第三章 家 ~ルーム~ Ⅴ
雲の間から覗いている太陽の光が、燦々と地上へ降り注がれる。この季節特有の照りつけるような日射しである。
街を歩いている人々は各々の手にハンカチやハンドタオル、扇子などを持って、この気温に耐えようと必死になっている。それらの人の動きを、アオイは静かにカフェのテラスから眺めている。
今日の彼女の服装は昨日と同じ制服だった。
「ふ~、一息つかないと歩くのも嫌になるわね」
そこに、アイスティーを両手に二つ持った女の人が近づいてきた。
アオイと同じ『ルーム』で暮らしている『トモミ』である。二五歳であるトモミはボブの茶色い髪に、しっかりと化粧をしている顔をしており、ヒールで低い身長を必死にごまかしている。その服装は青い色が映えているキュロットに白い半袖のワイシャツを着ていて、見栄えはとても美しい。しかし、強い日射しを防ごうと頭に被せているキャラクターモノのタオルの放つ存在感が、その美しさを半減させていた。
「ありがとう」
アオイは同じようにテラスに座ったトモミから、注文していたアイスティーを受け取る。
「あ、気持いい――」
透明なカップに入った冷たい液体が、触れた手を心地よくさせてくる。その感覚に浸りながら、カップの淵を口へ運んでアイスティーを一口飲む。
そのアオイの隣には、同じく『ルーム』で暮らしている『マサキ』が座っていた。
マサキは『ルーム』の中でカツユキ、トモミに次いで、年上のアオイたちにとってはお兄さん的存在である。そんなマサキはデニム地のズボンに、UネックのTシャツとカーディガンというシンプルな格好をしている。
黒い髪が緩やかに吹く風に流されて、整えていた形が崩れている。崩れた髪の形を手で直している彼は自分がなぜここにいるのかと疑問に思っていた。
「女子の買い物に男の僕が来る必要はなかったんじゃないの?」
同じテラスに座っているマサキは暑さにやられてぐったりとしている。マサキの目の前にある飲み物の氷も融けてしまっている。
「何言ってるのよ。今日の買い物は私たちのものじゃないわ」
「へ? そうなの?」
買い物の内容を聞いていなかったマサキは拍子抜けした声を上げた。
「何、買いに行くの?」
同じく、買い物に行くわよ、というトモミの問答無用の言葉についてきたアオイは尋ねた。
「悠生くんの生活必需品――よ。これから『ルーム』で暮らすなら、必要になるでしょ?」
「生活……必需品」
「はぁ、なるほどね」
トモミの言葉に、アオイとマサキはそれぞれ違う反応を見せる。
悠生が着ていた服装は時空移動する前に来ていた部屋着であり、その他の服、下着、靴など洋服も何もなかった。その他に個人で必要になるだろう携帯電話もお金も全て向こうの世界に置かれているままである。
そのため、これから『ルーム』で暮らしていく悠生には多くの日用品が必要なのだ。
トモミはそのための買い物をする、と二人に言った。
「それなら、本人も連れてきた方が良かったんじゃ――」
個人の好みもあるだろう、とマサキは言うが、
「馬鹿。追われている当人を『ルーム』の外に出すわけにもいかないでしょ。そこらへんは悠生くんには我慢してもらうわ。私たちよりもその辺りはマサキが選んだほうがいいでしょうし、荷物持ちにもなるし」
「そのために僕を連れてきたってことね、はぁ――」
自分がここにいる理由を知らされたマサキはため息を吐く。
「仕方ないじゃない。タクヤは朝からどこかに出掛けちゃったし、カツユキさんは起きるの遅いし。マサキしかいなかったのよ」
「まぁ、別に構わないんだけどさ。せめて、どんなのがいいのかとか事前に聞いてから出掛ければよかったよね? なんで彼が起きる前に出掛けたの?」
「そ、それは……」
マサキに対して、トモミは口籠る。その目線もあちこちへと移る。
「なに? 何か別の理由あるの?」
「それは…………私も欲しいものがあったのよ……。ネットで在庫確認したらあと一品だけだったから朝早く行こうって考えて――」
堪え切れなくなったトモミは本音を漏らした。
「はぁ……、どうせそんなことだろうと思ってたよ」
「うっ……。私のわがままで二人をこんな朝早くから出掛けさせたのは謝るわ」
「言ったでしょ、別に構わないって。それなら、カフェでのんびりせずにちゃっちゃと買い物済まそうよ」
トモミの本音を聞いたマサキは、のんびり休憩してる場合じゃないでしょ、と温くなった飲み物の残りを一口で飲んで、立ち上がった。
二つの四LDKタイプのファミリーマンションの壁を壊し、中を改装して作られた『ルーム』には部屋が六つ設けられている。それぞれの部屋は、トモユキの部屋、カツユキとマサキの部屋、ユウキとタクヤの部屋、トモミの部屋、ミユキとアオイ、ミホの部屋、そしてほぼ物置として使用されている部屋があった。
悠生は、そのミユキたちの部屋に呼ばれていた。
その部屋は一五畳近い広さがあり、三人分のスペースは十分にある。ベッドが三つあり、それだけでかなりのスペースが取られているのだが、それでも窮屈感がないのは天井まで高さがある大きな窓が壁にあり、外の景色が見えるようになっているからだろうか。
部屋には他にも机が二つ置かれており、雑貨が多数置かれている棚が壁際に配置されている。
その部屋にいる悠生は三つ並べられているベッドの一つに腰を落としていた。対面にいるミユキはカーペットが敷かれている床に座っている。
ミユキの服装はそれまでのパーカーとショートパンツから、もっと動きやすいロングTシャツとフレアスカートに変わっていた。その服の下は、包帯が何重にも巻かれているのだろう。
「そ、それで、話って?」
朝ご飯を食べ終えてから、ずっと疑問に思っていたことを悠生は尋ねた。
悠生は自分の方が見下げるようになっていることに、多少の居づらさを感じていた。それは女子の部屋に来ているということも十分に加味している。
「そ、その――」
「?」
「……あなたに迷惑をかけて本当にごめんなさい!!」
カーペットに座っているミユキは頭が床につくぐらい下げて、深く謝った。
謝罪の言葉は何度も言ったつもりだが、それくらいでミユキの気持ちが治まったわけではなかったのだ。
突然頭を下げたミユキに、悠生は困惑してしまう。
「……いいさ。それにもう何度も謝ってくれたろ? 助けてもくれた。俺はそれだけでミユキたちを信じれるよ」
「許してくれるの? 『時空扉』を使ってユウキを時空移動させたのも、あなたがこっちの世界にくる一番の原因を作ったのも私なのに――」
紡いだ言葉は最後のほうは弱々しいものになり聞き取りにくい。それでも、ミユキが心から謝っていることはわかった。
ミユキは簡単に許してもらっては困るというほどに罪悪感を抱いているのだ。
「それでも、だよ。理不尽なことばかりで怒りがないって言ったら嘘になるけど、それについては理解したし、今はそれよりも感謝の気持ちのが大きいから」
そう悠生は嘘偽りのない気持ちを言葉にした。
その言葉にミユキの心は少し洗われる。うっすらと浮かべた涙を手で拭いて、ミユキはもう一度視線を上げた。
「ありがとう」
そして短く、それでも最大の感謝の言葉である言葉を言った。
「い、いや……だから……もう気にするなって、言いたくて……」
まっすぐ感謝の言葉を述べられた悠生は、初めてのことにしどろもどろになってしまう。その反応を見て思わず笑ってしまうミユキだが、またすぐに真面目な表情へと戻る。
「本当にありがとう。あなたが良い人でよかった」
「……こっちの世界の俺とはやっぱり性格とかは違うのか?」
「そう……ね。似てる部分もあると思うけど、性格まで全部一緒ってわけじゃないと思うわ。まだ分からないけど――」
「そうなのか」
悠生には自分と同じ顔をした人間が、こちらの世界にいたという感覚が上手く掴めない。タクヤやアオイの存在とこちらの世界の存在を認めた以上、ユウキの存在も認めなければならない、認めていいはずなのだが、どうもイメージしづらかった。
「全く一緒ってわけじゃない……か」
「それがどうかしたの?」
「い、いや、何でもない。そ、それでもう一つの話って?」
言葉に詰まった悠生は無理矢理話題を変える。それに、ミユキもいろいろ話さなければならない、と言っていたのを思い出したのだ。
「そうね。あなたが狙われていることは変わらないのだから、手短に言わないといけないのだろうけど――」
そう前置きしたところで、ミユキは改めて座っている体勢を直して悠生をまっすぐと見つめる。
「あなたには、当分の間ここから出ることを禁止させてもらうわ」
「え……っ? 『ルーム』から出るなって!?」
「えぇ。あなたが狙われていることは変わらないし、相手はここの場所を知らない。なら、街に出て自ら危険に赴く必要もないでしょ?」
トモユキが言っていたように、ユウキを狙っている男たちは『ルーム』の場所を知らない。ならば悠生がわざわざ『ルーム』から出る危険を冒すこともない、ということだ。
「そして、あなたがこれからどうなるかだけど……」
そこで、ミユキは一度話を途切る。
「?」
ミユキが何を言おうとしているのか分からない悠生は首をかしげる。
「……あなたには当分こちらの世界にいてもらうことになるわ」
「当分?」
「えぇ。今、あなた――いえ、ユウキが狙われている現状は変わらない。『時空扉』も奪われた今、ユウキもこちらの世界にいないため、時空を越える手段は完全に失ったわ。必然的にあなたはこちらの世界にいるしかないのだけれど、事態が治まるまでこちらの世界で生活してほしいの」
「そ、その事態が治まるのっていつになるんだ……?」
「……それは分からないわ――」
悠生の質問に、ミユキは小さな声で答えた。
ミユキは、悠生が抱いているだろう疑問や不安のなんとなく理解する。半日足らずの逃走劇の理由を知り、相手の脅威を知った今、追われることに対する恐怖がいつまで続くのか。それは、疑問に思って当然だろう。
「じゃ、じゃあ事態が治まれば、俺は帰れるのか!?」
いつまで追われる恐怖に耐えなければならないんだ、と不安になった悠生は焦ったように続けて尋ねた。
「……それも分からないわ――」
同じ言葉で、ミユキは答えた。
直後、数秒間の沈黙が部屋を静かにさせる。
一メートルにも満たない距離を隔てて、悠生とミユキはお互いの顔を見つめている。じっと悠生の表情を窺っているミユキに対して、悠生はミユキの顔を見つめながらも焦点があっていないようだった。
「そ、そんな……」
「……昨日も言ったけど、あなたが『時空扉』を使うことはできない。ユウキと一緒だったら可能性はあったかもしれないけど、ユウキはこっちの世界にはいない。それに『時空扉』も奪われてしまった。今は、あなたが元の世界へ帰る方法は本当にないわ」
最終通告のように、ミユキは言った。
時空を越える手段を確立した『時空扉』とは言え、未知数な部分もある。ユウキの力添えがあれば、他の人も時空を越えることはできるかもしれない。ミユキはそう言ったが、肝心のユウキはこちらの世界にはおらず、『時空扉』も今は手元にはない。
改めて突きつけられた事実は、悠生の目標を粉々に砕く。
ユウキと世界の安全のために時空移動させられた悠生のゴールは追われている身から脱却することではない。あくまでも、こちらの世界から元の世界へ戻ることである。その手段がない、と宣告させられたのだ。
それを告げられた悠生は小さく微妙な反応しかすることができなかった。帰る方法を探すという決断はまだしてなかったが、その決断すらもさせてもらえないのだ。
告げられた事実は、悠生に明確なダメージを与える。
帰ることができないのなら、自分はこちらの世界で何をすればいいのか、と。