その2
そこは円形をした闘技場。
九十度区切りに造られた出口から、最初に三人の囚人が姿を現す。残りの一つには、この世のものとは思えない肉塊の化け物が閉じ込められている。何日も獲物を食らうことなく、血と肉に飢えた化け物が。
仁王立ちになって闘技場を見下ろした青年は、思う。
なんと、醜悪な闘技場か――と。
幾度となく、この闘技場に放り出された囚人達が、化け物に食い殺されるのを見て来た。それを、まるでスポーツでも観戦するかのように声を張り上げる、どこからか集まった無数の観戦者達。
この闘技場は、囚人達にとっての処刑場であり、観戦者達にとっての遊技場だった。
陽光を照り返す白銀の兜に包まれた凛々しい顔立ちを、害虫でも見るかのようにしかめる青年。昼間という時間帯のおかげで形を潜めた深紅の瞳で闘技場を見下ろす。年齢は二十歳ほどで、看守としては若手に入るであろう。いや、事実、彼は正式な〔ヘールヴァウンディア〕の看守ではない。
こんな格好だからこそ、彼を知る人物がその場にいても、気づきはしないだろう。いつも着ている黒装束は、忍び込んだ海賊船に置いてきた。
「俺も焼きが回ったか?」
青年が独りごとを呟く。
命を狙われているとしりながら、旅行のように旅を楽しむ獲物達。狙った獲物を港町で取り逃がしたと思えば、海賊につかまっていたり。海賊に化けて暗殺の機会を狙っていると、幽霊船とやらに向かわされている。
手段を選ばなければ、既に仕事を終えていたはずだ。つい先刻でも、獲物であるはずの少女に声をかけて、牢獄から出そうとしてしまった。そのまま放っておいたら、自然と化け物の食い尽くされるというのに。
「まぁ、あの小娘の暗殺を依頼した馬鹿どもは、殺られたみたいだからな。俺には関係ない」
依頼主の三人組が殺された以上、少女――セラスの暗殺は依頼に含まれていない。残るは、『バンガード』の長から受けた『 』のメンバー暗殺だけだ。どういうわけかセラスも『 』のメンバーとともに行動しているようだが、受けた依頼のリストに彼女の名前がなかったため、除外している。
ならば、なぜいつまでも闘技場で見張りに化けているのか。
強いて言うなら、離れ離れになった包帯の剣士達に、セラスの死にざまを伝えるため。それが――何百年も生きた吸血鬼が、人間の暗殺に身を窶して生き続ける、暗殺者カイナの獲物に対する手向けだった。
それに、この程度の窮地を脱出できないセラスの仲間を殺したところで、カイナが満足できるとは思えないからだ。
「それでは、しばし観戦させて貰おうか、魔法使いの小娘よ」
カイナはこの戦いを傍観に徹する。
カイナはセラスの背中を見詰める形で、その地平線上に見える鉄の柵が持ち上がる。
姿を現したのは、濃緑とも新緑とも言えぬ濁った緑の肉塊に、二節の虫の如き脚部を左右に八本ずつ付けた化物だ。芋虫にも近い頭部から徐々に胴を太くしていき、尾部に向かってまた細くなっていく。頭部と思しき部分には二本の触手が伸びて、何かを弄るように蠢いている。
触手の先端が丸く膨らんでいるため、初めて見る人間はそれを眼球だと思うだろう。しかし、これは単なる疑似餌の役割を果たし、実質の頭部に当るのは胴体についた円形に並ぶ巨大な口腔である。
八足をついた状態では見えないが、鋭い牙を軋ませて鑢のように獲物の肉を削る。
「ビガーモスがこれほどまで大きくなるとは、な。いったい、どれだけの囚人を食わせてきたんだ?」
「確か、今期の所長が就任してから――あそこに座ってる男だ。あの人が始めた処刑方法なんだが、まだ三ヶ月ぐらいかな」
直ぐ側の観客が、小声で囁き合っている。
闘技場で蠢く芋虫をビガーモスと呼び、成体の一般的な大きさは人間の頭部ぐらいしかない、下等な魔物の一種である。普段は、洞穴を掘って、頭部の疑似餌で小動物を誘い込んで捕食する。
「まぁ、原生的な魔物だから、どれぐらい成長するのかなんて調べた奴は居ないからよぉ」
「そうだな。それより、お前はどれに幾ら賭けたんだ?」
「いや……俺は、単に見学だ。囚人とは言え、人が食い殺されるのを喜んで見ていられる程、俺は冷徹じゃねぇよ。ほんと、どうしてこんなこと許されるんだ? あんな男を、所長に任命した奴の考えがわからねぇよ」
「おいおい、滅多なことを言うな。聞かれでもしたら……ッ」
話し合っていた観客の二人は、カイナが一瞥すると同時に口を噤む。
理由は、〔ガルニス〕に居ながらも分かっていた。
今から一年ほど前、〔アレキドル〕の政権が移ったことにより、社会主義から一種の独裁政権へと変わったのだ。ここ〔ヘールヴァウンディア〕も、元の領主が死去して今の所長が就任した。正しくは、させられた。
けれども、所長本人は独裁的な現政権を笠に着てこの醜悪な遊技場を作り、賭博をしながら私腹を肥やしているというわけである。
今現在、こうして行われている児戯が良い例だ。
八本の足が交互に蠢き、ゆっくりと獲物に近づいて行く。
出場者である囚人に与えられているのは、各々一本だけの刀剣。セラスにおいては、【魔法使い】の職を持っているためか、武器を渡されずに生身で佇んでいる。
男でも、その醜いビジュアルに嫌悪感と恐怖心を抱くビガーモスを目の前にして、女性である出場者達が真っ当な神経を保てるわけがない。怯え、使い方も分からぬ剣を羽虫でも追い払うかのように振り回す。尻餅を付いて、必死に手足で足掻きながら逃げ惑う。
盲目というハンデを逆に生かしているセラスだけが、怯えることなく冷静に状況を観察する。
「だが、目がない状態でどこまで戦える? 逃げ回ることはできるだろうが、闘技場の猛者相手に勝てるのか?」
セラスがどれほどまで状況を確認できているのか、一度は逃した標的に対して僅かながらの興味を持つ。
視覚は零と考えて、嗅覚は人並みと言ったところだろう。聴覚は鋭い――と言うよりも、微かなニュアンスを聞き取ることを得意とする。第六感を信じているわけではないにしろ、どこかに人並みより優れた知覚能力を持っているのだと、カイナは考えた。
しかし、問題はそこではない。
たとえ魔法が使えたところで、杖を持たない【魔法使い】は微風や焚き火を起こせる程度の力しか出せない。通常サイズのビガーモスならば充分に追い払えるだろうが、これまでに十数人の囚人を喰らってきた化物に効果があるとは思えないかった。
そんな予測を立てているところで、甲高い悲鳴がカイナの耳朶を撫でる。