その1
カビ臭い、湿った嫌な臭いが鼻孔を擽る。
鼻を摘まもうにも、両手を後ろ手に縛られているため、できない。どうにか口で呼吸をしながら、薄いローブを伝う、石畳の湿り気を持った冷たい感触に耐える。
周囲を石で囲まれた部屋というのであれば、『 』に運び込まれた時の部屋と大差はない。けれど、そこにある温もりには雲泥の差があった。しかも、セラスを閉じ込めている扉は、木製のものではなく重厚な鋼鉄の鉄格子だ。
未だに海賊船で囚われの身をやっているのか、と聞かれれば――否、と答えるしかない。セラスは今、とある場所の牢獄に放り込まれているのだ。
「アケットさん……。ジェイルさん、カフィーさん、皆、無事かな?」
足枷を嵌められた両足を引き寄せ、セラスが誰ともなく問う。
いつもなら背中で無駄口を叩くジョニーが答えてくれるのだが、今日に限っては彼の姿もなかった。ここへ来た直ぐに、口応えをして何処かへ連れていかれてしまった。ジョニーのふざけた声が聞こえてこないだけで何よりも心細く、不安に胸を締め付ける。
幽霊船に乗り込んだ三人の安否を心配している暇さえないというのに、セラスは何処かに逃避する先を探そうと足掻く。そんな折、誰かが声をかけて来た。
「おい、小娘」
距離からすると、鉄格子の向こう側だろう。
聞き覚えのない声は、たぶん見張りの誰か。流石のセラスでも、十数人以上もいる人間を声で聞き分けるのは難しい。
「私、ですか……?」
周囲の気配で、牢屋に入れられているのが自分だけだと分かりながらも、セラスは念のために見張りに問い返す。しかし、何故か見張りの声が返ってこない。自分のことではなかったのか、と疑問に思っていると、石畳を敷き詰めた階段を下りてくる足音が薄暗い牢獄に反響する。
それ以上の言葉がなかったことに安堵したのも束の間、牢獄に足を踏み入れた何者かの声が再び悪夢を蘇らせる。
「おい、小娘。お前の番だ」
こちらは、聞き覚えのある見張りの声だ。
数日前から、セラスは夜も眠れない恐怖に苛まれていた。この恐怖から逃れるための逃避行さえ、男の声を聞いた瞬間に泡沫へと帰してしまうのだ。
この見張りの男が牢獄を訪れる度に、幾つも並ぶ牢屋から響く大人達の喚き声。
『嫌だッ!』
『止めてくれッ!』
『俺はまだ死にたくないッ!』
一人だったり、二人だったり、時には十数人がそんな悲鳴を上げて懇願する。命乞いをする。
中には、セラスをこんなところに連れて来た海賊達の声も混じっていた。最初は自業自得だ、と思っていながらも、徐々にその悲鳴はセラスの入っている牢屋に近づいてくる。一度連れだされた彼らが、再びここへ戻ってくることがないことには気づいている。故に、外で何が行われているか分からずとも、自分の命に危機が迫っていることぐらい容易に理解できた。
「お前だよ。魔法使いの小娘。あぁ、目が見えなかったんだな……可哀そうに。内のボスは、誰だろうと処罰を許したりはしないからなぁ」
見張りが呟く言葉に、嘲りこそあっても同情はない。しかし、何処かに恐怖を包み隠した声音にさえ聞こえる。恐怖で感情を支配され、麻痺した心が囚人を地獄へ連れ立たせる。
それがここ、〔地獄の猛犬〕と呼ばれ処刑場だった。双竜の大陸から南に海を渡った、黒金の大陸北東端に、ここはある。
正式な手続きを踏んで訪れれば、観光でも移住でも可能な工業大陸だが、不法入国者に対しては厳格な処罰が行われる。セラスもまた、運悪く海賊船と共に黒金の大陸に上陸してしまった、不法入国者だった。霧が晴れたかと思った瞬間、海賊船は三人を幽霊船に残して航行を再開してしまう。セラスの異論など聞く耳を持たない海賊達は、二日程の航行の後に手近な浅瀬に船を付けたのだ。
それが、〔アレキドル〕だったわけである。
「あそこで、私が逃げ出そうなんて考えなければ……」
上陸後の自分の行動を後悔するセラス。
海賊達が安堵して気を緩めたところを、セラスは自力で逃げ出そうと浜辺を走った。走り、たどり着いた先が岬に建てられた〔ヘールヴァウンディア〕の牢獄。
「私、つくづく運がなかったみたいですね……」
「おい、さっきから何を一人でブツブツ言ってるんだ? ほれ、着いたぞ」
何度、事情を説明しても取り合ってくれない見張りの男が、怪訝そうにセラスを睨みつけてくる。
しばらく素足で石畳の階段を上ってみれば、光の差し込む何処かに連れてこられていた。
「こ、ここは……?」
「お前は、今から裁判に掛けられる。ルールは簡単だ。勝てば無罪放免。負ければその場で死刑。分かりやすいだろ?」
「どういう、ことですか? 勝つだとか、負けるだとか、普通の裁判って意味じゃありませんよねッ?」
問いに答えた男の言葉に、セラスは戸惑いつつも食いかかる。
男はそれ以上なにも言わず、手足を戒めていた枷を外してくれる。もちろん、『封魔の錠』も外された。
直ぐに歯車が回る音が、岩石に囲まれた室内に反響して正面の鉄柵らしきものが引き上げられる。状況を整理する暇も与えてくれず、男が背中を押して光の差し込む先へと促されてしまう。
久しく見る陽光に軽い目眩を覚えながらも、セラスはゆっくりと前に踏み出した。
砂地の地面が砂埃を立てる。風を感じるのだから、ここは室外なのだろう。周囲を包み込むのは人のモノであろう大多数の歓声だ。
『それでは、只今から今日の第一試合を始めます――』
歓声に混ざって響いてくるのは、風の魔術で増幅されたアナウンスの声。
砂地に歓声、試合という単語から、セラスはそこが何らかの会場であることを察する。ただ、降り注ぐ陽光が立ち昇らせた反射熱に乗り、微かな臭いを感じ取る。単なるスポーツの類、というわけでもなさそうだ。
『――ルールは簡単です。集められた三人の囚人で、協力し合って処刑執行者を撃退してください。生きて撃退できれば、無罪放免となって解放されます』
アナウンスの声がそこで止む。
やはり、ここは裁判所であると同時に処刑場なのだ。
否応なく鼻孔を突きあげる血臭は、足元の砂が数え切れぬほどの血を吸ったことを教えてくれた。そして、処刑執行者と呼ばれる何者かも、人間の情など持たぬ化け物であることが、漂う腐臭で想像できた。