序章 交わりの始まり Ⅴ
空の真上に昇った太陽の日差しがとても強い。
その日差しから視界を守るように、『上村悠生』は手で視界を覆う。
「今日も暑いな……」
長袖のシャツは腕まくりをしており、だらんと首元を緩めた学校指定のネクタイがとても気だるそうな表情を助長させている。悠生が着ているのは、彼が通っている高校の制服だ。
悠生は学校からの帰り道を歩いている。
しかし、まだ下校時間ではない。本来の下校時間まではまだ数時間以上も時間がある。悠生は体調不良を訴えて、授業を早退したのだ。
(こんな暑い日は、家でのんびりとしてるに限る)
そう考える悠生だが、決して仮病を使った常習犯ではない。本当に体調が悪いのだ。
(朝からついてねえよ……)
彼の朝はいたって普通だと言える。それが他の人とほんの少し違うのは、起きたら家に誰もいなかったということだけだろう。悠生が起きた時間も、登校には十分間に合ういつもの時間であり、寝坊をしたというわけではない。それでも起きたら家に一人だけ、ということは今までも幾度もあった。
「帰ってシャワー浴びよ――」
それが悠生にとってはついてない、ということになる。
そこには、悠生の家庭事情があると言えるだろう。両親の仕事にそれほど関心を持っていない悠生は自身の親が何をしているのかはよく知らない。しかし、起きたら家に一人という状態が何度もあるとさすがにうんざりしてくる。それが少なからず、今の体調が悪いということに影響しているのかもしれない。どちらにせよ、今の悠生の気分はとても良いとは言えなかった。
悠生が通っている高校から家までの街並みは、ずっと住宅街が続くなんてことのない道程だ。しかし、悠生は見慣れたその風景に何処か言い表せない違和感を覚える。
(……?)
すぐ目の前にある家の表札も、通るたびに吠えてくる近所の犬も、通り過ぎるときに軽く会釈してくる優しいお婆さんも、何もかも見慣れた風景なのに、悠生は言葉では表現のできない不安を感じる。
「…………」
立ち止まり、ぐるっと周囲を見渡すが、やはり昨日と何も変わっていない――暮らし慣れた街の景色が広がっているだけだ。
「どうかしたの、悠生ちゃん?」
悠生の様子がおかしいと思ったのか、子どもの頃から良くしてもらっているお婆さんが心配そうに声をかけてくる。
「い、いえ……」
「本当……? なんだか顔色が悪いわよ?」
「あ、ちょっと朝から体調が良くなかったんで、学校を早退したんですよ」
「あら、そうなの?」
上手く会話合わせるように、話をしている悠生の言葉をそのまま信じたお婆さんは本気で心配してくる。
「え、えぇ……」
「それは安静にしてないと! お家に着いたら、お薬飲んですぐに横になるのよ?」
お婆さんにとって、小さいころから近所付き合いの一環として面倒を見ていた悠生は孫のような存在である。それ故に、悠生の心配はその家族よりも過度にしてしまう節があった。
「はい、わかってますよ」
心から悠生の身体を案じてくれるお婆さんに、悠生は笑顔を見せて答える。お婆さんも、その返事を聞いて安心したように「うん」と頷く。
「それじゃあ――」
そう言って、悠生はお婆さんと別れる。
再び家路を歩き始めるが、やはり感じた違和感は拭えない。
(空気が違うのか……)
悠生は、そう考える。
雨が降る前や降った後あるいは季節やその日の気温などによって、吸う空気の匂いや感じが微妙に変わっていると思うことがあるように、悠生は空気が違うのだろうか、と推測する。それはあながち間違いとは言えない。
昨日よりも湿度が高い今日は、生ぬるい空気はうっとうしく感じるだろう。
(何なんだろう……)
感じる違和感に答えを出せないまま、悠生は家路を歩く。
照りつける太陽の光は一向に治まらず、かいた汗は不快感を一層に増すように身体を伝っていく。
それから、悠生が家に着いたのは二〇分ほど経った後だった。
玄関のドアを開けようとするが、ガチャガチャという音がするだけで、開く気配はない。朝、高校に行く前に悠生が鍵をかけたままなのだろう。
「……」
(やっぱりか――)
気付いた悠生は仕方なく鞄を漁って、家の鍵を取りだす。そしてドアのカギを開けて、家に入っていく。
「ただいまー……」
家に帰ってきた悠生は一言そう言うが、返事は返ってこない。
(当然……だよな――)
家に帰ってきても『おかえり』の一言がもらえないことに、悠生は少し虚しくなる。玄関に突っ立っている悠生は自分が抱いた気持ちに気付いて、
(馬鹿らし……。もう子どもじゃないんだし――)
と、靴を脱ぐ。そして、帰宅途中でかいた汗を流そうと浴室へ向かおうとする。
「ふわぁ~…」
欠伸をしながら、リビングに鞄だけを置いて浴室へ向かおうとする悠生はちらっとリビングに置かれているテーブルを見る。そこには朝見かけた置き書きが今もある。当然、家には誰もいない。
(…………)
その書き置きを見て、苦い表情になる。それを振り払うかのように悠生は頭を振って、リビングを後にする。
誰もいない家の中は昼間だというのに、とても暗い。カーテンを閉めているために太陽の光が室内まで届かないということももちろんある。しかし、それ以上に家の雰囲気が暗いのだ。その家の中に、リビングのドアを閉める音が虚しく響く。
廊下を数メートル歩いて脱衣所へ着いた悠生は、
「はぁ……」
と、ため息を吐く。さらに体調が悪くなったような妙な感覚を抱きながら、悠生は脱衣所で制服を脱ぎ始める。
脱衣所に設けられている洗面台の鏡に、悠生の顔が映りこむ。覇気のないその表情は、虚ろそのものだ。
(さっさと寝よ……)
制服を脱いだ悠生は、そのまま浴室へと姿を消していく。鏡には誰も映り込まない。
電球が一つも点いていない家は恐ろしいほどに暗く、生活感を感じることができない。
悠生の家もそうと言えるほどに、家の中に明かりがなかった。それは悠生が朝起きたときには家に一人だったから、というわけではない。日常的に電気が点いていることのほうが少ないのだ。
母親も父親も仕事で家を空けていることのほうが多いのは、悠生が子どもの頃から変わらない。だから、近所のお婆さんが面倒を見ていてくれた。そのことに悠生は並々ならぬ感謝の気持ちを持っている。お婆さんがいてくれたから、今の悠生がいる、と言ってもいいほどだ。
家を空けていることが多い両親は公務員として仕事をしている。そう聞いたことがあるだけで、どのような仕事をしているのか悠生はよく知らない。単身赴任で父親が県外で数年働くということも経験したことがあるが、それでも悠生の興味を引くことはなかった。
「暗……っ」
シャワーを浴びた悠生がリビングに行くと、先ほどよりもさらに部屋の中は暗くなっていた。太陽に雲でもかかっているのだろうか。
あまりにも暗いと思った悠生はリビングの明かりを点ける。悠生が明かりのスイッチを押すと、ずっとほったらかしにされていたかのように電球は鈍い反応を見せて明かりを灯す。
リビングに明かりが点くと、おもむろにテレビのスイッチを点ける。家に一人でいると話し相手もおらず、声が聞きたいがためにテレビを点けるのだ。
「……あ――」
昼のワイド番組を写しているテレビが置かれているテレビ台の端にこそっと置かれている家族の写真に不意に目が行く。まだ悠生が幼く、幼稚園にも通っていない頃の写真だ。幼い悠生は母親に大事そうに抱かれている。
写真には悠生と両親の他に、もう一家族写っていた。その家族の母親も当時の悠生と同い年くらいの子どもを胸に抱いている。
(……誰……だっけ――?)
ずっと気にもしていなかった写真を見て、悠生は写っている子どもに意識を向ける。しかし、その子どもが誰だったのか思い出すことができなかった。
「まぁ、いっか――」
写真の子どもにそれほど執着しなかった悠生は、リビングのソファに横になってテレビに映っているワイド番組をただ見る。その番組では、『地域観光探訪』と題した観光コーナーを今はやっていた。
うとうとと視界が霞んでいき、意識は次第に現実から遠のいていく。このまま寝そうだなぁ、とおぼろげに思いながらも悠生はソファから動こうとはしない。
(あ……薬飲んでないや……)
そのことに気付いた時にはもう夢心地の状態で、ソファのふかふかとした感触に悠生は全身が襲われていた。
(まぁ、いいや)
リビングの端の壁にかけられている時計の時間をみて、悠生はそう思う。朝飲んだ薬の持続効果はまだあるはずだ。
そう判断した悠生は、今度こそ夢の中に落ちていく。




