この世界には数え切れないほどの色がある
1
僕が絵を描き始めて、絵を銀座の画廊にもっていって、
「やあ、その手の絵ならだれでも描けちゃうんですよ」
「ごめんね、その絵は売れないわ」
ときっちりと断られた。
「ああ、そっか」
僕は思い知る。けっこう自分なりにうまく描けた作品だったのにな。
「悪いねえ。お兄さん」
画廊にいた男の人はそう言って
「でも、絵は描き続けてほしいなあ。お兄さん、将来、売れると思うよ。なにで売れるかはわからないけれど」
「あ、ありがとうございます」
あっさり振られたのだけれど、画廊の人は悪い人ではなかった。
僕はF12の大きいキャンパスを持って、銀座の画廊に持ちこんだ。あっさり返されたのだけれどね。ただ帰りの電車は心地良かった。
僕は何かでいつか売れるらしい。銀座の画廊の人は
「ただ、君の絵はまだ熟していないけれど」
と言った。
「熟す?」
桃じゃあるまいし。
「うん。君の絵はまだまだだ」
「そうですか」
僕は画廊の人に
「熟した絵というのは、わかるんですか?」
と聞いた。
「ああ。わかる。絵を描いている人間がどんな想いで描いたかわかる。僕らはプロだから、熟している絵なんて一目瞭然ですぐにわかる」
「へえ。まるで収穫前の桃ですね」
「そうだ」
「あの、僕は何で売れるんですか?」
「さあねえ。それは僕らもわからない」
僕は
「そっか・・・」
「君のこれからを期待している。本当は君の絵を買ってもいいんだけれど、今はまだ熟していないから買わない。本音いっちゃえば、1万円ぐらいのポケットマネーで買ってもいいんだがね」
そう言って銀座の画廊の人は、僕に交通費をくれた。1000円。僕はそれをずっと使わないでお守りにすることにした。帰りの電車でよくわからないけれど、涙が止まらなかった。
2
銀座の画廊『小林画廊』は、比較的最近できた画廊だった。僕に1000円の交通費をくれた人に、名刺ももらった。
名前は、無下さんという人だった。
僕は、キャンパスを抱え自宅に帰宅した。
「売れないって。まだこの絵は熟していないって」
母親は
「やっぱりね。銀座の画廊なんて、敷居が高いわよ。とにかく、メルカリとか、オークションとかでやってみなさい。あなたの絵はまだまだなんだから」
と言った。
確かに無茶苦茶なのは僕だ。
急に画廊に絵を持っていくんだから。
「あなたは美大をでているわけじゃないし、ただの趣味なんだから」
「うん」
「見てくれただけでもいいじゃない」
「そっか」
「うん」
母はそう言うっていつものように家事やら健康体操をしていた。
僕は部屋に籠ってベッドに寝た。
少し涙がでた。
確かに僕は美大を出ているわけではないし、趣味と言えば趣味なのかもしれない。
3
絵を画廊に見せてから3日経ったとき、無下さんから急に電話がきた。無下さんは、
「あ、小林画廊の無下です」
「あ、はい。広本です」
「ちょっと、絵の依頼がきていて、広本さんの絵が欲しくて」
「え」
「とりあえず、明日の小林画廊に来てくれますか?時間は13時に」
「は、はい。絵は持っていきますか?」
「もちろんだ。2枚は持ってこれる?」
「2枚ぐらいならどうにか電車で持ってこれそうです」
「じゃあ、よろしく」
そう言って、無下さんの電話は切れた。詳細は一切わからないけれど、僕は絵を依頼されているみたいだ。
僕はガッツポーズをした。
母と父に
「絵の依頼がきた」
「明日、小林画廊にもう一度行く」
と言った。
「本気か?」
父はそう言った。
「本当だよ」
僕は有頂天になった。また小林画廊に行ける。僕はもう一度使わなかった1000円札のお守りをみた。
なんとなくお守りにしていた1000円札が、笑ったような気がした。
涙は止まらなかった。泣いている場合ではないんだけれど、涙は止まらなかった。
4
朝。朝食を食べる時に母は、
「今日は威勢のよい食べ物でも食べなさい」
と言って、朝食はウナギ丼だった。
「ありがとう」
僕は全然前の日は眠れなくて疲れていたので、ウナギはちょうどよかった。
「昨日はあまり眠れなくてさ」
「そうでしょう」
母はそう言って笑った。
「ねえ。どんなことが起こるのかな?」
「お母さんは思うのだけれど、この世界には色々な色があって、ブルーだけでも400色はあるっていう。絵を描いていたら気付くと思うのだけれど、世界の成り立ちと似ているの。ねえ、そんなことを描いたんでしょう?この前の絵は?」
「うん、そうだね」
僕は自分の描いた絵を一番最初に母に見せた。
「きっとキャンドルの絵というのは願いとか祈りとかがあるんだろうな。あなたの中で、今起こっている戦争やくだらないみっともないいじめとかに対して」
母はそう言った。僕は
「実は絵にはいつも願いを込めているんだ。まるで皮肉家だね」
「ううん。皮肉家ではないわ」
母は、
「絵は、あらゆる痛みも消すわ。鮮やかな絵の具で」
「うん。僕もそう思う」
「気をつけて行ってらっしゃい」
そう言って僕はキャンパスを2枚持って、小林画廊に向かった。一枚はキャンドルの絵で、もう一枚は、もうこの世界にはいない愛犬の絵だった。
5
小林画廊に着くと、無下さんはすでに僕を待っていてくれた。
「あ、無下さん、こんにちは」
「広本くん。急にごめんね」
「いえ。絵、いちおう2枚持ってきました」
「ありがとう。それで、本題なんだけれど・・・」
「絵、もう一度見てもいい?」
「はい」
僕は画廊の奥にある部屋に案内された。そこは4人ほどが座れるテーブル席があって、無下さんと僕と、小林画廊の支配人の小林さんがいた。
小林さんは
「初めまして、小林画廊の責任者の小林です」
と言った。
小林さんはさっそく僕の絵を見た。
「うん。結構いい絵だな」
と考えながら言った。
「ありがとうございます」
なにもわからないけれど、その場は頷いた。
「キャンドル?」
「はい。僕は作品に反戦の意味を掲げています」
「へえ。なるほど。素敵なことだ」
小林さんは
「本題に入るけれど、この絵を、本の装丁にしたいと思っている。今、そこそこ売れている作家の装丁だ」
と言った。
「なんていう作家さんの装丁ですか?」
「君も驚くと思うけれど、久那知八景さんの装丁だ」
僕は驚く。
「久那知八景さんが?」
「うん、そうだ」
久那知さんと言えば、天才もいいところだ。なぜ、こんな無名の絵描きを装丁にするのだろうか?
「信じられなくて。久那知さんは本当にすごい作家だし、僕みたいな無名の絵描きを装丁にするなんて考えたことはなかったです」
「広本くんのSNSをみたんだ。久那知さんが」
「え?」
僕は自分のSNSを思い出した。
確かに僕はSNSで絵をあげていた。
「偶然キャンドルの絵をみたそうで」
「ああ。僕のSNSを見たんですか・・・」
「それでコンタクトをとろうと思ったんだけれど、君にはコンタクトをとることができなかった」
「そうですね。あまり変な人しか絡んでこないので、SNSはほとんど無視していました」
「ところが、君がSNSで小林画廊に絵をもっていったことを報告したのをみて、久那知さんは小林画廊に問い合わせをした」
僕はやっとわかった。
「あ、そういうことか」
「うん」
小林さんはそう言って、
「久那知さんは君の絵が好きみたいなんだ。このキャンドルの絵を久那知さんが直々に買い取りたいそうだ。いい?」
「もちろんです」
「あと、もう一枚は?犬の絵?」
「はい。この絵は、愛犬の絵なんです。フレンチブルドッグという犬種で、僕が絵を描き始める理由になった犬です」
「へえ。愛犬の絵から始まったんだ」
「はい」
「すごいなあ」
「今日は絵を預かる。いちおう犬の絵も久那知さんに見せてみよう」
「は、はい」
僕は絵を預けた。
後日、僕の携帯に久那知さんから電話がきた。
6
家に着いて、
「久那知八景さんが偶然ぼくのSNSをみて、絵の存在を知ったんだ」
と母と父に言った。
「え?作家の久那知八景さんが?」
「それで僕の絵を装丁にしたいみたいなんだ」
「ほんとうに?」
「うん」
母は、
「信じられない。奇跡ね」
と言ったのだけれど、泣いていた。
「僕も久那知さんに会うまでは信じていない」
父は
「俺も信じられないよ。そんな奇跡が起こるなんて」
と言った。
「僕も驚いている。絵を学んだことはないし、絵の売り方も知らない。でも、久那知さんは僕のSNSを見てくれていて、絵を装丁に起用したいと言っている。
とにかく、頑張る」
「うん」
7
久那知さんから僕の携帯に電話がきた。一呼吸おいて、電話にでた。
「もしもし」と僕。
「あ、もしもし。久那知です。広本さんですか?」
「はい。広本です。初めまして」
僕は息をのんだ。
「初めまして。こんにちは。久那知ですが、広本さんの絵を買い取りたいんだ。いきなりなんですが。
小林画廊で広本さんの絵を拝見したんだけれど、2枚とも買い取りたいと思っています」
僕は
「えっと・・・ほんとうですか?」
「はい」
「犬の絵もですか?」
「はい。犬の絵もすごく良かった。フレンチブルドッグですよね?」
「そ、そうですね」
「2枚ともすごくよかった。キャンドルの絵は、僕の本の装丁に使いたい。もう一枚の犬の絵は飾っておきたいんだ。
僕は犬が好きでね」
「あ、ありがとうございます」
「とにかく小林画廊にはそういうことで買い取りたちと伝えておいた。小林さんもすごく驚いていたよ。無下さんも」
「は、ほんとうに信じられません。僕自身も」
「ということだから、また小林画廊にきてくれ。明日の13時に」
「は、はい」
そう言って、久那知さんの電話は切れた。僕は電話が切れると、愛犬の写真をみた。愛犬は9歳の時に亡くなったのだけれど、死後も僕を照らしてくれている。まるで、太陽のように。すべては愛犬の絵を描こうという気持ちから始まった。愛犬は僕にやっぱり愛を教えてくれた犬だった。
愛を教えてくれただけじゃない、
僕に生きろと伝えてくれたんだ。
僕は涙が止まらなかった。
8
久那知八景さんは、日本を代表する作家のひとりで、僕みたいな人間になぜ手を差し伸べたのかわからなかった。単純に、絵を気に入ってくれたのだろうか?
僕はもう一度、小林画廊に行くことになった。今日は初めて久那知八景さんに会うので緊張していた。服装はきちんとした黒のスラックスに、水色のyシャツにした。足元は革靴にした。
母と父には
「一歩、進んだわね。おめでとう」
と言われた。
「うん」
「犬の絵も気に入ってくれたみたいね。八景さん」
「八景さん、犬好きで有名だから」
僕はそういうと、涙が出そうになった。愛犬のことを思い出した。すべては犬の絵から始まったから。
「行ってくる」
「行ってらっしゃい」
僕はとにかく銀座の小林画廊にむかった。
とにかく夏の太陽は僕を照らしてくれているみたいだ。総武線の電車の中で、僕はこんなにキレイに空が目の中に移ったことなんて一度もなくて、きっと僕は今、すごく幸せなんだ。
電車の中では涙を止めたけれど、やっぱり僕は幸せを感じていた。
9
小林画廊に着くと、無下さんと小林さんがすでに僕を待っていた。
「広本君。おはよう」
無下さんは笑顔だった。
「おはようございます」
小林さんも「おはようございます」と言った。
僕は緊張していたのだけれど、ほんのすこし嬉しかった。久那知八景さんに会えるから。
応接室に案内されて、僕たちは久那知八景さんを待った。
「緊張しているね」
無下さんはそう言った。
「はい」
小林さんは
「広本君の犬の絵の犬種はフレンチブルドッグだよね?」
「は、はい」
「へえ」
小林さんは
「フレンチブルドッグか。珍しいね」
応接室には僕の絵が二枚飾られていた。一枚はキャンドルの絵で、もう一枚が僕の愛犬の絵だった。
「広本君の絵の色彩がすごく八景さんは気に入っているよ」
「本当ですか?」
「うん」
「ありがとうございます」
そうすると、久那知八景さんがきた。
応接室にコンコンと音がした。
10
久那知八景さんが応接室にきた。
僕は
「初めまして、広本です」と言った。
僕は席を立った。
小林さんも無下さんも席から立っていた。
「こんにちは。広本さん。やっと会えましたね」
久那知八景さんは優しく微笑んだ。
僕は僕で涙がでそうだった。
「あの、まだ信じられなくて。どうして僕みたいなアマチュアの絵のSNSを知ったのでしょうか?」
「はははっ。お手柔らかにお願いしますよ。とにかく座ろう」
「は、はい」
と僕と無下さんと小林さんは座った。
久那知八景さんは、
「とりあえず、この絵の値段から聞きたい。キャンドルの絵を今度の新作の装丁に起用したいと思っています。
この本のタイトルは、
『この世界には数え切れないほどの色がある』
です。」
「絵の値段」と無下さんは言った。
「うん。広本君が決めるんだ」
わからなくなった。
「絵の相場がわからなくて。絵を売ったこともないし。3万円くらいですか?」
八景さんは
「3万?ずいぶん安く見積もるんだねえ」
と笑った。
無下さんも
「やすっ」って笑って。
小林さんは
「安いな」
八景さんは、
「3万でいいのか?」
「はい。材料費は、キャンパスで2145円で、絵の具は5000円ぐらいなので。ただ、フレンチブルドッグの絵は・・・・」
「うん」
「10万円ぐらいなら売ります」
と僕は言った。
「それでいい。二枚で13万」
八景さんは、そうして僕の絵を買った。
僕と八景さんは事務手続きが終わるまで二人で話した。
「あの、どうして僕のSNSなんて知ったんですか?」
僕のSNSはきっと誰も見てはいないだろうと思いながらやっていた。
「実はなんだけれど、君の飼っている犬に興味を持ったんだ」
「僕の犬ですか?」
「うん」
「君の飼っている犬の動画をみていたんだ。こっそりと。君の犬というか、君の愛犬の動画というのかな」
「ああ。僕の犬の動画を見てくれたんですか?ありがとうございます。この世界にいろいろな動画がある中で僕の動画を見てくれたんですね。愛犬はもういないけれど、きっと愛犬がいたら喜ぶと思います」
「そこから君の絵を見たんだ。そこで、タイトルが浮かんだ。『この世界には数え切れないほどの色がある』ってね。君の絵に鮮やかな色彩があって、僕ははっとしたんだ」
「絵を見ていただけで、そんなタイトルが浮かぶんですか?やっぱり作家さんなんですね。
すごいです。僕は、愛犬の絵がこの世界になくて、それで絵を描き始めたんです。まさか八景さんが絵を買うなんて一ミリも考えませんでした。愛犬には・・・本当に支えられました」
僕は涙が止まらなかった。八景さんは
「君は立派だよ。誰がなんていおうと立派だ」
「ありがとうございます」
八景さんは少し涙を見せた。
「八景さん。実は僕の犬は、僕と同じ病気だったんです。僕は、精神の障害があって、愛犬にも脳の病気があったんです。きちんと病院で検査はしていないけれど。僕はその時、すごく悔しかったです。悔しくて泣いてばかりいました。ただ、愛犬は僕を照らしてくれました。僕は愛犬を看取るまで、愛しました。同じ病気だからかもしれません」
「そうか。君は病気があったんだね。君の愛犬にも」
「はい」
「でも、神様は見ているから大丈夫だよ。君も。犬も」
「それを僕は願っています」
八景さんはそう言って、僕の絵を13万で買い、小林画廊を去っていった。僕と八景さんは握手をした。僕の手は震えていたのだけれど、八景さんの手は震えてはいない、力強い手の握手であった。
小林画廊の小林さんは
「八景さん、初めてお会いしたのだけれど、なんか素敵な人だったね」
と言った。
無下さんも
「は、はい」
僕は、
「本当に素敵すぎます」と言った。
「広本君はこれからも描き続けるといい。きっとまた誰かが手を差し伸べるだろう」
無下さんが言った。
僕は描き続けることを誓った。
11
僕は帰り道。
電車に乗っていた。
もう夕暮れが空を支配していた。八景さんの新作が楽しみで仕方がなかった。同時に、愛犬の話をしたのは八景さんだけだった。僕は誰かに愛犬の話をすることはないのだけれど、八景さんにはきちんと話した。
なんでだろう。
八景さんだからだろうか。
理由はわからなかった。
*
家に着くと、母と父が僕を待っていた。
「ただいま」
というと、母は、
「おかえりなさい。絵、どうだった?」
と言った。
「うん。13万で買い取ってもらった。八景さんの新作の装丁になる」
「八景さんの新作か。考え深いわね」
「うん。愛犬の絵は10万で買い取ってもらった。キャンドルの絵は3万で」
「そうか。すごいな」
父はすごく深く頷いていた。
「今日は、ご褒美にお寿司を食べましょう」
「ありがとう」
*
僕は部屋で一人きりになった。涙が止まらなかった。八景さんが手を差し伸べてくれた。絵だって価値ができた。この涙はうれしい涙だ。悲しい時の涙じゃない。
*
テレビをつけた。
『久那知八景さんの新刊。発売。8月25日。』
僕はそのニュースを横目に、ガッツポーズをした。
天井を見て涙が止まらなかった。
装丁は僕の絵だ。
母は、
「夕食たべよう」
と言った。
僕は泣いていたのを隠した。
「うん」
父も
「八景さん、新刊のニュースがやっているぞ」と言った。
僕は涙をふいて、部屋から一階のリビングへ降りていった。
体がいつもよりも軽かった。
八景さんの新刊が出るまでに僕はやるべきことはひとつだった。
夕食を食べると、
「ねえ、なんか信じられないわね」
母はそう言った。僕も父も母もみんな信じられなくて、でも、もうキャンドルの絵も愛犬の絵もなかったから、
「奇跡だなあ」
「うん」と僕は頷いた。
「そういえば、オーディブルのcm見た?」
「え?」と僕。
「フレンチブルドッグがでてくるの」
「ほんとうに?」
僕は喜んだ。
「もしかしたら、愛犬が導いてくれたのかな?」
「そうかもね」と父はうれしそうにした。
確かに犬はそういう存在なのかもしれない。犬は話すことさえできないし、どこが痛いとか言うこともできない。ただ、導いてくれるのは犬だったりするのかな。
やっぱり犬はワンダフルなんだ。
12
八景さんの新刊が出るまでに、僕は仕事を探すことにしていた。もちろん絵だけでは食べていけないし、13万というお金だって大切に使いたいお金だから。
仕事はインターネットの求人サイトを見て探した。僕がやりたい仕事は、なんだろうか。サラリーマンという選択はきっとないだろうな。
インターネットには色々な仕事があふれているけれど、その中でも僕がいいなあと思った仕事は、公園の管理の仕事であった。落ち葉をかき集めたり、伸びた雑草を刈ったり、トイレを清掃したり。そういう仕事があった。
求人は、『あべの公園』の管理であった。ここは自転車ですぐにいける公園であった。僕はここの公園でよくベンチに座ってひとりで本を読んだ。静かな公園で、誰もいない公園だけれど、ここで心を休めると気持ちがよかった。
求人サイトからメールで応募をした。求人に応募すると、『あべの公園』からすぐにメールがきた。
『面接は明後日の10時でよろしいですか?』
『履歴書をお願いします』
すごくシンプルな人なのだろうか。とにかく
僕はそのメールにすぐに返信をすると、すぐに履歴書を書いた。
『では、当日、お待ちしております』
明後日、『あべの公園』での面接がある。僕は部屋にある愛犬の遺影を見た。多分だけれど、愛犬が空から見守っている気がした。
13
明後日。『あべの公園』で面接の日。空は壮大に晴れていた。Yシャツに黒いパンツで向かった。自転車ですぐについた。僕は自転車置き場に自転車を置いて、ほんの少しいつものベンチで呼吸を整えた。
「さて、行くか」
夏の空を見ると、だいぶ心が楽になった。すごく緊張していたのだけれど、楽になった。
*
『あべの公園』の管理人室に着くと、
「今日、面接の広本です」
「ああ、はい。少々お待ちください」
男の人はすごく丁寧に言った。
「あ、どうぞ」
中に案内された。
*
面接をした人は向井さんという管理人室の人事の方だった。
履歴書を見せると、
「絵を描いているんですか?」
「はい」
「この公園は近くて?」
「そうですね」
「ほほう」
向井さんは
「いつ頃出勤できますか?」
「いつからでも」
と話した。
主に事務的な質問ばかりだったのだけれど、
「この公園。不思議な公園でしょう?」
「そうですね。あまり人気はないし、静かですよね。ベンチでよく本を読んでいました」
「あのベンチで?」
「はい。しずかな公園なので本を読んでいると、気持ちがいいんです」
「そうですか、よかったです」
向井さんは、そういうと嬉しそうにした。
「『あべの公園』は、静かな公園ですが、すごく地域の人に愛されているんです。ごくマニアの方なんですけどね」
と言って、向井さんは微笑んだ。
「明日から仕事、お願いできますか?」
「は、はい」
14
『あべの公園』は地元の公園で、静かすぎる公園だ。ここで仕事をすることになるとは思っていなかったのだけれど。向井さんは、絵の詳細はあまりきかなかった。案外、人間は人間に関心がないんだなあと思った。
僕は、八景さんの新刊がでるまで本当にあのキャンドルの絵が装丁になるのか信じてはいなかった。信じたいけれど、信じられなかった。
インターネットで八景さんの新刊の『この世界には数え切れないほどの色がある』の予約が始まっていた。僕は、店頭で買おうと思っていた。
発売日はついに明日だった。
仕事が終わったら、本屋へ行こうと思っている。
15
『あべの公園』で初めての仕事が始まった。9時に出社だった。目が覚めて、準備を整えて仕事へ向かった。
母は
「今日、発売日だわね」と言った。
「仕事終わった後に買いにいく」
僕はそう言って家をでた。仕事が終わるのは18時だ。
仕事は仕事で集中しよう。
*
初めて『あべの公園』での仕事が始まった。
管理人室には、向井さんがいる。もう一人は社員の苑さんがいた。
「初めまして。苑です」
苑さんはパソコンで資料を作ったりしているみたいで、あまり公園の清掃はしないそうだ。
「広本です、今日からよろしくお願いします」
向井さんが
「広本君は主に公園の管理をしてもらいたくて」
「はい」
向井さんはそう言うと、
「とりあえず、公園を一周して色々と案内をしよう」
向井さんと僕は公園をゆっくりと一周し、仕事の流れを教わった。夏は芝刈り、冬は落ち葉拾い、たまに業者の人と一緒にするそうだ。もちろんトイレ掃除もある。向井さんは、
「広本さんは絵を描くのですよね?」
「はい。へたくそですが」
「ううん。立派な才能じゃないですか。素晴らしい。絵を描くとは」
「昔、犬を飼っていて、犬の絵を描き始めたら、絵が好きであることに気が付いたんです。犬がいなかったら絵はきっと出会ってなかったです。運命を動かした犬です」
「ほほう。素敵な話だ」
「ここの公園にもよく一緒に散歩へ来ました。」
「あべの公園にも来てくれたのか」
「はい」
僕は夏の空を見上げた。夏の空は、まるで僕と愛犬を導いているような気がした。この公園に。
「とにかく体力勝負な仕事で悪いね。広本君は体力ある?」
「あると思います」
「じゃあ、今日は生い茂っている雑草をとにかく刈ってくれ。道具は、管理人室にあるので」
確かに体力が必要だ。
でも大好きな公園で働けるのは気持ちがよかった。
16
18時に仕事が終わる。
向井さんと苑さんは19時まで仕事をしているそうだ。僕は、仕事が終わり、自転車に乗った。今日は運命の日でもあった。自転車をこいで駅近くの本屋へ行く。
ドキドキしたのだけれど、ぐっと涙をこらえた。僕は今、人生の分岐点にいるのかもしれない。絵は本当に八景さんの表紙なのだろうか?
駅近くの丸善に着いた。
丸善の入り口には、八景さんの新刊がたくさん平積みされている。僕はその一冊を手に取った。手にすると涙がこぼれた。
タイトルは、『この世界には数えきれないほどの色がある』であった。
表紙はやっぱり僕の描いたキャンドルの絵であった。
哀しくてとか嬉しくてとかじゃない。
僕は涙をながした。
僕の小さな思いが、今、本になって形になったからだ。
まるで心にすごく小さな花がぽつんと咲いたような気持ちであった。
この涙は幸せな涙だ。
僕はこの気持ちを将来ずっと忘れないだろう。この景色も、この本も、この雰囲気も、きっと忘れないだろう。
僕はその本を買うと、家に急いで帰った。
母も父も僕もみんなその本を買った。
僕らはなんとなくだけれど、幸せを感じた。
17
八景さんには救われた。
八景さんの本は瞬く間にベストセラーになった。
僕は公園での仕事が気に入った。夏は刈っても刈っても雑草があった。でも気持ちがいい。業者の方と協力をして雑草を刈った。仕事をしていると、なんと無下さんが僕の働いている公園に現れた。僕は
「無下さん?お久しぶりです」と言った。
無下さんは
「広本くん。久しぶり。絵の調子はどう?」
と言った。
「絵?最近はぼちぼち描いていますよ」
「そうか」
「はい」
「実はね。広本君の絵を買いたいという人が多くいてね。八景さんの装丁を見てから。広本君、もう一度小林画廊に絵を描いてくれないかな?」
「ほんとうですか?」
「ほんとうだ」
無下さんはそう言った。
「今、家に一枚、売りたい絵があります」
「そうか。ではそれを小林画廊に持ってきてくれるかい?」
「はい」
「うん。よろしく」
無下さんは
「君はすごく良い方向に変わった。昔の君と今の君とでは別人と言ってもいいくらい変わった。この世界には変わらない人間もいるけれど、変わっていく人間が一番大切な事だ」
「ありがとうございます」
「仕事中に悪かったな」
「いいえ。また小林画廊に行くので」
「うん、その辺はよろしく頼む」
無下さんは
「じゃあ」
と言って帰っていった。
僕はぽかんとしたまま、でも、なんとなく絵を描き続けてよかったなと思った。
18
向井さんは
「どんな絵を描くのですか?」
と言った。
「実は、八景さんの新刊の絵は僕の描いた絵なんです」
「ほほう。それはすごい。本格的に絵を描いているんですね」
「真剣には描いていますね。本格的なのかな」
「八景さんか。懐かしいなあ」
「八景さんを知っているのですか?」
「うん」
僕は向井さんをよく見た。
「この公園であのベンチにいたんだ」
「ほんとうですか」
「ああ。本当だ。八景さんがまだ小説家として売れていないとき。何年も前だけれど」
「そうなんだ」
「『夏の空に君を思い出すとき』」
「八景さんの処女作」
「うん。知られていないけれど、処女作は、この『あべの公園』が舞台とされている。ただ、この公園であることは多く語られていない。
静かな公園だから」
「そうなんですか?八景さんがこの公園に来たんですか?」
「うん。売れる前にね」
「そうなんだ」
「この公園は、とても静かな公園だからね。それを八景さんも守りたくて、あまり公表はしていないんだろうな。たぶん」
「知りませんでした」
「知らなくても当然だよ。公表していないのだから」
と言って、向井さんはうれしそうにした。
「いつかまた八景さんに会いたいな」
僕は向井さんの表情を見て、やっぱり八景さんという人は素晴らしい人なんだなあと思った。ひたむきに小説を書く人は、他者から見ても素敵なんだろう。
「八景さんはいい人です。僕なんかに手を指し伸べてくれたし。僕ももう一度会いたいです」
僕と向井さんはそう言って、夏の空をみた。夏の空は八景さんを勝手に思い出させた。きっと八景さんはこのベンチで小説のアイディアを想像したのだろう。八景さんならきっとできるだろう。
「いつかもう一度会えたら最高だな」
向井さんはそう言って管理人室に帰っていった。
19
『あべの公園』に八景さんが現れたのは、偶然なのだろうか。向井さんが、
「あ、八景さんだ」
と言った。
「本当ですか?」
僕は八景さんをみた。
「八景さんだ」
八景さんはベンチで本を読んでいた。僕と向井さんは
「八景さん?」
と驚いた。昨日は八景さんの話をしていた。もう一度会いたい、って。奇跡だろうか。
「あ、広本君?どうしてこの公園にいるんだい?」
「いや。あの・・・。絵だけで生きようとは思っていなくて。働いているんです。この『あべの公園』で」
「そうなのか。これは驚いた」
「僕も驚きました。八景さんがいたので。『夏の空に君を思い出すとき』はここが舞台なんですか?」
「そうだ。非公表だが。この静かすぎる公園を損ねたくないからね。内緒だ。僕は執筆に疲れたらこの公園にくるんだ。ゼロだったころの自分に戻るためにこの公園に来るんだ。今はそこそこの作品を出せているけれど、あのころはなにもなくてね。この公園でセミの鳴き声や、夏の空の模様を見たりすると、なぜかもう一度書ける気がするんだ」
そう言って八景さんは僕と向井さんに笑いかけた。
「実は、八景さんがゼロだった時、この公園を管理していたのは僕でした」
「え?」
「向井と申します。『夏の空に君を思い出すとき』がデビューしたとき、すぐにこの公園が舞台じゃないかと思いました。あなたはいつもベンチで本を読んだり、ノートになにかを書いていたからです。この公園には、そういう人は長いこといなくて、きっと何かを描くだろうと思っていました。八景という名前が世に出て行ったとき、ベンチでいつも本を読んでいたあなたと一致したとき、僕はこの公園を管理していることを誇りに思いました。」
向井さんは泣いていた。
「あなたがここの公園の管理人なんですね。ありがとうございます。僕がゼロだった時、ベンチでよくあなたを見ていました。草を刈ったり、業者の方にスポーツドリンクを差し入れたり。僕はふつうの平凡な作家です。これからもずっとずっと。お仕事、頑張ってください」
「はい」
言葉はなかった。
言葉の代わりに涙がでた。
僕も向井さんも八景さんも泣いていた。
20
仕事が休みの日に、小林画廊に行って絵を渡そうと思っていた。
朝、支度をして電車に乗った。
電車はすごく空いていた。
僕は電車から夏の空を見ていた。
ふとしたときに涙止まらないのは、八景さんとの出会いがあったからかもしれない。僕は電車に揺られていると、ふと、絵を描く前の自分を思い出した。
あの頃はなにもない自分だった。
あれから僕は、少し変わったかもしれない。今、僕は大きく変わった。きっと誰が見たって。
*
小林画廊に着くと、無下さんがいた。無下さんは
「広本君。もう来てくれたの?」
「はい。今日は仕事が休みなので」
「絵?」
「はい」
「ありがとう。さっそく見てもいいかな?」
僕は絵を見せた。
無下さんは、頷いた。
「この絵は、ガラスの中に入った花?」
「はい」
「ほほう。なんだか意味がありそうだ」
「無下さん。実は僕、病気があるんです。20歳の頃から」
「そうだったのか。知らなかったよ。どんな病気なんだ?」
「電車に乗ると緊張したり、狭いところがダメだったり。いろいろとあって。それは、ガラスの中に入っている花を想像しませんか?」
「へえ。なるほど」
「この絵はそういう意味なんです」
「いい絵だ」
「ありがとうございます」
「広本君は、広本君が思っているよりも努力家だよ。小林画廊に絵を持ってきたり、SNSで発信したり、公園で草をひたすら刈ったり。いつか君の目の前に素敵な人が現れたら、きっと君はもっと素敵に輝くだろう」
僕は無下さんの言葉に涙を流さずにはいられなかった。
「無下さんこそ、僕を拾ってくれたんです」
「ううん。なにもしてないさ。僕はここで絵を売っているだけだ」
「違いますよ。絵は作者の命です。メッセージです。すべてです。無下さんは、ただ絵を売っているだけじゃないんですよ。きっと、本当の意味で、手を差し伸べたのは、この小林画廊です」
「ああ。そうかな・・・」
無下さんは驚きながら、うれしそうにした。
僕は絵を置いて帰った。
後日、その絵を買う人が現れた。
絵を買った人は、美沙という女性だった。
21
美沙さんという人が、僕の絵を買ってくれた。八景さんの本のファンで、『この世界には数えきれないほどの色がある』の装丁をみて、僕のことを知ってくれたみたいだ。美沙さんが直接僕に会ってみたい、とのことで、僕は会うことを了承した。本当はすごく恥ずかしかったのだけれど、普段、友達の飲み会にもいかない僕が行くことにした。理由はなんとなく。
僕と美沙さんは、銀座で待ち合わせをした。待ち合わせの銀座シックスの前は買い物のお客さんであふれていた。僕は美沙さんを待っている時に、無下さんや小林画廊の小林さんや、八景さんとの出会いに涙がこぼれそうだった。僕は孤独だったから。でも少なからず今は孤独ではないような気もした。
待ち合わせの16時になった。
美沙さんがどんな人かわからない。
「あの・・・」
後ろを振り向くと、美沙さんという人がいた。
「美沙です。初めまして」
美沙さんは僕が想像していたよりも、はるかに違う人だった。
「あ、広本です。初めまして」
「絵を購入したものです」
「あ・・ありがとうございます」
美沙さんは暑そうにしていた。
「熱いので、中に入りますか?」
僕らはとりあえず暑さをしのぐために銀座シックスに入った。
銀座シックスに入ると、僕は
「今日、36度みたいですね。日本は本当に暑いですね」と言った。すごく緊張していたのだけれど、天気の話題だけは尽きなかった。
「本当に暑いですよね」
美沙さんはそういうって笑った。僕も笑った。
「銀座にはよく来るんですか?」
「はい。銀座シックスのイタリアンで働いているので」
「イタリアン?料理人なんですか?」
「料理人です」
美沙さんはそう言ってもう一度微笑んだ。
「僕、料理は全然できなくて。うらやましいなあ。たらこパスタは作れるんですがね」
「たらこパスタおいしいですよね」
僕は唯一作れるたらこパスタの話をした。
「夕食はどうしますか?そこのイタリアンで食べますか?」
「いや、恥ずかしいので、普通の店がいいです」
「あ、そうですね」
美沙さんは
「近くにおいしい創作居酒屋があるので、そこでもいいですか?」
「もちろん」
22
美沙さんが案内してくれた創作居酒屋は、個室でゆったりとしていた。銀座には小林画廊の用事でしか来たことがなかったのだけれど、ここの店の雰囲気はさすが銀座という感じであった。
「ここの料理も結構美味しいんです。部屋も静かでしょう?」
美沙さんはそう言って、笑顔になった。
「はい」
レモンが入った水が置いてあって、
「ああ。すごくおいしい」
と僕がというと、
「うん。本当に外、暑いですよね」
料理がくるまで何を話そうか悩んでいると、
「広本さんは絵の仕事だけで生活しているんですか?」
美沙さんがきいた。
「いや。『あべの公園』という公園で、管理をしています。まあ、主に夏は草を刈ったりなんですけど」
「暑いうえに、もっと暑い仕事なんですか?」
「慣れましたけど」
「すごいなあ」
「美沙さんはイタリアンレストランで働いているんですよね?キッチンは、暑いですよね?」
「ははは。私達、暑い会話ばかりしていますね」
僕は笑った。確かに僕らはさっきから暑い暑いしか言っていない。
「キッチンはもう慣れちゃいました」
美沙さんは
「絵だけでは生活できないんですね」
とこぼした。
「1億とか1000万とか値段が高い絵じゃないのでね」
「でも、広本さんの絵はすごく素晴らしいですよ。だから買ったわけだし」
「ありがとうございます。買ってくれただけでも絵も僕もしあわせです」
「今回の絵は、ガラスの中に入っている花の絵だったのですが、どうしてそういう絵が浮かんだのですか?」
「絵は自分の思想とか、自分の人生とか、そういうものを描きたいときに描けるんです。突発的だったり、ずっと想っていることだったり」
「へえ。なんかかっこいいですね」
「すいません。まだまだですよ」
「ううん。広本さんの絵ってすごくエネルギーを感じるんです。生きているって気がするんです。絵も広本さんも。絵を通して、すごく勇気がでるんです」
「ありがとうございます。素直にうれしいです」
僕はまた涙がでそうになった。でもそれを止めた。
「絵ってすごく心の内面を示していると思いませんか?」
「それは思います」
「自分だったりするんです」
そう言って美沙さんは少し涙目になった。
「仕事は大変ですか?」
「天職だと思っています。料理の世界は
甘くないし、なんの世界だって甘くはないですよね」
「天職かあ。かっこいいなあ」
「広本さんにとって絵は天職じゃないんですか?」
「まだわからないんです。これから僕の手で証明していくんだと思います。天職だと思えたら、すごく人生楽しいですよね」
料理が運ばれてくるまで僕は、美沙さんをじっくり見ていた。料理の味なんてまるっきり覚えていなかった。
美沙さんは、料理人なのであれこれと教えてくれたのだけれど、やっぱり僕は、味なんてわからず、目の前にいる美沙さんを見ていた。
23
美沙さんとは意気投合して、何度か食事に行ったりした。会う時に、僕はきちんと美沙さんに気持ちを伝えようと思っている。好きであることを。
僕は人を好きになることがもうないと実は思っていた。昔、ひどい失恋をしたから。その失恋は僕の心をかなりえぐった。スプーンでアイスクリームをとるみたいに。思い返せば、それ以来僕は心を閉ざしたところがあった。でも美沙さんと出会って、閉ざしていた心が開いたのかもしれない。
*
今日は美沙さんがお休みだったので、僕の働いている『あべの公園』に行かないか?と誘ってみた。
「公園?行きたいな」
美沙さんは快くokしてくれて、僕らはあべの公園に行くことになった。
*
いつもは銀座で飲んだりしているけれど、今日は僕の職場に行くことになった。あべの公園で僕は気持ちを伝えようと思っている。
「八景さんの『夏の空に君を思い出すとき』
は読んだことはある?」
「もちろん。その本でファンになったの」
「本当?」
「うん。あの本のおかげで八景さんを知ったの」
「実は、僕の働いている『あべの公園』が舞台なんだ」
「そうなんだ。信じられないわ。あの本の舞台は架空の公園だと思っていた。本当に実在するなんて、ワクワクしてきたわ」
「この話は内緒なんだけどね。八景さんは公表していないから」
「うん。内緒ね」
そう言った美沙さんはすごくキレイな目をしていた。
24
『あべの公園』に着くと、美沙さんは
「この公園が舞台なのね。すっごく静かね」
と言った。
「でもすごくいいわね」
「八景さんはあのベンチでよく本を読んだり、ノートに小説を書いたりしていたみたい」
「座りましょうよ。せっかくだし」
「うん」
僕らは八景さんが座っていたベンチに座った。すごく静かな公園だなあと改めて思った。
セミが少々鳴くぐらいで、音という音はない。風もあまりなかった。
「どうです?小説の世界観と同じですか?」
「同じだわ」
美沙さんはそう言った。
「あの小説大好きなんだ」
「八景さんに直接、お会いしたことはないんですか?サイン会とか」
「ないの。でも、作家と読者は必ず繋がっていると思うんです。なんとなくそんな気がするんです」
「僕もそう思います」
セミの鳴き声は小さくなった。僕は決意を固めた。
「美沙さん」
美沙さんは「なに?」
「僕とこれからも長く一緒に生きて欲しいんです。結婚を見据えて」
美沙さんは真剣な目で
「はい。もちろんです。これからも」
と言った。
あべの公園は相変わらず静かだった。ただほんの少しセミが静かになって、僕らの話を盗み聞きしていたような気がした。
僕らは正式に恋人同士になった。
25
母と父には、今、結婚を考えている恋人がいることを伝えた。すごく喜んでくれた。僕は絵を描いたり、あべの公園で落ち葉を拾ったり、美沙さんの手料理を食べたりした。美沙さんは本当に料理が美味しくて、いつも救われている。僕は幸せを感じている。
僕は、実家を出た。
美沙さんと二人暮らしをするために。
*
*
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僕と美沙さんは二人暮らしを始めて1年後に結婚をした。僕の絵は、たまに売れたりしたり、売れなかったりするけれど、僕は絵だけで食べていけるようになった。あべの公園は退職した。
美沙さんはイタリアンレストランで働いている。
「絵、だけで生きようと思う」
美沙さんに相談すると、
「うん」
と深い相槌をした。
僕は今日もキャンパスに絵を描く。
それは僕の思想だったり、僕の思いだったりする。




