その2
深い霧に覆われた甲板からは、海面どころか二メートル先の風景さえ見えない。
ただ、霧の向こうに薄っすらと船のシルエットが見えるのは確かだ。シルエットだけで判断すれば、アケット達が乗っている海賊船よりも大きい。
甲板に集まった五十人以上の海賊達からは、不穏な気配が漂ってくる。
まさか、海賊船が海賊に襲われたなどという冗談は言うまい。いや、一向に誰も乗り込んでこないことを鑑みても、海賊船ではなさそうだ。
「幽霊船だよ」
細身の海賊が、聞かずとも答えてくれる。
「幽霊船? あぁ、だからこんなに嫌な空気が流れてるわけね」
一瞬、何の話かと思ったものの、それを聞いてアケットは納得した。
霧の所為で衣服は湿り、海上の温度と相まって不快にさえ思えると言うのに、その身を襲う言い知れぬ悪寒はタダならない。
良く目の前の船を見てみれば、所々が大破し、浮かんでいることさえ不思議に思える状態だ。
「けどよ、例えこれが幽霊船だったとしても、無視して通り過ぎればいいだろ?」
「それができたら苦労しねぇよ。何か分からんが、吸い寄せられるようにまったく船が動かねぇんだ……」
ジェイルの疑問に、恰幅の良い海賊が苛立った声を出す。続けて、
「この世界の海にはなぁ、こんな伝説があるんだ。――過去に大勢の乗員を乗せた船は、魔王の起こした嵐に巻き込まれて海の底に沈んだ。その船は幽霊船となり、世界中の海を目的もなく渡る。突如として霧の中から姿を現し、出会った船は亡霊たちの怨嗟と共に海の底へ引きずりこまれる」
船乗りに伝わる子供だましの逸話を口にする。
「それで、こいつに乗り込んで様子を見て来いってことか。どんな依頼でも喜んで受けるつもりだが、今回は相当に厄介な仕事を持ち込んでくれたな」
呆れるような話に、アケットが肩を竦める。
引き受けなければセラスがどうなってしまうのか、想像に難くはない。引き受けざるを得ないものの、決して勝算がないわけではなかった。
相手が幽霊だとか亡霊と言った魔物相手ならば、【神官】の職に就くカフィーが最も力を発揮できる場所であろう。
「昔の逸話なんてものは眉唾だと思うが、カフィーはどうだ?」
「えぇ、師匠ほど分かるわけではありませんけど、彼らは何かを求めて世界中の海を渡っているようです。強い力が、彼らをこの世界に留めているみたいです。たぶん、強い悔恨が集まったためか、降零術で魂を繋ぎとめているんでしょう」
毎度のように、師匠に敵わないと言っているが、そこまで分かれば充分だとアケットは思う。
「武器は、とりあえず返してくれるんだろうな? まぁ、幽霊相手じゃ剣も何もあったものじゃないが」
「返してやるが、下手な真似をすると人質の命はないぞ」
「分かってる。幽霊退治でことが済むなら、死人を出すよりは穏便だ」
分かりきったことを、とアケットは呆れながら海賊達から渡された武器を手にする。どこまで物理的な攻撃が通用するのか知らないが、いざとなればカフィーの浄化魔術でどうにかなるだろう。
そうして、アケット達は準備を整えて、小船に乗り幽霊船へと潜入する。
近づくにつれて寒気を増してゆく霧の中、幻聴かそれとも亡霊の怨嗟の声か、潮凪に似た低い音が周囲を包み込む。
ある意味、人質になったのがセラスで良かったと思う。
目が見えない分、周囲の気配や感性に優れたセラスでは、幽霊船の中まで連れてくることができなかったかもしれない。
「ふむ……。特に、何も出てこないな」
幽霊船の甲板に上ったところで、アケットが怪訝そうに呟く。
到着した瞬間に盛大な歓迎を受けると思っていたのが拍子抜けし、何も起こらない甲板で数分の待ち惚けを食らわされる。もちろん、幽霊の襲撃を態々望んでいたわけではないが。
「船室のほうに行って見ましょう。もし彷徨っている幽霊さんがいるのなら、解放して上げないと可哀そうです」
カフィーはそれなりに乗り気のようだ。
「彷徨っているだけなら良いが、本当に海へ引き摺り込まれるなんてことになるのは勘弁だぞ」
作り笑いを浮かべてジェイルが返すも、どこか表情が引き攣って見える。
考えてみれば、剣の道を究めようと双竜の大陸を旅していたアケットとは違い、ジェイルが亡霊系の魔物と見えたことが少ないのは当然だろう。
ジェイルの表情を見て、カフィーが大丈夫と微笑みかける。そして、なぜか講釈が始まる。
「そもそも、亡霊系の魔物には三種類が存在します。一つは、強い思念が現世に残留することで亡霊となり、怒りの矛先を人間に向けてしまったもの。二つは、【呪術師】の死霊術によって意図的に作り出された生ける屍。三つ目は、死霊術を石などの物質に埋め込んで作るゴーレムです。今回は、一つ目の例が当てはまるでしょう」
今回の例では、現世に思念が残留することとなった原因を解きほぐしてしまえば、この霧から解放されると言うのだ。
アケットとジェイルは納得こそするが、根底にある原因がまったく分かっていない。流石にカフィーでもそこまでは分からず、実質のところ手詰まりなのだ。
「……探索してみるしか、ないな」
船室へ下りる階段の前に佇み、アケットが溜息を漏らす。
灯りのない階段の下は深い穴倉のようで、風鳴りか亡霊の怨嗟か、低く鈍い音が駆け上がってくる。
「ここを進むのか……?」
「正直、俺も行きたいとは思わないよ。だが、本当に船を引き摺り込むっていうのなら、どれだけの猶予があるのかも分からん」
「急いだ方が良いのは、確かですね」
ジェイル、アケット、カフィーが意を決して、ゆっくりと階段を踏み締める。
軋む木材がまるで自分達の侵入を知らせているようで、自然の気配を消そうとしたのも無意味だった。故に、階段を下り切ったところで三人は少し遅い目の歓迎を受けることとなる。
「イッツ・ウェルカーーーーーーーームッ!」
始まりは、そんな愉快で元気な声からだった。
『…………』
嫌味ったらしく垂れ下がった細目に、薄っすらと分かる顔の各パーツ。全体を見ることができないほどにズームアップしてきた白い塊に、三人は沈黙しか返すことができない。
「もう少し、離れてくれるか……?」
驚くことさえ忘れて、アケットは鬱陶しそうに目の前の幽霊を押し退ける。
ピエロが被るような二股の帽子を被り、例の如く足のないやや肥え気味の幽霊がそこには居る。正直、唐突ではあったものの恐怖を抱くことはなかった。たぶん、幽霊にも人を驚かすのが得意なのと下手なのがいるのだろう。
人それぞれ、幽霊それぞれ、皆違って皆良い、だ。
「ノリが悪いよ、お客さん達。そこは、キャーとか、ウワーとか、悲鳴を上げて来た道をUターンしちゃうところだよ。はい、リピートアフターミー。イッツ・ウェルカ……ちょ、ちょっと、何で剣なんて抜いちゃってるのさ、包帯のお兄さんッ?」
「いや、盛大な歓迎にお礼の言葉もなくてな。その代わりとは言っては何だが――」
けれど、アケットは目の前の幽霊に疎ましさを覚え、腰の舶刀を静かに抜き放つ。
「――こいつを受け取ってくれッ!」
高速の二連撃が目にも留まらぬ速さで幽霊を三枚卸にする。
しかし、アケットの手には何かを切り裂いたような感触はなかった。
「幽霊がこの程度で死ぬと思っているのかい? 幽霊は無敵なのさぁ~。ナメちゃいけないよぉ、お兄さん」
「チィッ……」
口の減らない幽霊に、アケットが小さく舌打ちした。