになった。エリアス以上の戦果をあげたエドゥアルトは、無視だ。それは仕方がない、エドゥアルトはどうにか納得した。エドゥアルトは実の息子で、正式な叙任を受けた騎士だ。未だ従騎士であるエリアスより、戦果が上なのは当たり前。そう考えれば楽になった。

 エドゥアルトはさらに努力した。朝は馬の面倒を見、剣を持ち、汗を流す。そして、夜遅くまで明かりをつけ、古代語の習熟に励む。父に認められるため、立派な騎士になるために、と。

 しかし、エドゥアルトがどんなに努力しても、父母が彼を顧みることはなかった。それどころか、エドゥアルトが過労で倒れて寝込んでしまっても、誰一人顔を見せに来ることはなかったのだ。


 エドゥアルトは戦慄した。今や、エドゥアルトの場所だったところには、エリアスが収まっていた。エドゥアルトの場所はない。

 何より恐ろしいのは、エリアスがエドゥアルトに懐いていたことだ。エリアスはエドゥアルトの行くところ、どこにでもついてきた。


「エドゥアルト様、馬を引きましょう」

「エドゥアルト様、僕に剣を教えてください」

「エドゥアルト様、遠乗りですか?ご一緒してもよろしいですか?」

「エドゥアルト様」

「エドゥアルト様」


 断れば、エリアスはしつこく付きまとって来る。強く言えば、うなだれてしまう。そして、それを誰かが見れば、「エドゥアルトはなんてひどい奴なんだ」と、叱責される。

 邪険にすれば悪者になる。一緒にいれば居場所を奪われる。

 温和そうな頬笑みを浮かべながら、じわじわと自分を苦しめる。それこそ、真綿で首を絞めていくように……しかも、悪気は全くない。

 エドゥアルトはエリアスを避けるようになり、自分の部屋に閉じこもるようになった。幸いにして、エリアスも彼の部屋に入ってくるということはなかったため、エドゥアルトは安心して部屋でくつろぐことができた。

 しかし、その安息も長くは続かなかった。部屋から出てこないエドゥアルトを奇妙に思ったのか、両親がエリアスを迎えによこすようになったのだ。両親からエドゥアルトの部屋に自由に入る許可をもらったエリアスは、エドゥアルトの部屋にずかずかと入り込み、


「だめですよ、エドゥアルト様!部屋にばかり閉じこもっていたら、腕がなまってしまいます。さ、僕と剣の手合わせをしてください!」


 と言って、エドゥアルトの安らぎの空間をぶち壊してしまった。そのため、エドゥアルトはエリアスを避けるために、自分の城でありながら鼠のようにこそこそと動かねばなくなってしまった。


 エドゥアルトは、エリアスと言う少年が不気味で仕方なかった。エリアスは人ではなく、魔物か何かではないだろうか?そうでなければ、これほどまでに、悪気なく他者を苦しめるはずがない。それとも、悪気がないというのはあくまで表向きで、実はおぞましい裏の顔を隠しているのではないか……?

 そう思うようになった頃、ある事件が起きた。


 父や母、エリアス、そして、家に遊びに来た何人かで狩りに行った時のことだ。エドゥアルトは嫌だったが、父や母の非難するような視線に仕方なく参加した。

 それぞれ馬を駆り、狩りを行い、その成果を自慢しあう。それが終わるり、談笑しながら―エドゥアルトはそれに加わらなかった、いや、加わらせてもらえなかったが―美しい湖のほとりで、ランチボックスを広げてくつろいでいた時のことである。

 騎士たちは、どこからか殺気を感じた。すぐに立ち上がり、剣に手をかけ、周囲を見渡す。そして、嫌な気配を感じて背後を振り向くと、そこには赤くらんらんと光る一対の目があった。それは次第に近づき、数を増やし、そして、姿を現した。

 騎士たちは驚愕した。たしかに、このあたりの森は摩獣が出現することもある。しかし、今現れた獣は、この森で出現の報告がされたことがない物であった。


「お、おい!オルトロスだぞ!」

「オルトロス!?なぜここに!」

 

 誰かがそう叫んだ。オルトロス。それは、10フィートを超える巨体に、紅く爛々と光る目と、鋭い牙を光らせる頭が二つ付いた、おぞましい姿の魔物である。鋭いその爪は、革鎧程度ならやすやすと引き裂き、絶えまなくよだれを垂らすその口からは、瘴気の混じった炎を吐く。魔物の中では比較的弱いとはいえ、何かをかばいながら簡単に倒せるようなものではない。

 そのオルトロスが数匹、無数のグレイウルフを引き連れてがやってきたのである。これが戦場ならば他の騎士たちと共に打ち倒すだけだが、ご婦人がたと言う足手まといをつれた状況では、それも難しいし、馬に乗って逃げたとしても、すぐ追いつかれてしまうだろう……。騎士たちは真っ青になった。

 しかし、やらねばやられる。エドゥアルトはごくりと唾を飲み込み、目をきつく閉じ、そして開いた。頭の中を戦いに切り替え、剣を構えると、剣を手にかけたまま硬直する仲間たちに叫んだ。


「御婦人方は下がってください!何人かは結界を張って、その護衛を!隙があったら逃げてください!我らで敵を引きつけます!」

「わかりました!」


 エドゥアルトの声に力を取り戻した騎士たちが、応!と力強く答えて剣を抜いた。母をはじめとする婦人たちと、エリアスを含む何人かは後ろに下がり、決壊を張るための詠唱を始める。前線に出た騎士たちはそれをかばいながら戦っていたが、彼女らが結界を張ったのを確認し、全力で戦い始めた。

 オルトロスが咆哮し、炎を吐けば、騎士たちが魔術でそれを凍らせる。グレイウルフたちの攻撃をかわし、斬りつける。

 炎と魔術と剣が飛び交い、騎士たちが満身創痍となるころ―オルトロスは仕留められ、頭を失ったグレイウルフたちが、森の中に逃げていった。

 どうにかなったか―エドゥアルトが大きく息を吐くと、だれかに肩をたたかれた。振り向くと、そこには笑みを浮かべた父がいた。


「よくやったぞ、エドゥアルト」

「父上……」


 フランツが満足そうにエドゥアルトを褒めた。よかった、やはり父上は私を忘れていなかった。私はエリアスに負けていなかったのだ。エドゥアルトは久しぶりに心の平安を得た。そして、母もさぞや喜んでいるだろう、と後ろを振り向く。

 すると、母はすでに結界の中から出て、こりらに向かって走っていた。エリアスを引き連れているのは気にくわなかったが、今はそんなことすらどうでもよかった。しかしである。

 倒れ伏していた一体のオルトロスが起き上がり、その目を光らせた。そして、母に向かって狙いを定め―


「母上、危ない!」


 エドゥアルトはすぐに剣を抜いて駆けだした。間に合うだろうか、いや、間に会え……!

 オルトロスが母に向かって飛びかかる。それを認識した母の顔が恐怖にひきつり、甲高い悲鳴を上げる。すぐさまエリアスが母の前に立ち、かばう体制に入るが、それより早くオルトロスが口から炎を吐きだした。

 エドゥアルトは咆哮をあげて飛びかかり、オルトロスに突進する。自分を害する者の存在に気付いたオルトロスは、エドゥアルトに向かって炎を浴びせかけた。しかし、若き騎士は炎をものともせず剣を掲げ、オルトロスの脳天めがけて振り下ろす!

 剣は、オルトロスの鼻面を引き裂いた。オルトロスは苦しげにうめくも、エドゥアルトの腕にかみつき、首を大きく振ってを宙へと吹き飛ばす。

 跳ね飛ばされたエドゥアルトは、地面に叩きつけられた。激痛に声も出なかったが、どうにかそれを押し殺し、上体を起こす。直後、狙いをエドゥアルトに定めたオルトロスが飛びかかってきて、無防備な肩に牙を立てた。

 エドゥアルトは鋼の鎖帷子を着ていたが、牙はそれを易々と砕き、みしみしと音を立てて肩に食い込む。次第に強くなる痛みはまるで拷問を受けているかのようで、エドゥアルトは気を失いかけた。しかし、ここで負けるわけにはいかない。歯を食いしばり、とにかく一矢報いねばと、無我夢中で剣を突き立てる。

 すると、刃物が肉に突き刺さる独特の感触と共に、オルトロスはエドゥアルドの肩から口を離し、再び方向を上げる。見ると、赤い眼のど真ん中にはエドゥアルトの剣が刺ささり、どす黒い血を流していた。激痛と怒りに狂ったその声が、森中に響きわたり、空気をびりびりとふるわせる。その時だった。


「せやーッ!」


 気合いの声と共に、ごしゅり、と肉に何かが突き刺さる音がした。それがエリアスの声だとエドゥアルトが認識した時、異変が起きた。オルトロスの口から咆哮が止まり、代わりに嫌な音を立てて大量の血を吐きだしたのだ。そして、足がぶるぶると震えだし、苦しげに二、三度呻くと、ずずん、と重苦しい音を立ててエドゥアルドの上に倒れてしまったのである。

 オルトロスが落ちてきた衝撃で、エドゥアルトの腹部に激痛が走った。肺の中の空気がすべて抜けてしまったかのような、息をするのも苦しくなるほどの痛みである。

 エドゥアルトは必死になって呼吸をし、空気を取り込んだ。ある程度痛みが治まったのを見計らい、魔物の肉に挟まれた腕をどうにか動かし、患部を探る。痛みこそ大きかったが、怪我自体は大したこと無かった。骨も折れていないようだ。


 終わったか……。

 

 ピクリとも動かないオルトロスに、エドゥアルトがほっとして息を吐いた、その刹那であった。


「大丈夫か?エリアス!」

 

 そう言って、エドゥアルトの父、フランツはエリアスに駆け寄った。すぐそばに、魔物の下敷きとなり、失血によって顔を青くしている息子がいるというのに、だ。

  

「エリアス、大丈夫?!私をかばって、こんな怪我を……」


 母、マリアがエリアスにすがりついた。実際に母をかばって怪我をしたのは、エドゥアルトなのに、彼女はエリアスを抱きしめ、彼のために泣いた。しかも、エリアスの傷は頬に負ったわずかな火傷のみであるというのに、マリアはそれが死に直結する怪我であるかのように嘆いた。

 

「大丈夫です、マリア様……それより、みんなは!?」


 エリアスはマリアに力強く頷くと、周囲を見渡した。


「みんな無事だよ!お前のおかげでな!」

「さすがエリアスだ!」


 同行していた誰もが、エリアスを褒め称えた。

 エリアスは白皙の頬を朱に染めると、


「そんなことはありません。皆が協力しあったからです」


 と謙遜した。すると、周囲は謙虚な若者をさらに称賛した。その若さで魔物を倒すだけの力を持ちながら、心も美しい若者だと。

 エリアスは照れたように顔をそらす。その視線の先には、血だまりの中、魔物に押しつぶされているエドゥアルトがいた。

 エリアスは、確かに、エドゥアルトを視界に入れた。それどころか、目もあった。エドゥアルトの榛色の眼と、エリアスの藍玉の眼が確かに交差し―そしてそらされた。何も言わぬままに。


 そして、皆、そこから去った。


 魔物の下敷きになり、苦しむエドゥアルトを救ってくれる者は、いない。その雄姿を褒め称え、酷い怪我だと嘆いてくれる者は、いない。

 絶望に染まっていくエドゥアルトを見てくれる者も、いない。




 しばらく時間がたった後、エドゥアルトは死体の下からどうにか抜けだし、近くの木に寄りかかった。そして、わずかに回復した魔力を使い、傷を癒す。

 そして、次第に暗くなっていく空を見ながら、なぜこうなったのかをぼんやりと考え続けていた。

 エリアスが来るまでは、すべてがうまくいっていたはずだ。家の規律は守られ、下女や下男は仕事に精を出し、エドゥアルトは嫡男として尊重されていた。

 しかし、今はどうだ。エドゥアルトはいない者のように扱われ、そこにはいつの間にかエリアスが立っていた。いまや、皆がエリアスの周りに集まる。家の中心は、エドゥアルトでも、母でも、当主である父でもない。いつの間にか、エリアスになっていた。そう、いつの間にか。

 悲しみの淵でそんなことを考えていると、エドゥアルトの脳内にふとこんな考えが浮かんだ。「もしかしたら、最初に従騎士として使えていた家から追い出されたのも、これが原因ではないのか?いや、兄から追い出されたのも、これでは……?」

 そう思った瞬間、エドゥアルトの背筋が冷たくなった。

 

 そうだとしたら、何と恐ろしいことだろう!エドゥアルトは、あの愛らしい少年が悪魔に思えた。

 彼の兄は、それに気づいてエリアスを追い出したのだ。そして、以前に彼が使えていた騎士も、エリアスの危険性に気づいた。あるいは、もう居場所を奪われかけていたのかもしれない。しかし、ちょうどよく父親が死に、自分が当主となった。そして、その権限で悪魔を追い出した。他の家も、エリアスの兄や騎士の息子から聞いていたのだろう。二の舞になってはいけないと、彼を受けれなかった。

 そして、愚かにも悪魔を受け入れたのが、我がボーデ家だったというわけだ。


 エドゥアルトの顔が歪み、自嘲的な笑みをこぼした。自分は悪魔に負けたのだ。


 戦場を友にかけた仲間は、もうエドゥアルトの仲間ではない。優しい母は、エドゥアルトの母ではない。厳しい父は、エドゥアルトの父ではない。そして、ボーデ家は、エドゥアルトを必要としていない!


 エドゥアルトは、肩を震わせて笑った。ひとしきり笑った後、ひざを抱えて啜り泣いた。そしてその後、声を出して泣いた。もう、誰からも必要とされていない。その事実を受け入れるのは辛すぎた。いかに弱きを守り、強きを挫く騎士とはいえ、彼はまだ18歳の青年にすぎないのだ。

 血と煤にまみれた顔がぐちゃぐちゃになっても、日が暮れて月が浮かんでも、エドゥアルトは泣き続けた。



 迎えは来なかった。

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