第5話 温もりの残るうちに
最後のカクテルは、すべてを思い出す代わりに、何かを失います。
それでも、呼びたい名前がありました。
最後の一杯は、まるで記憶そのものを注いだようだった。
グラスに満ちた液体は、澄んだ琥珀。けれど、その奥に、どこか青いものがゆらいで見えた。
「これは……?」
「“選ぶ記憶”です。思い出すか、思い出さないか。それを決めるのはあなたです」
手に取ったグラスは、少し熱を持っていた。
この温もりが失われる前に、決めなくてはならない。
すべてを知る代わりに、何かを手放す覚悟を。
一口。
——声がした。
「また、あの本を読もうね」
「雨が降っても、一緒に帰ろう」
「ずっと忘れないって、言ってくれる?」
ああ。
あの声は、彼女の声だった。
初めて出会った日のこと。少しずつ心を重ねた時間。
そして、最後に交わした約束。
「忘れていいよ。でも——」
そこまでだった。
けれど、今なら分かる。
本当は、忘れてほしくなんてなかった。
あれは、諦めと願いが重なった、ひとつの矛盾だったのだ。
「……アカリ」
その名前が、口から零れた瞬間、胸の奥で何かがはじけた。
ひとつの記憶が、最後まで戻った。
彼女の名前。
世界で一番、大切だった音。
グラスを置くと、マスターが静かに言った。
「よく思い出されましたね」
「もう、忘れません」
「代償として、他の誰かの記憶が消えるかもしれません。それでも?」
「構いません。それでも……彼女だけは、残しておきたい」
マスターは小さくうなずいた。
「それは、あなたの選択です」
店を出ると、風が頬をなでた。
春の香りが混じった夜風だった。
歩きながら、胸に手を当てる。
そこにいた。確かに、アカリがいた。
思い出せた。呼べた。もう、失わない。
——温かさが、まだ指先に残っていた。
忘れたままでいたほうが、きっと楽だった。
けれど、楽ではなくても、温かかったものがあった。
名前を呼べたなら、それだけで、物語は終わりではなく“帰り道”になるのだと思います。