その3
この幽霊は、どうやらアケットが女であることに気づいていないらしい。
まあ、そんなことを教える義理も、必要もないが。
膾切りにできないことは悔しいだろうが、カフィーがアケットの代わりに前へ出る。
「アケットさん、ここは私に任せてください。剣がだめなら、私の浄化魔術で」
「おいおい、冗談じゃないぜ。善良な幽霊を、剣士どころか修道女まで、寄って集って苛めるつもりかい?」
すると、幽霊が減らない口を開いてくる。
その言葉に、カフィーの良心が疼く。
神こそ信じていないものの、信仰するのは人である。人は人に傷つけられ、人は人を傷つけて生きていく。故に、傷つけずに済むのならばそちらの最善の方法をとるべきである。と、師匠である神父にカフィーは教えられていた。
「う、うぅ……それなら、こんな悪戯は止めて先に行かせてください。あなたたちだって、こうしていつまでも現世に縛り付けられたままでは嫌でしょう?」
無理やり浄化させるのは非人道的と、今度は説得にかかるカフィー。
その説得に、幽霊が露骨な嘲笑を浮かべる。
「はんッ、そいつは勘弁願いたいね。確かに自分たちでは成仏できないかもしれないが、こうしているのもあながち悪い気分じゃないのよ。そもそも、勝手に攻撃を仕掛けてきたのはそっちのお兄さんじゃんか」
『……ッ』
幽霊に図星を突かれ、三人は一様に口を噤む。
言われてみれば、相手の幽霊はこちらを驚かせるために姿を見せただけだ。それに対して、問答無用で切りかかったのはアケットだった。
いや、そもそも、無視して通り過ぎようとしてこの幽霊は道を開けてくれたのか。
「じゃあ、先ほどのことは謝ります。これで、先に行かせていただけま――」
「――嫌だね。元から通す気なんて、まったくゼロ。ギャァーハッハハハハハハッ!」
即答と、嘲りを含んだ笑い声。
これで、カフィーを良心の呵責で抑えていた何かが一気に吹き飛んだ。寝具を中に投げ飛ばすぐらい簡単に。
カフィーの表情が陰り、少し俯き加減で小さく口を開く。
「我らが主よ、天に召しますのは……この糞ったれ幽霊じゃぁッ!」
カフィーが切れた。
堪忍袋の緒が切れて、清楚で瀟洒な言葉遣いなど忘却の彼方へ放り出す。
カフィーは生まれついての修道女ではない。孤児だったところを、【神官】をしていた師に拾われて背徳都市へやってきた。始まりは大陸の人々に救いの手を差し伸べる行脚で、光による癒しの魔法を主とした【アコライト】の職を学びながら師に着き従う。
中位職では師の意志を継ぎたいと思い、魔法や魔術に限らぬ癒しの術を学ぶ【治療師】ではなく【神官】の道を歩んだ。
「酒を飲むは、面倒臭がり屋で、何を考えているか分からない師匠ですが、まだ可愛らしい方だと思います。けれど、私をこれほどまでに怒らせたのは貴方が初めてです」
言葉を紡ぐと同時に、船内にある微かな光を周囲に集める。魔術は魔法と同じで、その場に内在する属性しか扱えない。ただ、魔法では光球を一つ作り出せるのが精いっぱいの環境でも、魔術ならば形質を使用者の独自のノウハウで形成できる。
薄暗い通路に十数本の光を飛翔させた。
少しでも触れれば亡霊を浄化する力を持った魔術だ。
だが、直線に飛来する魔術を幽霊は苦もなく避けてゆく。
「これでも、こんな姿になる前は腕の立つ海賊だったんだぜ。この程度の攻撃でどうにかできると思うなよ。ほぉ~れ、お返しだッ」
光線を全て避け切ったところで、幽霊がどこからともなく小さな宝箱を取り出し、ジャグリングを始めたかと思えばそれを連続して投擲してきた。
「曲芸師の間違えだろッ?」
投擲された宝箱を、カフィーに直撃する寸前のところでアケットが|舶刀《カットラスで弾き飛ばす。が、地面や壁にぶつかったかと思っていた宝箱が独りでにカフィーやジェイルへ襲いかかる。
考えてみれば、敵の武器が単なる宝箱だというのはおかしい。それ自身も、幽霊の一部だと考えた方が違和感も生まれない。
『なッ……?』
三人が同じ油断をして、鍵穴から突きだした鋭い針がカフィーとジェイルの四肢を抉る。アケットだけが、再び飛来した宝箱を天井に弾き事なきを得る。
「油断大敵。この船の全てがお前らの敵だと思えよぉ~。ほぉ~れ、どんどん行くぞッ」
一難去ってまた一難。
アケットを集中的に攻撃しながらも、不規則に飛び交う宝箱が後衛のジェイルやカフィーにも迫る。
ただ、バウンドすることが分かっていれば速さは子供の投擲ほどのもの。武器で叩き落とすことは差ほど難しくない。が、ここぞ、というところで自分たちは油断してしまうのだ。
「槍が……」
銀槍で宝箱を撃墜しようとしたところで、それが床板に飲み込まれようとしているのに気づく。粘度の高い泥に突っ込んだように動かない槍が、身を守るのとは逆に自分の足枷となる。
今度は頭を貫かんと、鋭い針を突出させた宝箱がカフィーに迫る。
「放せッ!」
戸惑っていると、アケットが声を張り上げて叫ぶ。
慌てて槍を手放したところで、アケットが腹部に向かって勢いよく飛びこんできた。海賊船で連れ去られるまでに、何も胃に入れてこなかったことがせめてもの救いだ。
腹部にダイブを決めて来たアケットとともに、カフィーは船室の一角に扉を砕きながら転がり込む。
「あ、アケット、さん……。私は、貴方達のように鎧なんて着てないんですから、もっと優しく扱ってください……」
「修道女さんは割れ物注意、てか? それなら張り紙の一つでもしておけ。ジェイル、そいつをこの部屋におびき寄せろ」
カフィーの苦悶を含んだ抗議を軽く一蹴して、アケットがジェイルに指示を出す。何か作戦を考えたらしいが、アケットは察しろと言わんばかりに説明もしない。
「おびき寄せろって、そんなことを大声で言ったら相手にも聞こえちまうだろうが……って、来てくれちゃったし」
「なになに、何か面白いものでも見せてくれるのぉ~? ベッドの上での絡みならお兄さん大歓迎だよ」
わざわざこちらの策略に嵌りに来てくれたことを感謝しながらも、何やら卑猥なセリフは無視をする。
アケットが簡素な部屋に置かれたベッドから襤褸切れ――もといシーツを手に取って、口角を鋭く吊り上げる。
「ベッドメイクは手前ぇに任せるぜッ!」
アケットの投げたシーツが幽霊の視界を隠す。
瞬間的にシーツへ向かって肉迫したアケットを見て、カフィーはその意図に気付く。あまり背中を任されることなどはないが、いつもアケットやジェイルの世話焼きをしていると、誰がどんなことを考えるのか少なからず分かってくるものだ。その日に皆が食べたい物だとか、どのタイミングで問題を起こしてくれるかだとか、最近になって分かるようになった。
世界観の説明が全然なされていないことに気付いた今日この頃……。
まあ、その役目はカフィーのお師匠さんがしてくれると思いますので、五章ぐらいまでお待ちください。